ブロッケン山頂の「壁」開放――「ベルリンの壁」崩壊30年
2019年11月4日

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日、11月3日は日本国憲法公布73周年だった。ここ20年間で初めて講演依頼がどこからも来なくて、この日を山の仕事場で静かに過ごした。他方、安倍政権は波乱と混乱の真っ只中にある。閣僚の連続辞任やあらゆる分野での政策的行き詰まりが一気に明確になって、安倍首相がいよいよ「改憲一直線」の前屈姿勢をとる可能性も否定できない。通常国会での冒頭解散もありうる。改憲問題については後日また論ずることにしよう。

さて、今週の土曜日、11月9日は「ベルリンの壁」崩壊の30周年である。実は3年前のドイツ在外研究中、2016年8月1日から1週間近くかけて旧東独地域をレンタカーでまわった。妻の希望を入れて、旧東独ザクセン=アンハルト州のハルツ山麓にあるヴェルニゲローデ(Wernigerode)に行き、「ブロッケン現象」で有名なブロッケン(Brocken)山にSLで登った。この旧東独取材は2回連載を予定し、まず、直言「ペギーダの「月曜デモ」―「ベルリンの壁」崩壊から27年(1)」として2016年8月22日にアップした。続いて、直言「「魔女の山」ブロッケン山頂の光景―「ベルリンの壁」崩壊から27年(2-完)」を書き上げ、8月29日にアップする予定でいた。だが、これは「幻の直言」となった。パソコンが新型ウィルスに感染し、書きためていた原稿や写真などがすべて使えなくなってしまったからである(その事情は8月29日付の「直言」の冒頭部分参照のこと)。「直言」の更新も一時停滞しそうになった(2016年8月27日2時26分のツィート参照)。

前置きが長くなったが、今回、3年前の記憶、現地で入手した資料とカメラに残っていた写真などの記録を使って、「ベルリンの壁」崩壊の24日後に、ブロッケン山頂の「壁」を地元住民が自らの手で開放した出来事について書いた「幻の直言」を復元することにしよう。タイトルも、「ブロッケン山頂の「壁」開放―「ベルリンの壁」崩壊30年」に変更する。

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2016年8月3日、ライプツィヒからレンタカー(チェコ製のシュコダ(Škoda))で150キロほど走ると、ヴェルニゲローデに着いた。日本ではあまり知られていないが、ハルツ山麓の美しい古都である。この写真にある市庁舎を中心に、思わず「かわいい!」という声が聞こえてきそうな個性的な木組みの家々(Fachwerk)の古い町並みが残っている(トリップス参照)。表通りから裏通りへ、横道から脇道へ歩いているだけで、中世にタイムスリップしたような気分になる。南ドイツのロマンティック街道などと違って、日本人観光客の集団と会うこともなく、心静かに散策を楽しむことができる。

もう一つ、ここの「名物」は、ブロッケン山への蒸気機関車の旅である。ハルツ狭軌鉄道(HSB)。ホームで待っていると、シュッポシュッポとSLが入ってくる。ちょっと興奮してシャッターを押した。『サライ』誌の旅行コーナーにも、ブロッケン山にSLで向かうレポートが掲載されている。8月だが、ジャンパーを着ないと寒い。あいにくの天気で、頂上付近は霧が深かった。風も強くて、風速計で16メートル。体感温度はかなり低く、少し震えがきた。急いで駅から休憩所に入る。魔女伝説の山として知られるだけあって、魔女ポイントへの案内板もある。ブロッケン山は、霧のなかに人影が映り込む「ブロッケン現象」で有名である。標高は1141メートル。山の少ないドイツでは、これでも北部の最高峰である。冷戦時代、東西ドイツ国境線にあるブロッケン山から旧西独のゴスラーやゲッティンゲン方面を俯瞰できる情報戦の最適地として、山頂には、1955年から旧ソ連軍の情報通信部隊が常駐して、西側の通信情報を傍受していた。旧東独国家保安省(シュタージ)の通信傍受のための多面体レーダードームと関連施設、旧東独のドイツポストの放送施設もあった。「魔女伝説の山」として親しまれてきたブロッケン山は「軍事管理区域」として、市民の立ち入りは厳格に制限されていた(P. J. Lapp, Grenzregime der DDR, 2013, S. 392)。1981年には、これらの施設の周囲にコンクリートの「壁」が築かれた。1600メートルにおよぶ「ブロッケンの壁」である。

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旧シュタージの通信傍受施設だった「ブロッケンハウス」の展示室に入る。「ベルリンの壁」の歴史と並んで、この「ブロッケンの壁」に関連するグッズが展示してある。ヴェルニゲローデと西側との間には、この国境標識があった。この地域を管轄していたのが、旧東独国境警備隊である(その30周年の記念楯が飾られていた)。『ハルツブルク新聞』(Harzburger Zeitung)1981年9月30日付には、3メートルの高さの壁が築かれたことを伝える記事の見出しに、「ブロッケン要塞:「反帝国主義的防護壁」」とあった(展示室資料)。「ベルリンの壁」は「反ファシズム防護壁」といわれていたのを思い出す。ここは、米帝国主義の手先の旧西独との最前線を守る「壁」ということだろう。

「ベルリンの壁」が実質的に崩壊した24日後の、1989年12月3日の日曜日、旧東独の市民運動「新フォーラム」の呼びかけで、ブロッケン山周辺の町々の数千人の市民が、もちろんヴェルニゲローデの住民も、それぞれの方向から頂上に向かって歩く平和的デモ(Sternmarsch)を敢行した(ハンバッハ祭ヴァッカースドルフも「日曜散歩」だった)。立入禁止の軍事管理区域(Speergebiet)を突破して、デモ隊の先頭が施設の正面ゲートにまでやってくると、一斉に、「開けろ! 開けろ!」(Aufmachen! Aufmachen!)というシュプレヒコールが頂上にこだました。この日施設を警備していたのは10人の国境警備隊員。「ベルリンの壁」を管理していた警備隊員に武器携帯禁止の命令が出ていたこともあって、ここの隊員たちも武器を携帯していなかった。12時45分、デモ隊に同行していた赤十字山岳救助隊員の一人が大声で、入口周辺に集まったデモ隊に向かってこう宣言した。「ゲートは開かれる」。警備隊員は滞在者の「秩序ある滞在」を命じられていたため、混乱を避けるため、直ちにゲートを開放した(以上、Vgl. Der Brocken: Berg zwischen Natur und Tecknick, 2012, S.54f.)。12月3日12時45分過ぎ、ブロッケン山の「壁」は崩壊した

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ブロッケンハウスの展示室には、「ブロッケンの頂上を再び自由に」(Brockengipfel wieder Frei!)というデモ隊の横断幕も展示されている。それに見入るドイツ人観光客を横から撮らせていただいたのがこの一枚である。彼は私に気づくなり微笑んで、「やったね」という表情をした。

冷戦の象徴のような存在だったブロッケン山が再び市民の手に取り戻され、1991年1月29日にすべての部隊が撤退した。山頂は、FMラジオとテレビの放送用の鉄塔と、旧テレビ塔「ゼンダー・ブロッケン」(Sender Brocken)には展望台がつくられた。頂上は観光地として急速に整備され、たくさんの観光客が訪れるようになった。ヴェルニゲローデからの鉄道路線に蒸気機関車を走らせるようにしてからは、観光名所となった。妻は『地球の歩き方』で蒸気機関車のことを知り、それで私もここへきたのだが、ブロッケン山頂の過去を直接知る機会となって一石二鳥だった・・・。という内容のことを3年前に書き上げていた。その消えてしまった原稿の3分の2くらいが復元できたところで打ち止めとしよう。ただ、2016年の「「ベルリンの壁」崩壊から27年(2-完)」の復元掲載だけでは芸がないので、この原稿を書くなかで気づいた、もう一つの「壁」崩壊について書いておくことにしよう。それはちょうど40年前の1979年11月1日に旧西独のドゥーダーシュタット(Duderstadt)を訪れた時の話である。

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この写真は、1979年11月1日、東西ドイツ国境地帯で撮影した私の写真である。40年前の大学院生時代、ドイツの憲法問題の現場を訪ねる旅を1カ月ほどした時、ゲッティンゲン大学で在外研究中の民法の浦川道太郎氏(当時、法学部専任講師。現在は早稲田大学名誉教授)を訪ねた際、浦川氏は、「水島君は軍事が好きだから、東の監視塔を見ますか」というので、車で国境地帯のドゥーダーシュタットに連れて行っていただいた。その時の写真である。ちなみに、このあとギーセン大学に向かい、ヘルムート・リッダー教授(シュタインマイヤー大統領はリッダー研究室出身の憲法学者で、私は40年前に研究室で会っている。リッダー教授はドイツ・ポーランド友好協会会長だったので、弟子のシュタインマイヤー大統領のポーランドへの思いは深いと推察される)を訪問している。

さて、今回、この写真を見ていて、ある重要なことに気づいた。私の背後に広がる東西ドイツ国境地帯のことについては、ちょうど20年前、1999年11月15日の直言「「壁」がなくなって10年(その2・完)」で書いたので、これをクリックしてお読みいただきたい。問題は、この国境地帯の向こう側(北東約40キロ)が、ヴェルニゲローデとブロッケン山だったということである。40年前は西側から、東側にある監視塔と国境警備兵のことしか私の頭に浮かばなかったし、そのことは20年前の「直言」にも反映している。3年前に旧東独側の古都を訪れ、ソ連やシュタージの施設を独力で開放して、「ブロッケン山の壁」を崩壊に導いた人々がそこにいたことを知ったことは大きな成果だった。

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そして、今回気づいたもう一つのことは、この検問所の写真である。40年前、ここのバス停留所のようなものについて浦川氏に質問した時、「それは、年金生活者が家族に会いに行くためのバスのためです。年金生活者は逃げないからね」という説明だった。西に逃げようとして命を落とす東の人々がいるなかで、バスで堂々と家族に会うための「入口」がこのドゥーダーシュタットの検問所だったのだ。写真は暗いので少し拡大して光をあててみると、はっきりと「国境検問所の職務区域」と読める

この国境検問所ができたのは、ヴィリー・ブラント首相(社会民主党〔SPD〕)の東方政策(Ostpolitik)と関連していた。ブラントの努力で、1972年12月21日の東西ドイツ基本条約が締結され、1973年6月21日に発効した。第1条では、「正常な善隣関係を樹立する」ことがうたわれ、その具体化の一つとして、双方に旅行ができるように、ドゥーダーシュタットの検問所もつくられた。だが、東西の交流は一方的だった。西の短期旅行者はここを通過して東に向かったが、東の市民は、年金生活者と切迫した家族問題(親が危篤等)を抱えた者に限定されていた。ここは東西ドイツ国境の小さな「抜け穴」と呼ばれていた。

1989年11月10日午前0時35分、このドゥーダーシュタットの国境検問所のポールが開かれ、その日午後までに、6000人以上の東独市民が、1500台以上のトラバントに乗ってドゥーダーシュタットにやってきた。年末までに70万人になったという。

20年前の「直言」の結びはこうだった。「移動の自由は人権のカタログのなかで低く見られがちだが、壁崩壊の最も大きな起動力は、「移動の自由」への要求だったのではないか。国民に移動の自由を与えず、逃げ出せば射殺するような国家は正当性を失い、崩壊した。」と。

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