政治家の口から「寄り添う」という言葉が出るようになったのはいつ頃だろうか。今回の「直言」はそこにこだわってみた。私は、政治家が「寄り添う」という言葉を使うと、どうも違和感を覚えてならない。「安全・安心」という言葉と同様、何かを隠し、何かをごまかす際に実に効果的な「曖昧ワード」であり、要注意である。
早稲田大学図書館の蔵書検索(WINE)で「寄り添う」と検索すると、早大所蔵図書だけで174件がヒットする。図書のタイトルも、「こころに寄り添う災害支援」「子どもの心に寄り添う」「死別の悲しみに寄り添う」等々、「寄り添う」主体と客体、その内容が明確である。主体は教師、看護士、介護福祉士、医療ソーシャルワーカーなどが多く、権力者である政治家が「寄り添う」というのとは違って、事柄の性質からみてもその言葉は不自然ではない。では、政治家が使うと、なぜ「自然」ではないのか。
ためしに「権力者・寄り添う」でクロス検索をかけてみると、ヒットするのは「小池百合子」である。なるほどと思う。「政党渡り鳥」(日本新党〔参比例→衆・旧兵庫2区〕→新進党〔兵庫6区〕→自由党→保守党→自民党〔衆比例→東京10区〕)といわれ、近年ではご存じ「都民ファーストの会」を経由して、「希望の党」を立ち上げて、野党第1党をぶっ壊した。小池同様、首相に「寄り添う」形でポストを獲得しようとうごめく女性政治家がやたらと目立つようになった目下、(「片山さつき」現象が独走常態〔北海道では「片山事件」があった〕)。なお、権力者に「寄り添う」ジャーナリストもいる(直言「メディア腐食の構造—首相と飯食う人々」参照)。互いに寄り添うこの二人は、メディア腐敗の象徴だろう。
では、上記の「権力者に寄り添う」ではなく、「権力者が寄り添う」について書いていこう。日本の最高権力者である内閣総理大臣が公に「寄り添う」という言葉を使うようになったのはいつ頃だろうか。今世紀に入ってからということで、小泉純一郎首相以降を調べてみた。すると、小泉首相は国会答弁で1回だけ使っていた。2006年5月17日の衆議院国家基本政策委員会合同審査会で、「現在、教育の基本的な責任は、どこにあると思いますか。」という質問に対する答弁である。
内閣総理大臣(小泉純一郎君)「私は、基本的に親にあると思っているんです。まず親。親が子をかわいがらないで、どうして子供がしっかり育つでしょうか。私は、教育において、法律は大事でありますけれども、まず基本は、最初に、生まれた子に対してしっかり寄り添う。この教育の基本という言葉で私がすぐ思い出す言葉は、しっかり抱いて、そっとおろして、歩かせるという言葉であります。・・・」
見られる通り、親が子どもに寄り添うという本来の意味で使っている。これ以外にはない。その後、第1次安倍晋三内閣、福田康夫内閣、麻生太郎内閣、鳩山由紀夫内閣、菅直人内閣まで、少なくとも衆参両院の本会議や各種委員会を検索してみたが、確認できなかった。一気に使用頻度があがるのは、野田佳彦内閣からで、計21件もある。2011年9月27日の衆院予算委員会が最初で、ラストが2012年7月13日の参院本会議である。ほとんどが、「被災地に寄り添いながら」という使われ方をしている。東日本大震災以降、首相や閣僚、議員らが「寄り添う」という言葉を多用するようになった。メディアもそうである。NHKの「シリーズ東日本大震災 2015」は「傷ついた人に寄り添って」、「視点・論点」「シリーズ・東日本大震災5年 地域に寄り添う町づくり」(2016年)等々である。
まもなく第2次安倍内閣発足から6年になる。この間、安倍首相は、国会の答弁のなかで、「寄り添う」という言葉を何回使ったか。発言者「安倍晋三」、検索語「寄り添」で検索をかけてみると(「寄り添った」「寄り添い」などがあるから)、107件がヒットした(11月30日最終確認)。
冒頭の写真左は、今村雅弘復興相(当時)が、2017年4月7日、東電福島第1原発事故の自主避難者について、「(帰還は)『自己責任』」と発言して問題となり、安倍首相が翌日、本人を連れて福島を訪れ、謝罪の姿勢を示したときのものだが、その時に使ったのが「被災地の皆さまの気持ちに寄り添い」という言葉である(4月8日夜のテレビニュースから)。 この写真は、2016年4月14日の熊本地震のあと、現地に入った安倍首相が被災者と握手した時のものだが、しっかり「カメラ目線」になっている(4月26日テレビ映像から)。これは、被災者にではなく、「メディア映え」を重視したものとして批判された。
これは、安倍首相のツイッター画面である。9月6日の北海道胆振東部地震の3日後に安倍首相がツイートした内容は、「コンビニも順次開業しており、本日は、弁当の配送強化、カップ麺や水は通常の3倍の量をすでに発送しております」と、まるで大手コンビニチェーンの物流管理本部長のような口ぶりで、「被災者の皆さんの不安な気持ちに寄り添いながら・・・」と続けている。「寄り添う」とはどういうことなのか。2年前の国会でちょっとした論争があった。
2016年5月17日の参議院予算委員会。立憲民主党の福山哲郎議員が、熊本地震についての政府対応について追及した。
「・・・もう一つは、拠点の避難所です。学校開始に合わせて移動を余儀なくされた方が元々避難していた方と合流をしています。さすがに被災から時間がたっていたのでプライバシーはああやって段ボールで確保されていますが、今度は孤立のリスクが生じています。それから、この避難所は、残念ながら障害者の方の、例えば車椅子や肢体不自由の方の通路、動線が確保されていません。急がなければいけないのも分かりますが、一方では、今年の四月から障害者差別解消法が施行されて合理的配慮の義務が掛かっています。こういったことをやっぱり、寄り添ってやるというのは、総理、そういうことです。」
これに対する関係大臣の答弁は要領を得ない。福山議員が、「総理が国会で何遍も寄り添うと言って、生活支援チームを立ち上げたと言われたけど、座長も副座長も、官房副長官も補佐官も一度も現地に入っていない。正式なメンバーで開かれた会議は最初の創設が決まった一回のみ。これでどこが寄り添っているんですか、総理。」と正すと、安倍首相は、こう答弁している。
内閣総理大臣(安倍晋三君)「・・・今極めて形式論をおっしゃっておられるんだと思いますよ、先ほどもそうでしたが。正式な会議というのは、まさにこの官房副長官の下にしっかりとやっていきますよと、そうしませんと、各省庁から集めていますから。しかし、その後は各分担のチームが現地に入って、これ現地にぴったり付くんですから。経験者と、また熊本に土地カンのある人を選んでいます。そこで彼らに権限を与えて、そこで実際に仕事をしているわけでありますから。だったら、正式な会議って、また何回も東京に集めるんですか。それはおかしいでしょう。まさに結果、実質でちゃんと運営されているかどうかということを見ていただいて、重箱の隅をつついて、重箱の隅をつついて何か形式的なことをおっしゃるというのは余り建設的な議論とは言えないのではないでしょうか。(発言する者あり)」。
福山議員は、避難所において障害者の人々への配慮をどうやって具体化するかを問うているのに、それを「形式論」「重箱の隅をつつく」などといって取り合わない。「被災者に寄り添う」中身の貧困さがよく出た答弁だった。
災害だけではない。受動喫煙対策についても安倍首相は「寄り添う」のだそうである。今年6月25日の参議院予算委員会。衆院厚生労働委員会で、受動喫煙対策を強化する健康増進法改正案の参考人質疑の最中、ステージⅣの肺ガンの参考人が意見を述べている時、自民党議員の一人が「いいかげんにしろよ」と暴言を吐いた。そのことを追及する国民民主党の伊藤孝恵議員に対して、安倍首相はこう答弁した。
内閣総理大臣(安倍晋三君)「・・・がんに苦しむ患者の方がその自分の気持ちを委員会で述べておられる、その姿勢に対しては、敬意を持って、またその人の気持ちに寄り添った形で対応していかなければならないものだと、このように考えております。」
ガン患者の参考人に対して暴言を吐いた自民党議員についてこれを厳しく批判し、トップとして参考人への謝罪の言葉を述べることもしないで、「患者の方の気持ちに寄り添う」とはどういうことだろうか。意味不明の答弁である。冒頭左の写真は、今年4月26日の日本テレビの映像だが、「セクハラ寄り添う」というテロップはすごい。まさかセクハラをする側に寄り添って、一緒にセクハラをすると受けとる人はいないだろうが。議事録を調べてみると、この日の参議院予算委員会で、財務事務次官にセクハラをされた記者について、安倍首相は、「ある程度相手方の気持ちになって寄り添いながら考えるという姿勢も大切」と答弁したわけだが、それがこのようなテロップになって報道されたわけである。
5月8日の衆議院本会議で、国民民主党の山岡達丸議員は、2012年当時、自民党にはTPP参加の即時撤回を求める会が結成され、総勢200人以上の自民党議員がTPP参加に反対していたこと、その年冬の総選挙では、北海道を含む農業地帯には、「TPP断固反対」の自民党ポスターが貼られていたこと、安倍首相は総選挙の3カ月後にTPP交渉参加にかじを切ったことなどを指摘して、安倍首相の態度が変わったことを追及した。これに対する安倍首相の答弁はこうである。
内閣総理大臣(安倍晋三君)「・・・農林水産業は国の基であります。今後とも、農林漁業者の皆さんの気持ちに寄り添いながら、将来にしっかりと夢や希望を持てるような農林水産業の構築に全力で取り組んでまいります。」
「沖縄県民に寄り添う」。この言葉が最もむなしく、最も嘘っぽく、最も白々しく響くのが、毎年、沖縄慰霊の日に行われる首相挨拶だろう。左の写真は2016年6月23日の慰霊の日、地位協定の見直しはしないといいながら、「沖縄県民の皆さま方の気持ちに寄り添いながら」とやったので、参加者から激しい野次が飛んだ。これを伝える『琉球新報』6月24日付は、「首相「寄り添う」空疎」という大見出しを付けた。
かつての首相たち(特に橋本龍太郎)は、やったことの評価は別にして、沖縄に熱心に通い、大田知事ともしっかり話し込んだ。かつての自民党政治家たちと、いまの安倍政権との違いはかなり明確である。翁長雄志知事(当時)が2014年11月の県知事選の当選挨拶のため官邸を訪れても会わずに、半年近く「シカト」を続け、菅義偉官房長官がようやく沖縄に来て、翁長知事を呼びつけたホテルがいわくつきの場所だった。沖縄県民の怒りはすごかった。安倍政権のやり方は、直言「「沖縄処分」—安倍政権による地方自治の破壊」で書いた通りである。「占領憲法」の改正を説く一方で、日米地位協定の不平等を是正する気力も気概もない。この政権は、沖縄県民の気持ちを「寄り切る」ことしかしていない。
10月24日の臨時国会の所信表明演説では、午前中の参議院本会議、午後の衆議院本会議において、安倍首相は、「被災者の皆さんの心に寄り添いながら、住まいを始め、生活再建を加速します。」という災害被災者への言葉とともに、「今後も、抑止力を維持しながら、沖縄の皆さんの心に寄り添い、安倍内閣は、基地負担の軽減に、一つ一つ、結果を出してまいります。」と、2度も「寄り添う」という言葉を使っている。『琉球新報』2018年11月2日社説「辺野古工事再開 「寄り添う」とは真逆だ」は、次のように批判している。
「・・・玉城デニー知事が政府に対話を求めているさなか、「問答無用」とばかりに工事を再開する。圧倒的な力を見せつけることで、国に逆らえないとあきらめる人が増えるのを待っているのか。まさしく征服者の振る舞いだ。民主主義の根幹が問われる。・・・県知事選では新基地建設反対を明確に訴えた玉城氏が当選したが、政府は選挙で示された民意を考慮することなく、防衛省が国交相に対して行政不服審査法に基づく審査を請求し、併せて審査結果を待たずに撤回による工事停止の効力を失わせる執行停止を申し立てた。
行政不服審査法に基づく審査請求は行政に対して私人が行うものだ。国が私人と同様だと称して同じ国の機関に審査請求をするという、行政法学者の多くが「違法」とする手続きを国はごり押しした。国交省は請求からわずか13日、県から反論の意見書が届いてわずか5日で撤回の執行停止を決めた。反論などを受け止めず、工事ありきで手続きを進めている。
辺野古を巡る国と沖縄の対立構造は、何も沖縄だけの問題ではない。国が強権によって沖縄の民意を抑え込み、米軍基地を造ることに成功したとする。国策の名の下に国は何をしてもいいという前例になる。・・・」
社説は怒りを込めて、「国の強権」を批判している。「寄り添う」という言葉を多用しながら、沖縄に対しては冷たく「寄り切る」姿勢を続けてきた。朝日歌壇にも、「振興費 ちらつかせては 人心を 操ることを 寄り添ふと言ふ」(三鷹市・山室咲子)(『朝日新聞』2018年10月14日付)とある。
その一方で、トランプには、これ以上ないというくらいベタベタ、デレデレと「寄り添う」態度をとる。この写真は2017年2月10日(共同)のものだ。トランプが大統領に当選した2016年11月には、どこの国の首脳よりもすばやく駆け付け、トランプタワーで「遣米使」のように振る舞った。最近の日米物品貿易協定(TAG)交渉をめぐり、国内の農林水産業の関係者らに懸念が出ていることについて、11月5日の参議院予算委員会において安倍首相は、「農林水産業に携わる皆様の不安なお気持ちにしっかりと寄り添いながら米国と交渉していく決意でございます。」と述べている。
ここで安倍首相が「寄り添う」相手は、農林水産業関係者ではなく、トランプである。トランプにとって、自分を「100%支持する首脳」はシンゾーしかいない。コケにされても、バカにされても、笑顔でどこまでもついてくる忠臣。安倍首相が「寄り添う」のは、専制的・権威主義的権力者(Autokraten)たちである。それに、仲のいいお友だち(赤坂自民亭の「寄り添い」写真参照)。さらに、国会を抜け出して海外遊覧に出かけるとき、いつも手をつないで、寄り添う二人。森友学園元名誉校長、加計学園御影インターナショナルこども園元名誉園長など50以上の名誉職を兼任していた「史上最強の私人」である。「私、つい誰でも信じてしまうんです」というこの「私人」に公権力が忖度するとき、「神風が吹」き、「魔法」にかけられたように、不可能なことが可能になっていく。自分で論文を書かなくても、面接で質問に答えなくても修士学位が得られる「史上最強の私人」である。この二人が寄り添って、この国の行政がゆがめられている。
「寄り添う」という言葉がここまで空虚な響きをもつに至ったのは不幸なことである。8月10日、自民党総裁選に立候補を表明した石破茂氏が、「正直で公正、そして、謙虚で丁寧な政治を作りたい」と述べたところ、党内から、安倍首相への個人攻撃だという声があがり、「正直・公正」というキャッチフレーズは封印されたという『朝日新聞』8月25日付)。選挙で個人の資質を批判して何が悪いのだろうか。
直言「「アベランド」—「神風」と「魔法」の王国」でも書いたように、安倍流「5つの統治手法」、すなわち、① 情報隠し、② 争点ぼかし、③ 論点ずらし、④ 友だち重視、⑤ 異論つぶしの全体を貫いているのが「前提くずし」である。「寄り添う」の多用は、そのことを象徴しているように思う。
《付記》本稿は先月の段階で書き上げてあったが、アップする前に、高橋純子朝日新聞編集委員のコラム「政治断簡」の「首相が「ヨリソッタ」のは」が掲載された(『朝日新聞』2018年11月26日付第4総合面)。その指摘には共感するところが多い。