今回は、4年あまり前にアップした直言「菅原文太さんのこと―久田栄正没後25年に」の続編である。
2013年9月、ニッポン放送の「菅原文太・日本人の底力」に出演した。「俳優・菅原文太が、各界で“地に足をつけた生き方をしている”ゲストをお迎えし、対談を通して、日本の今あるべき姿を探って行く2003年4月から続いている対談番組」(番組HPより)である(放送リスト)。開始早々、まず菅原さんが質問してこられたのは、内閣法制局長官人事だった。番組収録の少し前に、安倍晋三首相が集団的自衛権行使容認のために政府解釈を強引に変更しようとして、法制局長官に外務官僚(前駐仏大使)をすえるという超異例の人事を行っていた。内閣法制局長官は第一部長、次長を経験した人が任命されるという長年の人事慣行を破るものだった。菅原さんは、「なぜそういうことをするのか」「その背景に何があるのか」と、低い声で迫ってくる。言葉数こそ多くはないが、問題の核心をグイグイと衝いてくる。それは『菅原文太の日本人の底力』(宝島社、2015年)に収録されている(「菅原文太と語った22人の賢人たち」)。内閣法制局長官の首をすげかえるという禁じ手をやった安倍首相は、内閣人事局をフルに活用しながら官僚統制を強化して、「構造的忖度」が蔓延している。安倍人事で居残っている横畠裕介内閣法制局長官は、先日の国会で議員の質問にケチをつけるなど、まともな法制官僚の顔では、もはやなくなっている。
菅原さんは、安倍政権下の危ない日本の状況に対して積極的に発言を続けてきた。「3.11」のあとは「命よりカネ優先だ」と憤って脱原発を宣言。集団的自衛権行使の問題でも「戦争の片りんが見える」として反対した。病気をおして参加した2014年11月1日の沖縄「1万人うまんちゅ大集会」。沖縄県知事選挙で翁長雄志候補の応援演説を行い、その1カ月後に亡くなった。人前で語る最後の機会となったこの演説で菅原さんは、「政治の役割は二つあります。一つは、国民を飢えさせないこと、安全な食べ物を食べさせること。もう一つは、これは最も大事です。それは、絶対に戦争をしないこと。」と訴えた(演説はYouTube参照)。一言一言をふりしぼるように語る菅原さんの演説はすごい迫力だった。
沖縄における演説なので「絶対に戦争をしないこと」という下りに注目が集まったが、もう一つの「国民を飢えさせない。安全な食べ物を食べさせる」という点は、晩年の菅原さんの社会的活動と関連している。2009年から八ヶ岳南麓に農業生産法人「おひさまファーム・竜土自然農園」を立ち上げ、無農薬有機農業を実際に行ってこられた。農作業をしながら軽トラックを走らせるテレビCM(YouTube)にも出演している。直言「菅原文太さんのこと」のなかでもこの農業の話は簡単に触れていた。でも、私の頭のなかに、菅原さんと農業というイメージがまだ十分にできていなかった。
ラジオ番組の収録が終わり、スタジオを出る前の短時間の雑談のなかで、八ヶ岳南麓に仕事場を持っていると言うと、菅原さんは「お近くなので、近いうちに、是非農園にお越しください」と笑顔で返してきた。同じ北杜市内(といっても車で40分)なので菅原さんはそう言ってくれたのだろう。通常、「近いうちに」とか、「お近くにお越しの節はお立ち寄りください」というと社交辞令と考えるが、ここは思い切って訪れればよかったと、2014年12月1日の突然の逝去の報に、心から悔いたのを覚えている。
2017年7月になって、たまたま「直言」への感想メールが届いた。「菅原文子」という名前から、菅原文太さんの奥さんとわかった。メールのやりとりのなかで、今年1月8日の文子さんのメールに、「夫もどんなに水島先生とお会いしたかったことか、と思います。ゆっくりされる折にいつでもお訪ね頂ければうれしく存じます。」とあったので、即レスで先週の農園訪問を決めた。
南アルプスの山々と八ヶ岳などを一望できる絶景の農園である。広い畑とビニールハウスが並ぶ。初めてお会いする奥様の文子さんは笑顔で家のなかに案内してくれた。文太さんの映画ポスターや憲法9条の会のポスターなどがはられ、部屋の一角には菅原文太講演会のポスターなどが飾られている。そのなかに、秋の収穫前の稲穂に見入る写真があった(冒頭の写真)。「仁義なき戦い」や「トラック野郎」の主役のイメージはなく、農哲学者の風貌である。
文子さんと90分ほど、いまの日本の政治の状況について話した。文子さんの鋭い分析には驚いた。やはり文太さんとともに、世の中の不正や矛盾について語り合ってきたのだろう。沖縄での文太さんの迫力ある演説の背後に、文子さんとの長年にわたる歩みを感じた。帰り際、農園にある大きなビニールハウスに案内される。夏は50度にもなるというハウスのなかは汗が出てくるほどだ。いろいろな作物が育っている。イタリア野菜のカーボロネロ(黒キャベツ)をいただいた。これは翌日から始まった大学院の水島研究室合宿にきた院生たちに、朝食の時に炒めて食べてもらった。シャキっとした独特の食感がある。
文太さんの写真やポスターに見守られて、文子さんといろいろとお話をさせていただき、文太さんが育ててきた農作物を頂戴して、少し遅くなったが、菅原文太さんと再会ができたような気持ちになって農園をあとにした。
ここからは「雑談」である。実はこの農園を訪ねる前に、そこから1キロほどのところに、個人的に思い出深い場所があることに気づいた。そこは18年前に訪れて、直言「雑談(10)朝穂という名前」を書いたところである。「朝穂堰」(あさほせぎ)という。先週、ナビを頼りに行ってみた。八ヶ岳南西麓を灌漑する農業用水路で、現在の北杜市須玉町から旧明野村を経て、韮崎市穂坂町に至る、全長38.6キロの農業用水路のことで、江戸時代に開削された浅尾堰と穂坂堰が、明治5年(1872年)に統合されて、両堰の頭字をとって名付けられたものである。その際、浅尾の「浅」は明治維新朝廷政治を記念して「朝」に変えられた(北杜市ふるさと資料館素堂のブログ参照)。
「朝穂堰」の存在を知ったのは、インターネットの検索機能が普及したことによる。18年前、たまたま「朝穂」で検索したところ、この「朝穂堰」がヒットしたので、ドライブがてらこの地を訪れたものである。今回再訪して、当時よりもカラフルになった「朝穂堰マップ」の前で写真を撮った。朝穂堰記念碑の近くに、朝穂堰土地改良区の事務所がある。少し行けば、「朝穂堰水支配人詰所文庫」などもあったようだが、時間がなくて周辺を散策することはしなかった。旅行好きの方のブログに周辺の様子が写真入りで紹介されているので参照されたい。
というわけで、18年前と同様、「朝穂という名前はやはり「水」に関係していた。」、さらに「農」にも関係していた、という我田引水的な確認で、この「直言」を閉じることにしよう。