「過去の克服」のかたち——ノイエンガンメ強制収容所 (北ドイツ・デンマークの旅(その4・完))
2018年11月26日

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「ゴーン事件」については、23年にわたり5台の日産車を乗り継いできたユーザーとしては一言以上書きたいところだが、背後に国内外の巨大で複雑な力学が働いているようであり、ここではコメントしないでおこう。外国人労働者受け入れを拡大する入管難民法改正案についても、国会における安易で簡易な審議のあり方(「首相の外交日程の都合」って何?!)を含めてたくさん論じたいことがあるが、別の機会に譲る。今回は、「2018年」もあと1カ月少しとなったこの時点で、9月17日の「直言」で予告した「北ドイツ・デンマークの旅」連載の最終回をアップすることにしたい。

8月下旬、ハンブルク空港からレンタカーで北へ向かう旅をした。昨年は南ドイツとオーストリア・ハンガリーだったが(直言「中欧の旅(1)∼(6)」参照)、年齢的に車の運転が可能なうちにと考えてのことである。デンマークから、100年前の「水兵反乱」の地キールを経由して、最後は再びハンブルクにもどった。

市内中心部から南東30キロほど走ると、エルベ川右岸のノイエンガンメ強制収容所(KZ)が見えてくる。とてつもなく広い。大都市の近くにこんな収容所があるとは、これまで知らなかった。ダッハウ(ミュンヘン近郊)、ザクセンハウゼン(ベルリン近郊)、ブーヘンヴァルト(ヴァイマル近郊)、マウトハウゼン(オーストリアのリンツ近郊)、アウシュヴィッツ=ビルケナウ(ポーランドのクラクフ近郊)の強制収容所を訪れたほか、ユダヤ人絶滅計画(「最終解決」)を決めた「ヴァンゼー会議」の現場にも行った。旧東独のシュタージ監獄ホーエンシェーンハウゼンや、スターリン体制下の強制収容所(グラーク)や、韓国の西大門刑務所含めて、人間が人間に対して行うおぞましい、残虐な行為の現場というのは、当然のことながらどこでも気が滅入るものである。ただ、ノンエンガンメは何かが違った。広い敷地を歩きながら、あまりに整備されているのに驚いた。

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敷地は57haあり、収容者バラック群はすべて取り払われ、土台と建物の断片がびっしり敷きつめられている。その両端の2棟が保存され、資料の展示室などに使われている。監視塔は道路沿いに1つあり、遠方からでもその形状により強制収容所であることがわかる。見学ルートはよく整備されていて、説明パネルが60カ所にあるほか、屋外でもスマホアプリを入れて解説が聞けるようになっているので、若い世代の見学者はこれを利用していた。

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入館の際にもらえる解説パンフレット KZ–Gedenkstätte Neuengamme,2016 によれば、この収容所の概要は次の通りである。1938年に設立された北西ドイツ地域最大の強制収容所で、ここが選ばれた理由は、ナチスがハンブルクで計画していた大規模都市開発に必要なレンガの生産だった。当初、強制収容所は、ナチ体制に反対する「政治犯」の拘束が目的だったが、やがて、ユダヤ人,シンティ・ロマ、同性愛者、エホバの証人、ナチスにより「反社会的人物」と烙印を押された人々が連れてこられた。ノイエンガンメの場合、初期の段階ではほとんどがドイツ人だった。戦争が始まると、ヨーロッパの占領地域から男性が、1944年以降は女性が移送されてきた。非ドイツ系の収容者が短期間に増えて、その半数以上は、中・東部ヨーロッパ出身者だった。1941年頃はポーランドからの収容者が、独ソ戦が激しくなった1942・43年はソ連からの収容者が増えた。ベルギー、フランス、オランダ、デンマークからも1943年から1944年にかけて数千名が移送されてきた.1938年から1945年までで計8万人を越える男性と、1万35000人の女性がここに収容され、さらに収容者名簿に記録されていない者が5900人いた。非人間的で劣悪な生活・労働条件のために、少なくとも4万2900人がここで死亡したとされている。これに加え、さらに数千名の収容者が他の収容所への移送後や、解放後に収容に起因する後遺症で死亡している。

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収容者に対しては1日10時間から12時間の重労働が課せられ、レンガ工場での労働やその他の生産設備の建設作業に従事した。レンガ工場に立ち入ると、その広さに驚く。当時使われたトロッコなどもわずかに残っている

最も劣悪な労働条件下に行われた作業の一つが、ドーヴェ・エルベ川で航行を可能にするための土木工事と、埠頭を伴う運河支流の建設だった。1942年には新たなレンガ工場が操業を始め、収容者は粘土の掘り出し作業に動員された。戦争後半には、収容所内で軍需生産を担う「ヴァルター製作所」(装備工場)での労働が加わった。装備工場に入るが、当時の機械などが少し置いてあるが、象徴的な展示の仕方でインパクトは薄い。マウトハウゼン強制収容所における悲惨な石切り場の作業とは異なるが、過酷な長時間労働には変わりはなかった。

収容所内の生活・労働条件は劣悪で、飢えや過酷な労働環境、劣悪な衛生状態、そして虐待などによって多くの収容者が命を落とした。数千人の収容者が「処刑」された。1945年3月にノイエンガンメ強制収容所内の「スカンジナビア棟」には、ドイツ国内にいたデンマーク人やノルウェー人が収容された。

収容所内を歩いていて違和感を覚えたのは、緑に囲まれ、所内の悲惨な現実が直接見えないように工夫された所長宿舎である。一戸建てで、家族とともに、親衛隊将校である所長が生活していた。家族は、工場やバラックの悲惨な世界とは隔離されていた。スピルバーク監督『シンドラーのリスト』に出てくる収容所長(高台の所長宿舎から、収容者を狙撃して楽しんだ)を思い出した。

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ノイエンガンメは、トレブリンカやアウシュヴッツなどの絶滅収容所とは異なり、レンガ工場を軸に「生産的」な側面をもっていた。とはいえ、恣意的な「処刑」も行われた。絞首刑がほとんどだった。ここではガス室による体系的な殺害はなかったが、1942年9月に193人、11月に251人のソ連兵捕虜がガスで殺害された。チクロンBによってソ連兵を殺した建物は保存されておらず、その場所には、建物の写真が実物大に拡大されて展示されている。ちょうど私がそこを離れるとき、高校生らしき一団がやってきて、ソ連兵殺害の場所で解説を聞いていた。さすがに案内人はポイントをきちんとおさえていると思った。

1995年に建築された「追悼の家」がある。壁に並べてある4メートルの布には、調査によって明らかになったノイエンガンメ強制収容所で死亡した2万3395人の名前が、死亡した日付の順番に記載されている。敗戦が近くなってくると、犠牲者の数は日を追って増えていく。名前が判明していない犠牲者には、何も印刷されていない布のスペースがとられている。国際的な警鐘碑を見渡すことができる隣の部屋には、7つの木製の台の上に収容所の病棟が作成した手書きの死亡記録の複製が展示されている。この「追悼の家」を含めて、ここの収容所のオリジナルな資料や物品が貧困なのは、それが残っていないということも大きい。敗戦が近づくと、収容所内では、親衛隊が犯罪行為の証拠を意図的に抹消すべく、資料は焼き払われ、バラックは清掃され、拷問台や絞首刑台は撤去された。戦争犯罪の痕跡の隠蔽である。そのため、収容所全体が、広さを強調して訪問者の想像力に訴えかけている。私の研究室には、シュトットゥホーフ強制収容所(ダンツィヒ(ポーランド地名グダニスク)近く)の囚人の腕章があるが、ノイエンガンメでも同様のものが使われていたのだろう。

特筆すべきは、ドイツ連邦軍の軍人たちの教育の場としても、ノイエンガンメ強制収容所が使われているということである。軸になっているのは、ドイツ連邦軍「ヘルムート・シュミット大学」(HSU)である。1970年代に西ドイツ首相を務めたヘルムート・シュミット(社会民主党(SPD))の名前を冠した大学である。この「直言」の冒頭右の写真のなかに見える黒い本は『ナチ不法の記念地と連邦軍』(Oliver von Wrochem/Peter Koch(Hrsg.), Gedenkstätten des NS-Unrechts und Bundeswehr, 2010)。収容所の情報カウンターで売られていたもので、帰国する飛行機内で読んだ。

連邦軍では、任期制軍人が将校教育を受けるときに、ナチ関係の強制収容所での研修を行う。下士官や将校候補者、将校がそれぞれグループを組んで見学している。年間150グループになるという(15f.)。

海外派兵が常態化した「新しい連邦軍」(Einsatzarmee)は、ノイエンガンメ強制収容所で常に「人権とは何か」を問い続けるように教育される。著者の一人は、連邦軍にとって、批判的な想起の場所としてのナチスの記念地の重要性を、次の3点にわたって指摘している(S.69f.)。第1に、ナチ犯罪による固有の文化と集団的同一性の消えることのない問題性をいまに活かすことであり、大量殺戮やジェノサイドを許す現代文明の脈絡のなかで生まれる歴史的・政治的構造に敏感になることである。第2に、「当事者性」である。ナチスの問題については、ドイツ人は当事者であり、ドイツ連邦軍の軍人もそれを免れない。第3に、グローバルに妥当し、かつ保護されるべき人権への規範的方向づけは、「新しい連邦軍」とナチスの記念地との間の政治的・文化的交点を印しているということである。

武装組織であるドイツ連邦軍にも、多民族、多文化、多宗教の流れが押し寄せている。「直言」でも書いたように、昨年の軍隊内における犯罪行為355件のうち、イスラム原理主義者が58件、外国の過激派に起因するものが17件で、280件がネオナチ系だという。「ハイル・ヒトラー」と叫んで罰金刑に処せられた者もいる。ナチ時代のドイツ国防軍のグッズを隠し持ったり、部屋に飾ったりする者も少なくない。そうしたなかで、ヘルムート・シュミット大学という軍人の大学で、ナチ犯罪と人権の観点から研修を行っているのは重要だろう。「過去の克服」の一つのかたちといえる。ただ、これが十分かといえば、そうともいえない。市民団体からは、ノイエンガンメと連邦軍の関係について批判がある

ひるがえって、日本はどうか。日本の侵略と植民地支配の「過去の克服」はどこ吹く風で、「日本を取り戻す。」路線(「日本を売り渡す。」ではないか?)を爆走する安倍政権。ジブチを拠点に自衛隊を「アフリカ軍団」にして、海外展開を常態化させようとしている。手始めはコンゴ民主共和国へのPKO派遣あたりからだろう。ここは武装勢力との戦闘が日常であり、確実に死者が出る。

安倍首相は10月30日、韓国大法院(最高裁)で、元徴用工らの新日鉄住金に対する「強制動員慰謝料請求」を認容する判決が出されるや、間髪を入れず、「あり得ない判決」と発言した。日本政府の判決への反応はあまりにも一面的である。日本による統治(植民地支配)の歴史的経緯や1965年の日韓請求権協定の微妙な内容を踏まえた議論が必要で、請求権問題は「完全かつ最終的に解決されたことを確認する」と協定にあるのに、何をいまさら蒸し返すのかといったような反応も単純である。この判決で認容されたのは強制動員への慰謝料であり、個人の慰謝料請求権は消滅していない。日本政府も、「個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたものではない」(1991年8月27日参院予算委、柳井俊二外務省条約局長答弁)という立場をとってきた。ネットには「韓国には法の支配がない」といったコメントが飛び交っている。判決文をしっかり読んで議論することが重要である(弁護士たちの翻訳参照)。補足意見や反対意見(2人)もあって、裁判官たちの意見の分岐もある。そのなかで、2人の裁判官が、「大韓民国政府と日本政府が強制動員被害者たちの精神的苦痛を過度に軽視し、その実像を調査・確認しようとする努力すらしないまま請求権協定を締結した可能性もある。請求権協定で強制動員慰謝料請求権について明確に定めていない責任は協定を締結した当事者らが負担すべきであり、これを被害者らに転嫁してはならない」と指摘している点は重要だろう。当時の日韓両国政府の、協定締結時における複雑な事情を踏まえて、被害者救済の視点を打ち出している。この問題については、いずれ書きたいと思う。

なお、11月23日、ベルリン検察庁は、昨年私も訪れたマウトハウゼン強制収容所の看守(現在95歳)を、3万6000人に対する殺人幇助罪で起訴した(Süddeutsche Zeitung vom 23.11.2018)。ドイツにおける「過去の克服」への動きは終わらない。

(完)
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