水島ゼミ沖縄合宿の20年――知事選下の沖縄へ
2018年9月24日

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9月17日から21日まで、水島ゼミの沖縄合宿を実施した。1998年から隔年で実施してきて、今回で11回目になる。第1回は、普天間基地の辺野古移設をめぐる名護住民投票の翌年だった。以来、隔年で沖縄合宿をやっている。3・4年ゼミなので、3年か4年のいずれかの時に沖縄体験をする。それ以外の年は北海道合宿が2003年以来5回、広島合宿が2回、長崎合宿が2001年と、2005年の2回、関西合宿が2回である。「合宿」といっても、30人前後のゼミ生が4つから5つの班に分かれて、レンタカーを借りて各地を取材する。私はホテルにとどまり、携帯メールを使って学生の取材活動を「指導」(文字通り「指」で「導」く))している。講演や新聞記者へのレクチャーをやることもある。

今回、21期と22期生28人は、米軍基地班、地域経済振興班、平和教育班、北部環境問題班の4つの班に分かれて、沖縄の北部から南部、慶良間諸島、伊江島など、沖縄県内の各地を取材した。毎回のことだが、テーマ設定や班構成、取材対象の選択を含めて、私は介入しない。すべてゼミ生が議論して決める。ただ、今回は少し事情が異なる。全国的な政治的焦点となっている沖縄県知事選挙の真っ只中だったため、どの班も最初からアポとりが困難だった上に、取材先のキャンセルが相次ぎ、テーマに沿った取材ができなくなった班もあらわれた。沖縄入りした当日、当該班の班長の要望を入れて、私が個人的にまわる予定にしていた辺野古の現場と、山内徳信元読谷村長宅の訪問に班員6人が合流することを認めた。こういうことは2004年の第4回合宿以来のことである。なお、他に私個人の予定として、沖縄大学客員教授の小林武先生宅の再訪問があった(初訪問については、直言「オキナワと憲法研究者―沖縄の現場から(その3・完)」参照)。

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この合宿は1998年の第1回から数えて20周年になるということで、沖縄タイムス紙が担当記者を決めて取材をしてくれた。実は第1回合宿時も、琉球大学の高良鉄美教授のゼミとの合同ゼミの模様を軸に記事になった(『沖縄タイムス』1998年9月11日付)。この20年、取材班の個々の活動が地元紙の記事になることは何度かあったが、ゼミ沖縄合宿全体の紹介は20年ぶりである。右側は、地域経済振興班の6人に取材した記事である(『沖縄タイムス』2018年9月22日付第3社会面トップ)。

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8月19日4時からは、琉球大学で高良ゼミとの3度目の合同ゼミを行った。5つのグループに分かれて、沖縄の基地問題から沖縄の今後(県知事選挙の行方)まで討論した。ここでは学生たちの議論について詳しく立ち入らない。ただ、印象だが、琉大生の意見が20年前に比べて、本土とほとんど同じになったという感が強い。基地についても「遠い」という意見には驚いた。基地のない南部・糸満出身の学生にとって、普天間基地は30キロの距離。東京の2000キロとはかなり違うのだが、身近でないという意味で「遠い」ということなのだろうか。

水島ゼミ側の意見も、4つの班に分かれてそれぞれのテーマは取材しても、沖縄全体で焦点となっている問題にはまだ十分触れておらず、メディアでよくやる「街の声」レベルの意見もあった。ただ、ゼミ合宿の狙いは、とにかく自分の足を使い、直接現場におもむき、そこの人々と語り合うなかで生まれる共感だけでなく、驚きや違和感、反感も含めて総体として「問題を体感」することにある。書物からの知識やネットの「情報」との落差をストレートに感じ、自分の思考をあえて混乱させ、悩み、考え続けること。これである。今どきの学生たちの特徴は、「現状維持」「予定調和」「横並び思考」「協調重視」というわけで、異論を唱えること、つまり、目立つことを極端に嫌う。その意味で「同調志向」が強い。20年前のようなピリピリした緊張感のなかで、琉大生と意見が対立した場面は、私の見る限り確認できなかった。教室奥の机に私と並んで座って聞いていた高良教授も、「ネットに出てくるキーワードや言い回しをそのまま自分の意見として語る人がいるけれど、とにかく問題をしっかりうけとめ、考えることが大切だ」という趣旨のことをおっしゃった。同感である。

ゼミ生たちは沖縄各地をまわりながら、「基地について本土と沖縄には温度差がある」という「本土的目線」と向き合う。そもそも私は社会的事象に「温度差」という自然現象を表現する言葉を入れることに違和感がある。ゼミ生も琉大生も基地の「経済効果」、基地労働者の雇用、軍用地主について語る(実際、一つの班は地主会に取材している)。合同ゼミの最後に私は少し強い調子でいろいろと語った。県民所得に占める基地関係収入(軍用地料、基地従業員所得、米軍の消費支出)の割合は、復帰時(1972年)は15.6%だったが、1990年以降は5%台が続いており、基地の経済効果論を安易に説くことに慎重であるべきと指摘した(直言「沖縄は日本ではない?!―米軍警告板の「傲慢無知」」参照)。

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合同ゼミのあと、すべての班が辺野古の現場に向かった。どんなテーマをやっていても、沖縄のみならず、全国的焦点となっている辺野古に行かずして、沖縄を語るなかれということに彼らも気づいたのだろう。帰京後、写真が続々と送られてきた。冒頭の写真は北部環境問題班のもので、いかに辺野古の基地建設で珊瑚が死に、浜が荒れているかがわかる写真をいろいろ送ってくれた。

米軍基地班も辺野古の現場に行き、班長がこの写真を送ってくれた。写真に添えられたメールには、「辺野古に近づけるギリギリのところまで行きました。その空間にはキャンプシャワブと埋め立て用の土砂を掘削している機械に挟まれた幅80メートルほどの砂浜でした。基地がなければ行けた護岸周辺の海はとても美しく、移設が完了されたら、オスプレイが絶え間なく飛ぶことになると考えると、非常に悲しい気持ちになりました。基地と重機の轟音に挟まれたこの砂浜には、あまりにきな臭い雰囲気が立ち込めており、生きた心地がしませんでした。」とあった。

この班は、沖縄国際大学の「飛行禁止区域」(No Fly Zone)という看板も写してきた。冒頭の写真がそれである。平和教育班は、普天間第二小学校を訪問して、先生方に平和教育について取材したおり、屋上に上り、基地間際で子どもたちが体育の授業をやっているところを撮りつつ、オスプレイが上空を飛行する監視員の写真も送ってきた(なお、この監視員は10月1日から配置を解除される〔『沖縄タイムス』電子版9月23日〕)。この小学校の校庭に米軍ヘリの窓枠が落ちたのは昨年12月だった。普通の国の普通の政府ならば、自国の子どもたちの命と安全を考え、学校上空の飛行はしないように要求するだろう。しかし、この国の政府は、米軍に過度に忖度して、自前の監視員を置いて、ヘリやオスプレイが飛んでくると、子どもたちを「シェルター」に駆け込ませる。この沖縄の現実について、ゼミ生たちは衝撃を受けたようである。普天間第二小学校屋上から彼らが撮影した写真のアングルからそれが感じられた。

オスプレイが日本の安全に不可欠であり、「抑止力」になると安倍首相らはいう。この論理はとうに破綻している。6年前にこの飛行機の運用思想を問題にしたことがある(直言「魚を食う鷹―オスプレイ沖縄配備の思想」)。「解決策は辺野古しかない」という発想法が間違っている。ここには安全保障の「思考の惰性」が横たわっている(直言「なぜ、まだ辺野古なのか―思考の惰性を問う」参照)。

これを打ち破った「最低でも県外」という鳩山由紀夫首相(当時)の一言は、いまも沖縄の人々の心に生きている。思考の惰性を超える力強い言葉だった。残念ながら、首相としてはあまりにも早く挫けてしまったが、まだ遅くない。私は、「県外」ではなく、従来の硬直した古い「日米同盟」思考の「圏外」で考えるという意味で、「圏外移設」を主張してきた。普天間飛行場の廃止と辺野古移設の中止である。普天間の危険を除去するために辺野古移設しかないという硬直した思考しか、多くのメディアは選択肢として与えない。メディアの怠惰である。ゼミ生たちはこれについてどう考えているか議論してみたい。

ところで、沖縄問題を考えるときには、歴史的視点が欠かせない。水島ゼミの沖縄合宿では、これまでいくつもの班が大田昌秀知事(当時)に取材させていただいた。ゼミ合宿20周年を機会に、大田元知事に感謝申し上げたい。何年か前のことだが、取材時間を勝手に短くして、「まだ話すことがある!!」と大目玉をくらった班もある(直言「大田昌秀氏を悼む―沖縄と憲法を問い続けて」参照)。

歴史の視点が大切なのは、とりわけ安倍政権だからである。安倍首相が5年前の4月28日を「主権回復の日」とする壮大なる勘違いを押しつけ、沖縄県民の怒りをかった。安倍晋三的「無知の無知の突破力」のなせる技としかいいようがない。安倍首相は、この年限りで、二度と「主権回復の日」を口にしなくなった。自らの無知に気づいたからではない。取り巻きたちが、沖縄の怒りもさることながら、式典当日の天皇の冷やかな反応を踏まえて、さすがにまずいと気づいたからだろう。憲法1条によれば、天皇は47都道府県からなる「日本国の象徴」だから、1つの県が絶対反対という偏った式典への天皇の参加は本来許されないはずである。

沖縄の歴史は、サンフランシスコ講和条約3条の異様な条文構成からも見えてくる(直言「わが歴史グッズの話(32)―講和条約発効60年と沖縄本土復帰40年」)。北方領土問題でも、プーチン・ロシア大統領にいいようにあしらわれ、いま、日本外交は風前の灯火である。私が「地球儀をもてあそぶ外交」として批判してきた危惧は現実のものとなっている(直言「「地球儀を俯瞰する外交」の終わり」)。

思えば、「無知の無知」の安倍首相は、翁長雄志知事が県知事に当選してから長期間会おうとせず、菅義偉官房長官が沖縄に来たおり、何とハーバービューホテル(ANAクラウンプラザ)に呼びつけたことが県民の怒りをかった。占領時代、このホテルは米軍の施設で、翁長知事をそこに呼びつけたことが完全に裏目に出た。沖縄合宿の時、私はあえてこのホテルを定宿にしており、学生たちにこのホテルの歴史を伝えている。

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私はこの20年、ゼミ合宿の11回のほかに、講演や書物の企画会議などで何度も沖縄を訪れている。年に1、2回は確実に来ている。前後の日程の関係上、日帰りで講演したこともある。今回、県知事選挙の只中の沖縄をまわってみて、また選挙事務所も訪れてみて、これまでとは何かが違うという印象を受けた。それが何かを表現するのはむずかしいが、端的にいえば、何となく醒めた感触である。他方で、ネット上では激しい言説が飛び交っている。『琉球新報』9月20日付一面トップは、「政策より中傷拡散」「一般投稿、「落選運動」に」「主要候補「辺野古」ほぼ触れず」という見出しで、ネット上での選挙戦の加熱を報じている。安倍政権側の候補は経済振興、雇用、生活面に重点を置き、辺野古移設については立ち入らないという戦術に出ている。これは今年2月4日の名護市長選挙勝利で味をしめた手法であり、まさに安倍流統治手法の「争点ぼかし」と「論点ずらし」の応用編といえる。

名護市長選では、辺野古移設を争点から完全に外し、雇用や身近な生活の改善を徹底して訴え、18歳選挙権を得た若い世代の63%を獲得したという。いま、これが再現されようとしている。『琉球新報』2面の分析記事は、ネットに依存する若い世代への影響を指摘している。現実の世界での選挙運動が何と静かなことか。「何かが違う」という私の違和感は、沖縄を離れるときまで続き、空港のラウンジにあった上記『琉球新報』の記事を読んで納得したわけである。「オール沖縄」側の選挙事務所も訪問して、責任者の方といろいろと話した。だが、翁長前知事の選挙時の熱はなかった。静かに、目立つことなく、安倍的統治手法は沖縄に浸透していくのか。いやそうではあるまい。9月20日の自民党総裁選の地方票の出方を見ても、安倍政権の終わりの始まりの兆候は確実に出ている。沖縄県知事選の行方がそれを加速するどうか。一週間後には結果が出ている。

ところで、「何かが違う」というのは、辺野古のゲート前の抗議にも見られた。選挙を理由にして、沖縄の関係者が少なかった。辺野古漁港では、抗議船の活動も選挙中は中止ということだった。前記の『琉球新報』記事が、ネット上で、両候補が「「辺野古」に触れず」と伝えているので、どこかで「争点ぼかし」「論点ずらし」の手法に「オール沖縄」側も乗ってしまっているのか。

安倍政権の地方自治に対する乱暴な介入を止めるためにも、沖縄にはふんばってほしい。琉球処分の時代ではあるまいし、安倍政権の翁長県政へのいじめはひどかった(直言「「沖縄処分」―安倍政権による地方自治の破壊」)。その最終コーナーが、「争点ぼかし」と「論点ずらし」で知事を獲って、翁長前知事が止めた辺野古埋め立て工事を再開させることだろう。そのために、安倍流統治手法の「友だち重視」の手法と、自民党総裁選で露骨に発揮された「異論つぶし」の手法も駆使している。

『朝日新聞』9月23日付第2社会面によれば、企業などに期日前投票に「動員」された従業員が、投票用紙に書いた候補者名をスマホで撮影させられているという。憲法は投票の秘密を保障し(15条4項)、公職選挙法228条1項は「投票所において正当な理由がなくて選挙人の投票に干渉し又は被選挙人の氏名を認知する方法」をとることを禁止している。従業員などに対してスマホで報告を求める行為は、この投票干渉罪にあたる疑いが濃厚である。「安倍出陣式に出てカツカレーを食べながら、石破に投票した議員は誰だ」と「犯人探し」をやる政権らしいといってしまえばそれまでだが、執拗で粘着質な「友だち重視」と「異論つぶし」が沖縄県知事選挙に確実に及んできている。県民は自らの自主的判断で、自らの将来を決めてほしいと願う。

沖縄の激動の一時期を、学生たちは、北から南までの各地、各所で体感することができたと思う。各人各様にこの体験を今後の勉強と人生に活かしてほしいと思う。

なお、1998年の第1回合宿から2016年の第10回合宿について言及した「直言」のタイトルの一覧を下記に掲げておきたい。

第1回(1998年) 「「ミサイル」事件とTMD」
第2回(2000年) 「「祭のあと」の沖縄を訪ねて」
第3回(2002年) 「暴風雨下30時間で考えたこと」
第4回(2004年) 「沖縄ヘリ墜落事件から見えるもの」
第5回(2006年) 「「語り部の話は退屈だった」か―水島ゼミ沖縄2006夏」
第6回(2008年) 「普天間問題に発想の転換を」
第7回(2010年) 「沖縄はどこへ行ったのか」
第8回(2012年) 「全周トラブル状況の日本―沖縄で考えたこと」
第9回(2014年) 「抑止力は「ユクシ(嘘)力」―沖縄の現場から(その1)
         「辺野古移設はあり得ない―沖縄の現場から(その2)」
第10回(2016年)「沖縄「高江」から見えるもの―それにもかかわらず(Trotz alledem)」
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