今日は「日航123便事件」の34周年である。メディアでは「事故の風化」が語られるが、事故調査委員会の報告書には重大な疑問があり、事故原因の解明は終わっていない。遺族は情報公開請求訴訟を起こす。その第一歩となるのが、7月16日のシンポジウムだった。それについては、直言「34年間隠蔽されている「日航123便事件」、法廷へ」を参照されたい。このシンポについては、群馬の地元紙『上毛新聞』7月17日付が詳しく報じている。同紙はデジタル版でも伝え、さらにシンポに参加した英国人遺族のインタビューも掲載している。この問題については、必要な場面でまた書くことにしよう。
さて、今回はドイツのヴァイマル憲法(ワイマール憲法、Weimarer Verfassung)についてである。中学「公民」の教科書に、「1919年、ドイツのワイマール憲法で初めて社会権(生存権)が保障された」という記述がある(厳密には後述の1917年メキシコ憲法が初めて)。高校入試「公民」の穴うめ問題にも出てくる。一般の人々の間でも、この憲法の知名度は高いといえよう。
だが、そのヴァイマル憲法が昨日(8月11日)、制定100周年を迎えたことを知っている人はあまり多くないのではないか。昨年、ドイツ北部のキールに滞在して、「キール軍港水兵反乱100周年」を取材したのは、このヴァイマル憲法100周年のプレ取材でもあった(直言「キール軍港水兵反乱100年の現場へ――ヴァイマル憲法100周年への道程」参照)。1918年11月3日に起きた水兵の反乱がドイツ全土に広がり、ドイツ革命に発展する。「第二帝政」から「第一民主政」への移行が行われ、ヴァイマル憲法制定へとつながっていった。
ベルリンで権力移行がなされたが、革命の正当性を確定する新憲法制定のための国民会議は、ベルリンの南西225キロにある古都ヴァイマルで開かれた。この街を私は1991年、1999年、2016年の3回訪れている。行くたびに新しい建物が増えて雰囲気が変わってしまう旧東の都市(特にライプツィヒとドレスデン)とは異なり、こじんまりとした、地味で渋い街並みは、初めて訪れた頃とあまり変わっておらず、私はむしろ好感をもっている。中心部にあるドイツ国民劇場も驚くほど小さい。ゲーテとシラーの像は有名だが、私はこの劇場の左壁面にある灰色のプレートの前でいつも写真を撮る(冒頭左の写真参照)。そこには、「この建物で、ドイツ国民はその国民会議を通じて1919年8月11日のヴァイマル憲法を制定した。」とある。厳密にいうと、国民会議で議決されたのは7月31日であり、8月11日は、共和国大統領フリードリヒ・エーベルト(社会民主党(SPD))が、夏期休暇で滞在中だったシュヴァルツブルク城(ヴァイマルの南西40キロにある)において署名した日である。
この原稿を書くために、研究室の書棚から久しぶりに、Ernst Rudolf Huber, Deutsche Verfassungsgeschichte seit 1789, Bd. V, 1978(『1789年以降のドイツ憲法史』5巻)を取り出して、第8章「11月革命」から頁を繰っていった。細かな歴史上の出来事がたくさん叙述されていて、それぞれの事象がさまざまに絡み合って憲法制定に向かっていくあり様は、興味が尽きない。ブルックナーの交響曲のスコア(総譜)をみているような感じがした。Bd. VI, 1993も横に置いて、時間さえあればこの世界に浸っていたかったが、そうもいかない。ただ、ヴァイマル憲法の正式名称が「1919年8月11日のドイツ国(ライヒ)憲法」(Die Verfassung des Deutschen Reichs vom 11.August 1919)となった経緯についての叙述が興味深かった。ヴァイマル国民会議の憲法委員会(第8委員会)において、「ドイツ国(Reich)」という政府案の表記を、「ドイツ共和国(Republik)」に置き換えるべきだという意見が社会主義者から出されたが、総会は多数をもってこれを否定した。多数意見は、「革命はライヒの憲法形態のみを変革したのであって、ライヒの同質性と連続性は侵害しなかった」というものである(Huber, Bd. V, S. 1192)。欽定憲法であるドイツ第二帝政憲法(1871年4月16日)と名称は同じにもかかわらず、ヴァイマル憲法1条は、「ドイツライヒは共和国である。国家権力は国民から由来する」と国民主権をうたっていた。憲法の名称に「共和国」を使わなくても、中身は共和国憲法である。憲法というものは、戦争や革命が終わったあとの激動の時期に生まれる、さまざまな政治勢力の妥協の産物という側面をもっている。ヴァイマル憲法も例外ではない。日本国憲法が大日本帝国憲法73条の改正手続に基づきながら、第1条で天皇の地位を「主権の存する国民の総意」に委ねる形をとって、天皇主権から国民主権への転換をはかったことが想起されよう。
昨年の「直言」で、ビーレフェルト大学教授のChristoph Gusy, 100 Jahre Weimarer Verfassung - Eine gute Verfassung in schlechter Zeit, 2018(『ヴァイマル憲法100年―悪しき時代の良き憲法』)を紹介した。今回改めてこの本を読み返してみて、いろいろと興味深い指摘を見つけた。
巷では「世界で最も民主的憲法」といわれているが、その中身はいろいろと複雑である。例えば、民主的といっても、ヴァイマル憲法は「混合的な民主主義」である。(1)議会の選挙による国民の間接的な権力行使(17、22条)、(2)国民請願(Volksbegeren)と国民投票(Volksentscheide)による直接的な権力行使(73、75、76条2項)、(3)大統領の選挙による間接的な権力行使(41条)である(Gusy, S. 117)。ライヒ議会の選挙は完全比例代表制のため、たくさんの政党が議会に進出した。大統領は国民に直接選ばれており、かつ議会解散権から緊急命令権まできわめて強い権限をもっている。加えて、ライヒ議会の3分の1の動議で公布が延期された法律を、有権者総数の20分の1の申請により国民投票にかけることができる(73条2項)。これは8回行われている。こうなってくると、「民主主義の過剰」という面が出てきて、実際、何も決まらないなかで、内閣が平均8カ月半で崩壊し、さらに議会解散・選挙が頻繁に行われる。国民は民主主義に対して「倦怠感」をもってくる。強大な権限をもつ大統領が「憲法の番人」として期待されてしまう状況もまた、憲法への逆風を強めたともいえる(直言「「憲法の番人」とは誰か」参照)。
ところで、ヴァイマル憲法といえば中学公民にも登場するように、「社会権」だろう。これは日本国憲法25条以下にも影響を与えた、「基本権を通じた社会国家性」(Gusy, S. 252ff.)ともいえるもので、まさに憲法史における新事実(Novum)であった。この写真は、100年前に卒業式で生徒に配付されたヴァイマル憲法の実物である(冒頭右側写真の真ん中の51頁)。表紙には、「卒業にあたって生徒諸君に」という文章が書かれている。髭文字で書かれている第6章経済生活 第151条1項には、「経済生活の秩序は、すべての者に人たるに値する現存在〔生存〕の保障(Gewährleistung eines menschenwürdigen Daseins für alle)を目標とする正義の諸原則に照応しなければならない。この限界内で、個人の経済的自由は、確保され得る。・・・」とある。これが生存権のモデルになっていった。153条は財産権の保障と同時に、「財産権の社会的拘束性」を定め、「公共の福祉」による制限を明文化していた。これも現代憲法への重要な歩みであり、日本国憲法29条のモデルとなっている。また157条は「労働力の保護」を定め、163条は「労働に対する権利」(Recht auf Arbeit)を保障することで、日本国憲法27条の「勤労の権利」へとつながる。さらに、中学生でも知っている社会権に団結権があるが、中学公民には出てこない、この憲法の際立った特徴が165条の「労働者評議会(レーテ)」条項である。
ヴァイマル憲法は、近代憲法の役回りを超えて、社会内部の秩序の形成にまで介入している。とりわけ、この165条は、「挑戦と過剰要求との間のヴァイマル社会国家」とされるほどに、相当踏み込んだ規定をもつ(Gusy, S. 259ff.)。労働者評議会(レーテ)は労働者の経営参加、共同決定の憲法的保障といってよい。これはヴァイマル憲法の「出自」と関係している。
2018年10月の「直言」でも書いたように、Gusyによれば、ヴァイマル憲法には「二重のアンチテーゼ」があった。一つは1871年の第二帝政憲法であり、もう一つはロシア10月革命をモデルにしたレーテ(評議会)システムである(Gusy, S. 11f.)。この憲法が、1918年ドイツ革命の産物であるという面から見れば、君主制を廃止したのは民主的側面が大きいが、他方、1917年ロシア革命の結果生まれたソヴィエト社会主義とも一線を画したという面は見落とせない。生産手段の私的所有を禁ずる「社会主義化」ではなく、資本主義の枠内で労働者の権利や参加を最大化していく「社会化」(Sozialisierung)の方向を憲法規範化したのがヴァイマル憲法ということになろう。その意味で、165条の評議会(レーテ)条項は、ソヴィエト化を阻止した象徴といえなくもない。ちなみに、労働者・農民・兵士評議会のことをドイツ語ではレーテ(Räte)、ロシア語ではソヴィエト(совет)といった。なお、ヴァイマル憲法よりも1年早く、1917年メキシコ憲法123条は、労働者の権利を文字通り大量に憲法に取り込んでいる。これはあまり知られていないので、ここで再度紹介しておこう(直言「トランプ新政権発足とメキシコ憲法100年」)。
ヴァイマル憲法は14年足らずしかもたなかったことと、それに内在されたさまざまな制度的弱点がナチス独裁につながったという指摘はよくなされる。とりわけ48条の緊急事態条項は、自民党改憲案を批判する脈絡でしばしば取り上げられ、ナチス独裁への道を掃き清めたという形で論じられる。私自身も、そこに重点を置いた指摘をしたこともある。テレビ朝日「報道ステーション」の古舘伊知郎キャスター・松原文枝ディレクターのギャラクシー大賞受賞作品「独ワイマール憲法の“教訓”」(2016年3月18日放送)も、国民劇場の前からレポートを開始し、ナチス独裁への道をリアルに示していく。
だが、ヴァイマル憲法の制度的欠陥がナチスを生んだのか。あるいは、ヴァイマル憲法は「自由の敵」に対する備えを欠いていて、「価値中立的憲法」だったのか。これは「ヴァイマルの神話」とされている。ドイツ基本法の「たたかう民主制」は、ヴァイマル憲法の価値中立性がナチスを生み出した反省の上に立つという言い方がされるが、Gusyはこれを批判しつつ、ヴァイマル期は、憲法擁護が足りなかったのではなく、過剰であったということも指摘して、「共和国保護法」などを例にあげてそれを説明している。共和国保護のかわりに、共和国に敵対する「国家保護」となって、ヴァイマル憲法を自滅に追いやっていった(Gusy, S. 216ff., 228ff.)。問題は憲法の欠陥ではなく、憲法に基づき危機に的確に対処できなかった政治の問題ではないか。
背景として、ヴェルサイユ講和条約とヴァイマル憲法が一体としてとらえられ、屈辱的な講和条約への反発が、憲法への反感へと連動していったことがあった(Gusy, S.299ff.)。この点は、日本においても、いまだに「戦後レジームからの脱却」と「押しつけ憲法論」がセットで語られることが想起される。大量失業や天文学的インフレなどが、ヴェルサイユ講和条約による多額の賠償金とあいまって、ヴァイマル憲法への怒りに向けられていく。ヴァイマル憲法は国民統合的な作用を果たすことができず、まさに「憲法はそこにあったが、憲法に基づくコンセンサスはまだなかった」(Gusy, S. 301)のである。
では、100年前に制定されたヴァイマル憲法をどう診たらいいだろうか。Gusyの総括的な評価をここで紹介しておこう。
ヴァイマル憲法は、後の西欧憲法史の発展なかで一部は取り入れられ、一部は先取りされ、一部は手本として描かれるような未来志向的な内容を示していた。この憲法は、人間に対して、国民に対して、そして共和国に対して選択肢とチャンスを提示していた。ところが、それを実現する可能性は、ドイツ人が非常に限定的な影響しか与えられなかった平和・外交政策や経済政策の諸条件にも依存していた。憲法の潜在力は、それを用いる事実上の可能性よりもはるかに大きかった。・・・ヴァイマル憲法は、西欧世界における自由、民主主義、法治国家性のヨーロッパ史の里程標(Meilenstein)だった。多くの人が現行のドイツ基本法をヴァイマル憲法への反対構想(Gegenentwurf)と見たとしても、ドイツ連邦共和国の政治、文化、そして学問は、さまざまな形で、ヴァイマル・モデルの影響を受け続けているのである。ネガティヴな面だけでなく、より一層、ポジティヴな面においても。(S.299)
そして、結びの言葉はこうである。「ヴァイマル憲法は、その強さと弱さをもった、悪しき時代の良き憲法であった」(Gusy, S. 326)と。
私たちは憲法というものに過剰に期待をかけるべきではないし、また過小に評価してはならないだろう。憲法改正に前のめりの安倍政権を見るにつけ、政治家たちの憲法に対する思慮の浅さを感じざるを得ない。一つの憲法に手をつけるという場合、単に憲法典のあれこれの条文の改変にとどまらず、その憲法のもとで行われてきた長年にわたる憲法実践をどのように総括し、評価するのかということが不可欠である。ヴァイマル憲法もまた、正確に歴史のなかに位置づけるならば、その意義と限界も見えてくるだろう。100周年のこの機会に、ヴァイマル憲法のことを改めて学ぶことは、いまの日本の憲法問題を考える上で、無限のヒントを与えてくれるように思う。
《付記》
今年、国民劇場の広場の正面に、「ヴァイマル共和国の家:民主主義フォーラム」(Haus der Weimarer Republik: Forum für Demokratie)ができた。もう少し早くできてもよかったと思うが、ともかくも来年以降、訪れてみたい。