「安倍一強」などとメディアにおだてられて傲慢と高慢の極みにあるがゆえに、「権力は腐敗するものであり、絶対的な権力は絶対的に腐敗する(Power tends to corrupt, and absolute power corrupts absolutely)」(アクトン卿)という名言が一段とリアリティをもってきた。『朝日新聞』3月2日付の「森友文書 書き換えの疑い」というスクープは、特定のメディアに対して国会答弁やフェイスブックまで使って叩く安倍首相の粘着質で異様な攻撃に対する渾身の「倍返し」となるか(左側の写真は2月28日~3月2日付各紙)。
第二次安倍内閣発足直後、『ニューズウィーク』誌は安倍首相を「フェイスブック宰相」と特徴づけたが(右側が表紙の写真)、この5年あまりの間で、その傾向はさらに進化しているようである(「インスタグラム」の利用など)。「いいね!」「いいね!」のアクラマチオ(喝采)に勘違いして、批判されるとムキになって言い返す。政治家に不可欠な太っ腹と図々しさ、面の皮の厚さはこの人には期待できない(2月18日午前、散歩中に通行人に声をかけられたときの貧しい反応参照。政治家なら笑って何か言葉を返すだろう)。社会の「スマートなアホ化」は、政治の世界でも劇的に進行している。
この「フェイスブック宰相」は理性と知性よりも、感性と感覚にうったえ、4年前、安保法制懇報告書の極端に単純化されたモデルを経て、集団的自衛権行使容認へと政府解釈を強引に変更させた。この安倍流「情念的感情政治」の手法はその後もさまざまな場面で使われ、いま、憲法という一国の重要な基本法を変えるという場面でも頻用されている。
手始めは、「憲法学者の7割が違憲というから9条を改める」というアベコベの論理の展開である。それがはっきりした形であらわれたのは、2016年2月3日の衆院予算委員会における、「次期首相に一番近い」とされていた稲田朋美政調会長(当時)とのかけあい漫才のような質疑だった。稲田氏が、「憲法9条第2項の文言について、憲法学者のおよそ7割が自衛隊はこの条項に違反ないし違反する可能性があると解釈している。このままにしておくことこそが立憲主義を空洞化させるものだ」と質問するや、安倍首相は、「7割の憲法学者が、自衛隊に憲法違反の疑いを持っている状況をなくすべきではないかという考え方もある」と答弁した。憲法がまずあって、その条文に反する状態がその後に生じているわけで、憲法研究者の多数は学問的にそう解釈しているにすぎない。憲法学者を「悪者」にして、長年にわたる違憲状態を「合憲化」させようという手法は「アベコベーション」そのものだろう。
次の改憲アベコベーションは、昨年5月3日、『読売新聞』における唐突な改憲案の提起である。2012年の自民党改憲草案では、9条2項を削除して国防軍を置くとなっており、これに党議拘束をかけてきたにもかかわらず、総裁たる安倍首相が、9条2項を維持した上で自衛隊の存在を明記するという新たな提案を行ったのである。こういう手法は、自民党内でそう簡単には支持を得られないと思っていたが、しかし、甘かった。中国や北朝鮮ばりの「民主集中制」を駆使したかのような、党内を統制・制御した安倍官邸は、昨年の秋頃までに安倍案で党内をまとめた。そして、2月28日の党憲法改正推進本部の全体会合では、安倍案の方向で意見がほぼ集約され、3月25日の党大会で正式に承認される見込みという。「9条首相案 染まる自民」(『朝日新聞』3月1日付)という風景である。
さらなる改憲アベコベーションとして、「高等教育無償化のための改憲」がある。これが表面化するとすぐに直言「安倍晋三トルクメニスタン大学名誉教授の改憲論と大学論」で批判した。学費を無償にしても、教材代や生活費など学生たちが真に求めているものは給付型の奨学金の充実などもっと別のことである。
実際、党内議論は教育無償化についてはトーンダウンしてしまい、2月20日の党憲法改正推進本部の役員会では、教育を受ける権利をうたう憲法26条の1項と2項はそのままにして、3項を新たにおこして、国に教育環境を整備する責務があるという努力義務規定を置く案で大筋合意したという(『朝日新聞』2月21日付)。教育の無償化の明記は見送ったものの、日本維新の会の改憲案の内容を一部取り入れることになった。だが、教育環境整備の責務は憲法26条1項の「法律の定めるところにより〔…〕ひとしく教育を受ける権利」の解釈から導かれ、教育基本法にもあり、憲法改正の必要性も緊急性もまったくない。むしろ、教育環境整備をさぼっている現政権に、そんな責務を語る資格があるか。現にルールを守っていない者がそんな責務をルールに書き込んで守るはずがないではないか。
圧倒的に怪しいのは、授業料免除などの支援を受ける学生が学ぶ教育機関の要件である。支援する大学は、あくまでも国が提示する次の4つの要件を備えるところに限られる。それは、(1) 産業界のニーズを踏まえ、企業などで実務経験のある教員を配置していること、(2) 外部人材を理事に一定の割合で登用していること、(3) 成績評価基準の策定・公表、(4) 財務・経営情報の開示、である。とりわけ(1)と(2)は、教員人事の中身に口を出している点、大学運営の仕方に経済界から人材を入れないと支援しないという点で、大学の自治への介入といわざるを得ない。1月26日の国立大学協会の総会で、山極寿一会長(京都大学長)は、「自治への介入だ。行きたい大学に行く希望をかなえるのが重要なのに要件をつけるのはおかしい」と批判し、副会長の永田恭介・筑波大学長も、「無償化を担保に使うような改革は非常に品が悪い」と述べたという(『毎日新聞』2月19日付参照)。資金難に苦しむ大学の足元をみる何ともさもしい方針である。憲法改正で国の責務を書き込もうと、その実施の仕方や考え方が根本的に間違っているから、そういう人々に教育についての憲法条項をいじらせるとろくなことがないという一例である。第一次安倍内閣が12年前に教育基本法を改悪したことを想起すべきだろう。教育無償化のための改憲こそ、教育環境整備をさぼってきた人たちが言っているという一事をもってしても、改憲アベコベーションである。
自民党が掲げる改憲案のうちの残りの2つもアベコベーションである。緊急事態条項のうち、とりあえず議員任期の延長というのは、直言「議員任期延長に憲法改正は必要ない―改憲論の耐えがたい軽さ」で詳細に論じたように噴飯ものである。任期満了時であっても、被災地以外の選挙区では予定どおり選挙を行い、被災地では、公職選挙法57条の規定により、繰延投票(「天災その他避けることのできない事故により、投票所において、投票を行うことができないとき、又は更に投票を行う必要があるときは、都道府県の選挙管理委員会・・・は、更に期日を定めて投票を行わせなければならない。」)を実施し、衆議院議員不在の状況を速やかに回復し、特別会を召集すればよいだけの話である。憲法改正の必要性はまったくない。それに衆院解散の場合は憲法54条の参議院の緊急集会で対応すればよく、そもそも任期満了の選挙時の緊急事態などという超レアケースを想定すること自体、論ずるに値しない。改憲アベコベーションの面目躍如である。
そして、ごく最近、改憲案として条文を含めて出てきたのが、参議院の合区問題である。これについては、只野雅人氏(一橋大学)の論稿「参議院の合区問題を考える」(2018年2月17日)を参照されたい。合区問題というのは、議員定数の不均衡についての司法の問題提起に正面から向き合ってこなかった立法府の怠慢の結果出てきているものであって、憲法改正の筋の問題ではない。合区問題で憲法改正国民投票という大イベントを仕掛けるのは無責任である。憲法改正をして連邦制を採用するというのならともかく、合区という小手先の処理で憲法改正を行うのは、とにかく憲法改正をやりたいという願望が先行しているからではないか。それよりも、そうした小手先の処理が、国会議員が「全国民の代表」(憲法43条)として存在するという本質的な面を損なうおそれはないか。憲法は国の骨格を定めたものであり、安易なリフォームは大黒柱を傷つけ、家を傾かせる危険があることを自覚すべきである。
驚くのは、「2020年施行」と安倍首相が勝手に期限を切ったことである。これは衆参両議院の総議員の3分の2以上が発議するのであって、首相に発議に関する権限はない。勝手に施行期日を決めるなど、自らが「立法府の長」と思い込み始めているのではないか。さらに、安倍首相は、連続で2期6年までとなっている自民党総裁の任期を「3期9年」まで延長できるように自民党党則80条を改正した。自らの在任中に自らのために憲法改正をして、3選禁止規定を撤廃しようとしているのが習近平である。安倍首相は、やっていることにおいて、この習と変わるところはない。直言「国家運営の私物化―権力者が改憲に執着するとき(その2)」でも書いたように、改憲に異様なこだわりをみせる安倍首相の場合、自らのための憲法改正をやろうとしているのではないか。改憲の必要性を堂々と語ることができず、9条2項についても、「自衛官の子どもたちは教科書に自衛隊は違憲と書かれているのを読んでどう思うか」といったトーンで改憲をあおっている。すでに中学の教科書には自衛権合憲説の政府解釈も紹介されているのだが、教科書から政府と異なる見解を削除させようとするところも習近平体制にならっていることにならないか。また、9条2項「戦力」不保持を維持する限り、(集団的自衛権行使違憲説はもちろん)自衛隊違憲説は憲法の教科書の記述からなくなることはないということも、よく指摘されるところである。
昨年4月28日付の『日本経済新聞』によれば、公明党のある幹部は、「本来、憲法ではなく法律でやるべき話。『あら探し改憲』ではないか」と語ったという。9条2項を削除することこそ、安倍首相の戦略的目的にほかならない。それに向けて、二段階革命よろしく、二段階改憲でのぞむ実にタクティクス(戦術的)対応にほかならない。そうしたなか、福田康夫元首相は、2月28日の講演で、自民党内の改憲論議について、「『改正しなきゃいけない』というのが先に来ている。『中身より通りやすいものを』という感じだ。本当に良いのか」と苦言を呈したと報じられている(『東京新聞』3月1日付)。
安倍首相は憲法改正について「対案を出せ」としばしば国会などで野党に迫っている。これこそがアベコベである。憲法を改正することについて説得的な理由を示せない安倍首相に「対案」など必要ない。むしろ、「対案」を出せという恫喝的な議論の仕方に対して、浮足立って「対案」を出そうとする方が問題である。これには既視感がある。「国際貢献」「政治改革」「規制緩和」。常に既存の仕組みを変える側がフェイクを多用して、議論を狭め、一定の方向に追い込み、特定の結論に誘導する手法をとっているとき、必ず「対案」を出せといってくる。これがフェイク政治であり、そういう手法を使って憲法改正に持ち込む戦略と戦術の総体を、私は「フェイク改憲」と呼ぶ。
次回は、こうした「フェイク改憲」への対応について論ずることにしたい。 (この項続く)
《付記》昨日の『東京新聞』1面トップに、日本国憲法の制定に関わった憲法学者鈴木安蔵の生家(福島県南相馬市)の保存をめぐる記事が掲載された(2018年3月4日付)。鈴木安蔵が創設した「憲法理論研究会」の代表をつとめたときに、ホームページをたちあげ、そこで鈴木安蔵のことを紹介するページをつくった。その経緯は直言「憲法理論研究会と鈴木安蔵のこと」で書いた。憲法理論研究会のホームページに鈴木安蔵のコーナーがあるので参照されたい。生家保存に向けた南相馬市の関係者のご努力に注目したいと思う。読者の皆さまにも関心をもっていただけたら幸いである。