キール軍港水兵反乱100年の現場へ――ヴァイマル憲法100周年への道程(北ドイツ・デンマークの旅(その2))
2018年10月22日

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「これまでの内閣で一番悪い」「この人で大丈夫かなというのが〔閣僚に〕5人いる」と「寿司郎」こと田崎史郎・元時事通信解説委員にまで(にさえ)言われてしまった第4次安倍改造内閣が発足した。早速、「消費増税来年10月実施 首相あす表明」(『読売新聞』2018年10月14日付一面)をぶちあげた。「安倍政権の機関紙」=読売の面目躍如のリーク記事である(ちなみに「官邸の機関紙」は産経新聞)。このところずっと「改憲のためには手段を選ばず」の安倍晋三的な思考と行動に付き合っているので、こちらの頭もクラクラして健康によくない。そこで今回は、1カ月ぶりに、不定期連載「北ドイツ・デンマークの旅」(その2)をアップする。第1回は「ケムニッツの警告――「水晶の夜」80周年のドイツへ」だった。今回は、北ドイツのシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州の州都キールで開催されている「キール軍港水兵反乱100周年」の特別展示などについて書く。

デンマーク南部旅行を終えて、8月27日にドイツにもどり、キール市に2泊して主な観光名所をまわった。一つは近郊のラーボエ海軍記念碑である。キールの市内から海沿いの道を走ると遠くに、85メートルの巨大タワーが見えてくる。第一次世界大戦中のドイツ帝国海軍の戦死者を追悼する目的で1936年に完成したが、その後、第二次世界大戦のドイツ海軍の戦死者も合わせて追悼され、さらに1954年には、大戦中に死亡したすべての国籍の水夫の追悼施設へと意味転換が続いた。靖国神社のような「魂」(みたま)の選別が行われている施設とは異なり、戦争中に海で死んだすべての水夫の魂が追悼されているという。だが、施設の構造と内容は、まごうことなき海軍追悼施設である。タワー1階の壁には、戦艦から小型艦艇まで、沈没した大小各種の船のオブジェがびっしり並び、いかにたくさんの船が沈み、どれだけ多くの人が「海の藻屑」となったのかが一目瞭然となる。全体として海軍の視点から設計され、軍事的な形式と意識を涵養する施設であり、「海の平和記念館」というには距離がある。実際、連邦海軍の新兵たちの研修が行われ、下士官らしき年輩の男性が大きな声で解説していた。エレベーターで展望台まであがると、美しいバルト海とデンマークの島々が見える。

記念碑の向かい側には、第二次大戦中の潜水艦U995が展示されている(冒頭の写真右参照)。「技術博物館」と銘打ち、内部を見学できるようになっている。艦内は狭く、トイレも小さくて、何とも息がつまる。魚雷発射管がリアルだ。1999∼2000年のドイツ在外研究中、ブレーマーハーフェン港に係留されているU2450の艦内に家族と入ったことがあるほか、ハンブルク港に係留されているU434(実は旧ソ連のタンゴ級潜水艦)も見学したので、私は、ドイツ各地にある3隻のUボートの艦内体験をしたことになる。いつも思うことだが、こんな狭い空気の悪いところに長期間滞在することがいかに大変かということである。戦後の西ドイツで初めてつくられた戦争映画『U・ボート』(Das Boot, ヴォルフガング・ペーターゼン監督、1981年)は、空気の薄さと臭気が漂ってきて、見ている方が息苦しくなってくる映画である。

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車を大きな駐車場に停めて、キール市船舶博物館に向かう。今年の5月から来年3月まで開催されている「水兵の時——キールと1918年ドイツ革命」という特別展が、私のキール滞在の目玉だった。駅前の広告塔には、「革命!?——1918/1919年ドイツの政治的動乱の演劇」のポスターや、関連する市民フォーラムの案内が。観光案内所にも、キール市の正式のパンフで「キールは民主主義のために立ち上がる——2018年秋の記念プログラム」が置かれ、映画、講演会、演劇、史跡巡り等々、「キール水兵反乱100周年」のさまざまな企画が紹介されている。この市は社民党(SPD)と「緑の党」の連立政権なので、行政も積極的に100周年を促進しているようだった。

船舶博物館に入ると、入口から派手に「1918年」という数字が強調され、「水兵反乱」に関連する資料が展示されている。当事者の日記や手紙、女性たちの関わりなど珍しい資料があるが、インパクトのある「グッズ」はあまりなくて、これはよほど関心のある人でないと訪れないだろうと思いきや、観光案内所でも宣伝しているからだろうか、観光客がけっこうやってきている。ただ、日本人らしき観光客は見かけなかった。

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世界史を学んだ高校生ならば、名前だけは知っているだろう。センター入試の「世界史」過去問にも、「キール軍港の水兵反乱をきっかけに起こった出来事について述べた文として正しいものを、次のうちから一つ選べ。」という五択で、正解は「ドイツ革命が起こり、帝政が終わった。」とある。キーワードはMatrosen(水兵)。1918年11月3日(日曜)に起きたこの事件によってドイツ革命が起こり、ヴァイマル(ワイマール)憲法の制定につながっていく。

受付でもらった小冊子(全141頁)や特別展の解説などを参考に経過をたどってみよう。第一次世界大戦の総力戦の結果、兵士の士気は最悪で、国民の間にも厭戦気分が広がっていた。そうしたなか、1918年10月、海軍司令部は、英国艦隊に対する特攻的作戦を立案。この絶望的な作戦に対して、大洋艦隊の第3戦隊に属する水兵たちが命令を拒否した。敵前抗命罪、敵前党与抗命罪は、軍法会議において死刑判決が出る可能性が高い。11月1日、第3戦隊の47人が逮捕されると、その釈放を求めて夕刻には250人の水兵が自然発生的に集会を開いた。11月3日、さらに57人の水兵の身柄が拘束されると、夕方には6000人の労働者や水兵、女性たちが兵士の釈放を求めて集まった。一方、出撃命令を拒否した水兵たちは、将校から艦隊の指揮権を奪い、水兵評議会を結成。市内に向かい、市役所などの行政部門をおさえた。11月4日には、「キール14要求」をまとめ、戦争の終結とともに、皇帝の退位、自由な共和国、女性を含む参政権、出版の自由、捕虜の釈放などの政治的要求を掲げた。水兵たちはキールからドイツ各地に向かい、ドイツのほぼ全域に同様の動きが拡大していく。

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この写真は、11月7日にキールで出された「シュレスヴィヒ=ホルシュタインの人々への訴え」(労働者・兵士評議会)で、臨時政府が樹立されることが書かれており、「我々の目標は自由で社会的な人民共和国である」とある。この日、ミュンヘンでは労働者と兵士の評議会が結成され、9日にはベルリンでゼネストが行われた。この日、皇帝ヴィルヘルム2世はオランダに亡命した。そして、社会民主党(SPD)のフィリップ・シャイデマンが多数の群衆を前に、共和政の成立を宣言した。しかし、これは憲法上の根拠はなかった。まさに革命である。同日、SPDのフリードリヒ・エーベルトを首相とする臨時政府が成立した。これでドイツの第二帝政は終焉を迎え、「第一民主政」への移行が始まる。11日には、ドイツ臨時政府代表団が休戦協定に調印。第一次世界大戦は終わった。キール軍港の水兵反乱から8日後というスピードだった。

実はこの革命の重要な成果の一つは女性参政権である。11月12日には「すべての20歳以上の男性および女性のための平等、秘密、直接、普通の選挙権」が議決されている。 翌1919年1月5日には、「すべての権力をレーテへ」と叫んで左派スパルタクス団が蜂起。SPDを中心とする政権は軍部の手を借りてこれを鎮圧した。その過程で、1月12日に指導者、ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトが殺害される。

1週間後の1月19日の国民議会選挙(投票率83%)には、初めて女性が参加した。女性の候補者は300人。確定した423議席中、37議席を女性が占めた。この選挙でSPDは絶対多数をとれず、中央党や民主党(DDP)との連立政権(いわゆる「ヴァイマル連合」)が発足する。そして、憲法制定議会がベルリンではなく、ヴァイマルで開催されることが決まる。

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旧東のテューリンゲン州にある古都ヴァイマル。ドイツ統一直後の1991年以降3度訪れたが、古い建物が多く、変化が少なくて地味。ドレスデンやライプツィヒがギラギラした新しい建物が並ぶ街に変貌したのとは大違いである。中心部の広場にあるドイツ国民劇場。驚くほど小さい。ゲーテとシラーの像が正面にあり、この構図はあまりにも有名だが、観光客はゲーテ・シラー像の前で記念撮影をするだけである。建物横にある目立たない灰色のプレートの前で何度も記念撮影をする変な日本人を、中国人観光客の一団が不思議そうに見つめて去っていく。だが、ここは憲法研究者にとってはきわめて重要な「現場」である。プレートには、「この建物で、ドイツ国民はその国民議会を通じて1919年8月11日のヴァイマル憲法を制定した。」とある。

なお、キールの兵士評議会だが、これは1919年6月に正式に解散が命じられた。労働者評議会も同年9月、キール市長が財政支援を打ち切ったため、活動を停止した。ドイツ語でRäte(レーテ。ロシア語では「ソヴィエト」)という「評議会」はこれで歴史的使命を終えた。だが、かつて旧東ドイツの正式教科書などでは、キール「水兵蜂起」は大変重視され、水兵たちは過剰に英雄視され、「ドイツ民主共和国」の正統性を示すために利用された。その典型が、旧東独映画「水兵の歌」(1958年)である。キール市の企画では、旧東ドイツと現在のドイツとでは、この事件についてさまざまにその評価が異なることが指摘され、この事件を、郷土で起きた事件として、かつ世界的意義をもつものとして冷静にとらえようとしている。

いま、ヴァイマル市博物館では特別展示が行われている。今回私は北ドイツとデンマークをまわったので、この展示を直接見ることはできなかった。来年8月は「ヴァイマル憲法100周年」であり、さまざまな企画がこの街でも行われるだろう。この憲法の100周年については、改めて来年8月の「直言」で取り上げたいと思う。ただ、これに向けて、100周年向けの書物がけっこう出版されている。私が入手したのは、ビーレフェルト大学教授のChristoph Gusyの新著 100 Jahre Weimarer Verfassung—Eine gute Verfassung in schlechter Zeit, 2018である。『ヴァイマル憲法100年:悪き時代の良き憲法』。何とも意味深長なタイトルである。

この憲法は14年しかもたなかったとされるし、ナチスの登場を準備するという制度的弱点がよく指摘される。だが、本書はこの憲法の規範構造と制度設定を深堀して、その教訓とチャンスとリスクを総合的に明らかにしている。私が興味深かったのは、ヴァイマル憲法には「二重のアンチテーゼ」があったという指摘である。一つは1871年の第二帝政憲法であり、もう一つはロシア10月革命をモデルにしたレーテ(評議会)システムである(S.11f.)。この憲法が、キール軍港水兵反乱から始まる1918年ドイツ革命の産物であるという面は明らかだが、それが皇帝を追い出して君主制を廃止したという民主的な側面だけでなく、他方で、1917年ロシア革命の結果生まれたソヴィエト社会主義とも一線を画したという側面も重要である。その結果、「社会主義化」ではなく、「社会化」を軸とする厚い社会権保障の条項を数多くもつことになり、憲法史上、重要な憲法になったのである。もし、ドイツ革命が最後まで成功し、ドイツが後の分断国家(「ドイツ民主共和国」)ではなく、もっと早くソ連の最初の衛星国家になっていたとしたら、ヒトラー政権は生まれなかったが、スターリン体制がヨーロッパのかなりの部分を支配することになっていたかもしれない。

Gusy教授によれば、国民議会の決断(憲法制定)は、レーテに対してのものではなく、「レーテと共に」、ないしは「レーテのなかで」、だがしかし革命的少数派の抵抗に対抗してなされたものだった(S.21)。例えば、憲法165条の評議会(レーテ)条項は、労働者の多様な経営参加を認めていたが、これは実はヴァイマル憲法の「第2のアンチテーゼ」の産物だった。労働者が完全に工場の主人公になれば、社会主義になってしまう。紙一重で資本家側に多数を与え、労働者には経営参加をしている感覚を与える。その意味で、資本主義体制を維持する絶妙な仕掛けといえなくもない。

本書で詳細に分析されているように、比例代表制による民主的な議会、直接選挙によるライヒ大統領の強い権限など、この憲法の過大かつ過度な民主主義的側面は、1918年のキール水兵反乱から始まる「下からの革命」に応えざるを得なかったことによる。それが、皮肉にも民主主義的すぎて何も決められないイライラ感が、国民にスピード感をもった決断の政治を求めることにつながり、ヒトラーの誕生をうながしてしまう。本書の記述は多岐にわたり、非常に興味深いので来年の「ヴァイマル憲法100周年」の直言でまた検討することにしよう。

ところで、冒頭の写真のなかに、『シュピーゲル』誌の今週号(Der Spiegel, Nr.42 vom13.10.2018)の表紙が写っている。特集タイトルは「1848年、1918年、1968年、1989年の革命—なぜドイツ人はかくもしばしば挫折するのか」ということで、フランスやアメリカのように革命が成功したことのある国と比較して、ドイツは革命の失敗の歴史であることを分析する。この切り口のおもしろさは、1848年の3月革命と1918年革命を「下からの革命」、1871年のビスマルクの改革と1933年のヒトラー政権の誕生を「上からの革命」と特徴づけている点である。1871年は1848年に対するリアクション、1933年は1918年に対するそれである。加えて、1968年の学生運動(「半革命」)と1989年の旧東の壁崩壊に向けた動きを加味して、極右に親和的な政党が世論調査で20%を得るところまで来た現在のドイツの状況に目を向けさせていく。そうした観点から、1918年11月の水兵反乱から1919年ヴァイマル憲法制定に至る道程に思いを馳せたい。

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