元号は政権の私物なのか――元号法制定40周年
2019年2月11日

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新聞記事

年、12月31日23時45分少し前にテレビをつける。NHK「紅白歌合戦」が終わるのを見計らって、「ゆく年くる年」の静寂を味わう。各地の神社仏閣(時には長崎などのキリスト教会)の年越しの様子を静かにみつめる。ここ10年くらいの間にアナウンサーのおしゃべりが耳につくようになったものの、全体として静かに各地の年越しを感じることができる。しかし、今年はその後がいけなかった。午前0時15分、本年初のNHKニュース。アナウンサーはトップニュースとして、新元号が4月1日に公表されることを伝えた。「・・・政府は国民生活に混乱がないよう、皇太子さまが即位される5月1日の少なくとも1か月前に新たな元号を公表することを想定して作業を進めてきました。こうした中で安倍総理大臣は、当初の想定に沿って4月1日に新元号を閣議で決定し、直ちに公表する方針を固めました。・・・安倍総理大臣は年頭にあたって今月4日に記者会見を行うことにしていて、こうした方針を表明することにしています。」 アナウンサーは、「安倍総理大臣としては」という「岩田明子モード」の言葉づかいである。4月1日の新元号公表を1月4日に記者会見で公表する「方針を固めた」のはいつなのか。まさか12月31日夜ではあるまい。事前にわかっていて、それを新年最初のトップニュースにしてしまう。これではNHKは官邸広報とどこが違うのか。

安倍流「やってる感」の手法を元旦から見せつけられ、気分はよくなかった。ツイッター検索をかけると、「新年早々、すでに決まっていたことを仰々しく公表するやり方」に反発の声が並んでいた。それにしても、ネットで「新元号 予想」と検索すると出るわ出るわ、「“安久”が有力」と官邸機関紙は書く。まさか「倍晋三幾しく」ではあるまい。「安」という字が入った「安和」は「安和の変」(969年。藤原氏の一強支配の政変)、「弘安」はご存じ、二度目の蒙古軍の来襲(弘安の役、1281年)、「安政」は「安政の大獄」(1858年)等々、安らかなイメージとは距離がある。

巷では、「過熱する「平成最後の」改元商戦」として、5月1日午前0時から「カウントダウン結婚式」を開くホテルや、4月27日から5月6日の10連休中に挙式するカップルに新元号を予想させて、的中すればウェディングドレスの無料サービスを行う結婚式場、3月中旬から4月上旬に「平成最後の桜」を観賞する日帰りツアーを企画した旅行会社等々、「平成の思い出」を演出する動きがにぎやかである(『毎日新聞』2月2日付)。他方、「平成が終わる記念に」といって高額の皇室写真集などを高齢者に売りつける悪徳商法が全国的に広がり、国民生活センターが注意を呼びかけている(『朝日新聞』2月8日付)。

「新元号は何か」と浮ついているこの国の姿は、世界的にみてもかなり奇異であり、異様である。「平成30年4月30日」の翌日から「〇〇元年5月1日」となるわけだから、従来通りに元号で書類を作成していたところでは、記載が煩雑となる。年数のカウントは困難をきわめる。「明治33年から平成12年まで何年あるか」といえば、元号だけではむずかしい。明治33年は1900年、平成12年が2000年、西暦なら「100年」と簡単に答えは出る。また、「幻の第12回オリンピック東京大会」が昭和15年、第18回オリンピック東京大会は昭和39年、第32回オリンピック東京大会は「〇〇2年」開催である。それぞれの間が何年あるかを元号だけで計算する人はいない。これは一例だが、実際の生活のなかで、元号と西暦の併記や使い分けはますますむずかしくなる。これだけ「国際化」だの「グローバル化」だのというわりに、「〇〇元年」などと純粋ドメスティックな世界にひたるこの国の奇妙さよ、である。元号を自明のように考えている人がほとんどだが、ちょっと考えてみよう。国民主権の日本国憲法のもとで、元号は自明ではない。

昭和22年5月3日以降、元号は法的根拠を失っていた。旧皇室典範12条は「践祚ノ後元號ヲ建テ一世ノ間ニ再ヒ改メサルコト明治元年ノ定制ニ從フ」と規定し、登極令2条が改元の手続きを定めていた。日本国憲法と同時に施行された皇室典範(法律第3号)からこの12条は削除され、登極令も廃止された。この点は重要である。この措置によって、日本国憲法下で元号の法的根拠は失われた(学説上、「行政官布告有効説」のような苦しい説明は存在したが)。政府解釈では、「事実たる慣習として昭和という年号が用いられている」(1968年4月3日内閣法制局次長答弁)という形で、いわば「慣習説」がとられていた。「長い習わし」のような曖昧な正当化で「昭和」元号が用いられていたにすぎない。憲法学では、元号の違憲説、「憲法不適合説」も有力だった。こうした元号の法的不安定性に対して、右派勢力のなかから「元号法制化」運動が起こり、1979年6月6日に「元号法」が参議院で可決・成立した。

     元号法(昭和54年6月12日法律第43号 施行6月12日)
     第1項 元号は、政令で定める。
     第2項 元号は、皇位の継承があった場合に限り改める。
     附則
     第1項 この法律は、公布の日から施行する。
     第2項 昭和の元号は、本則第一項の規定に基づき定められたものとする。

文字数では29文字。この国の法律のなかで最も短いものの一つである。昭和天皇の死去によって、直ちに、この法律に基づく「元号を定める政令」(政令第1号 昭和64年1月7日)が出され、内閣告示第6号(昭和64年1月7日)にはこう書かれている。「元号を改める政令(昭和64年政令第1号)の規定により定められた元号の読み方は、次のとおりである。 平成(へいせい)」。

元号法に基づいて、安倍内閣による「元号を定める政令」と「内閣告示」がまもなく、4月1日にお目見えする。だが、そもそもこの元号法に問題はなかったのか。いまはほとんど関心がもたれていないが、実は元号法制定をめぐってはさまざまな議論があったのである。それをここで紹介しておきたい。

ちょうど40年前の1979年2月2日、元号法案が衆議院に提出されるや、有倉遼吉早稲田大学教授(当時)は直ちに論文「元号法制化問題の憲法学的考察」を公表して、国会審議に向けて問題提起を行った(『法律時報』51巻4号(1979年4月)51-58頁)。元号が国民主権の憲法のもとでは、そもそも違憲、あるいは憲法不適当(不適合)という立場をとれば、元号法制化の方法は問題にならない。有倉教授は「かりに法制化が許されるとすれば、いずれの方式が相対的に優れているか」という観点から、すでに国会審議が始まっていることを意識して論じていく。元号使用の強制が思想・良心の問題に関わることや、元号法の拘束力の問題を論じているが、私が今日的視点から注目するのは、政令への委任の論点である。元号法は、「元号は、政令で定める」としているが、有倉教授は元号が国民生活に大きな影響を与えることから、法律を前提としない政令や告示で定めることはできないとして、「定めるとすれば法律をもってするほかはない」とする。元号の名称が国民主権の憲法にふさわしくないものが選ばれる可能性があることまで想定して、「政令に委ねてはならない事項」と指摘する。「元号=法律事項説」といえるだろう。

一世一元制をとれば、内閣は政令で即座に対応すべしということになる。だが、1979年3月、公明党は「翌年改元」を提唱した。皇位の継承があった「翌日改元」ではなく、その翌年1月1日をもって改元するというものだ。そうすれば、元号について時間をかけて議論することが可能となる。有倉教授はこれも「一方法」としながらも、やはり一世一元制に根本的に問題があると指摘する。

大日本帝国憲法のもとでの天皇と日本国憲法の天皇との間にある質的な断絶を前提とすれば、国民主権原理と世襲君主制を絶妙なバランスで合体させた象徴天皇制という装置が存続していくには、主権者国民の生活に大きな影響を及ぼす元号について、これを国民代表からなる国会で法律をもって定めるべしとする有倉教授の指摘には合理性があるように思われる。なお、憲法学者の小林孝輔青山学院大学教授(当時)が衆議院内閣委員会(1979年4月13日)で、憲法・行政法学者の高柳信一東京大学教授(当時)が参議院内閣委員会(1979年5月25日)で、それぞれ参考人として意見を述べている。有倉教授の法律事項説に近い見解も表明され、元号についての縛りをかける努力が当時行われたことがわかる。

私は、元号制度は国民主権の日本国憲法のもとでは不適合と考えており、高校時代から「昭和」と書かずに、一貫して西暦を使ってきた(キリスト教のカウントというより世界共通表示として)。35年前、大学教員になって初めて憲法教科書を出したとき、判例表示を、通常は「最大判昭和50・9・10刑集29巻8号489頁」とするところ、「最大判1975・9・10・・・」と無理に表記していた(久田栄正・水島朝穂・鳥居喜代和『憲法・人権論』(法律文化社、1984年))。講義でも講演でも、「最高裁の1976年判決では・・・」と、ことさら西暦に置き換えていた。平成になってからは、西暦が増えてきたので、このまま元号の自然消滅を待てばよいかと思っていたが、2012年に安倍政権が発足してから、「安倍カラー」のなかには元号も含まれていて、とうとう「安」を含むかもしれない元号の使用が目前に迫ってきた。

他方、天皇の生前退位の表明があり、「平成」が30年で終わることが確定して、手帳やカレンダーの業界から西暦一本化が始まった。新たな「〇〇元年」を語るのも最初のうちだけで、東京オリンピックが「〇〇2年」として語られるのは少なくなっていくのではないか。「昭和」が使われ、「事実たる慣習」となったのも、長らく使われてきたという惰性である。4月1日に公表されても、「〇〇元年」は8カ月しかない。「〇〇2年」の年賀状が売り出されたとき、西暦表示が前面に出てくるのは、東京オリンピックの年というだけではないだろう。新元号は利便性がかなり低い。

元号制度は、「「象徴」天皇制をとる憲法が積極的に要求するものでも、逆にまた積極的に排除するものでもなく、通常の立法による改廃可能な、憲法の許容する範囲に属することがらと見るべきであろう」とする立場(大石眞「元号制度の諸問題」『法律時報』61巻1号(1989年1月)89頁)もある。一世一元の元号制を象徴天皇制のもとでも維持し続ける必然性はなく、生前退位の制度や、皇位継承者の性別や皇位継承順位なども含めて、法律事項として国民的議論を踏まえ、国会がいずれ決すべきだろう。

元号法制定から40年。改めて有倉教授の指摘を思い出す。法律事項であるべきものが政令委任事項となったために、安倍首相は元号を政権基盤強化のために大いに利用している。いつ、どんな名称の元号が出るのか。「いつ」については、「4月1日」ということを、冒頭に紹介したように、唐突に新年早々の記者会見で発表した。話題性十分である。自分に注目が集まるように仕向ける。生前退位をめぐる皇室会議において、新天皇の即位の時期を5月1日とすることについて、議事録を作成しないことで異論を封じたことは記憶に新しい(直言「天皇退位めぐる法と政治―安倍流権力私物化はどこまでも」)。大嘗祭の実施をめぐって皇室内からも意見が出てきたが、宮内庁長官は「聞く耳をもたなかった」(直言「秋篠宮発言をどうみるか―天皇・皇族の憲法尊重擁護義務」参照)。

元号について、安倍首相を支持する保守系団体「日本会議」は、新元号の4月1日事前公表に対して「遺憾の意」を示す見解を機関誌に掲載し、天皇代替わり前の公表は「歴史上なかった」として、先例としないことを要求した(共同通信2月3日配信)。しかし、安倍首相は有力な支持母体に対しても「聞く耳をもたなかった」。

自民党憲法改正草案は、1条で天皇を「元首」にするとともに、国旗・国歌(3条)とともに、元号(4条)にも憲法上の根拠を与えている。安倍政権は、当面は改憲の重点を4項目にしぼっているが、いずれは「安倍カラーの憲法化」のなかで元号を憲法に引き入れてくるかもしれない。

元号を法律事項として、政令による元号の道具化を遮断しようとした有倉教授の意図は達せられなかった。しかし、40年前の元号法の制定過程で、元号は法律で定めるべしという主張を展開していたことは記憶されるべきである。この論文を執筆したのは1979年2月である。『法律時報』4月号に掲載させるため、病をおして本稿の執筆を続けた。そして、元号法が施行される2日前の6月10日に逝去した。当時私は26歳の大学院生として、有倉教授のご指導を受けていた。急速にお顔が痩せていくので心配していたが、病の進行は急速だった。この元号法案批判の論文が絶筆となった。

《付記》
冒頭の写真のタオルは、泉佐野市が昨年の「勤労感謝の日」の前日、都内4箇所で無料配付した「平成、お疲れさまでした。」の泉州タオルである。「平成」の期間に首相をやった17人の顔が並ぶ(安倍首相だけ2回)。
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