2020年最初の「直言」をお届けする。この写真は、仕事場近くから撮影した元旦の「紅富士」である。夏は「赤富士」というそうだ(ただし、黒澤明監督作品『夢』(1990年)第6話「赤富士」は怖すぎる)。右側の写真は10年前、国会が外壁修復を行ったときのものである。直言「国会議事堂を覆う」で紹介したことがあるが、そこで使わなかった写真がこれである。この2枚を、「いま」を象徴する風景として冒頭に掲げておこう。
さて、先週1月3日で、「直言」の連続更新が1216回となった。1000回から5年ということになる。2002年頃から「ブログ」という簡易な手法が普及を始めたが、あえて「ブログはやらない」と宣言して、手間も費用もかかるホームページにこだわってきた。ブログなら毎日の更新も普通のことだが、私は、草稿執筆からスタッフ校正を経由して、原則として1週間に1度だけホームページにアップする手作りの「今週の直言」に徹している(SNSは管理人の通知だけにとどめ、私は「140字の世界」には参加していない)。連続更新1000回の際は、『東京新聞』および『北海道新聞』で紹介された。2018年元日の「直言」は「憲法存亡の年のはじめに―直言更新1110回」であった。
ところで、3年前の元旦に、「自由と立憲主義からの逃走―「直言」更新20周年」をアップした。共同通信文化部に依頼された年始評論のタイトルは、「立憲主義からの逃走」にした。これは全国のブロック紙、地方紙の多くに掲載された(なお、校閲記者がタイトルに手を入れた例として、『北日本新聞』2017年1月21日付)。「立憲主義からの逃走」という言葉は、ドイツ・ボンでの在外研究から帰国して、院内集会で講演したときの記録(2016年12月19日)にも残っている。これはもちろん、エーリッヒ・フロムの 『自由からの逃走』(Escape from freedom)(日高六郎訳、東京創元社、初版は1951年、原書は1941年)に引っかけたものである。
私のいう「立憲主義からの逃走」というのはシンプルである。権力者たちは、憲法に基づく合理的な国家運営ができればいいが、憲法による制約のわずらわしさや手続きの煩雑さを免れて、「目的のためには手段を選ばず」への衝動にかり立てられることがある。「スピード感あふれる、決められる政治」症候群である。相対的に高い支持率を背景にして、憲法を軽視・無視・蔑視して、強権的な政治を行う。その際、憲法改正のため国民投票が、権力側には独裁的権限を獲得させる格好の手段となる。ベラルーシのルカシェンコ大統領が憲法改正国民投票を利用として長期独裁政権を打ち立てたのもその一例である。
最近の例としては、トルコのエルドアン大統領がいる。2年前の2017年4月、憲法改正国民投票が行われ、強大な権限をもった独裁的大統領が誕生した。憲法改正案に賛成51.41%、反対48.59%となり、エルドアン大統領は勝利宣言を行った。改憲内容は、首相ポストを廃止し、行政府のトップを直接選挙による大統領とし、その任期を2期10年に延長するとともに、議会の同意不要の副大統領や閣僚の任免権や、法律に代わる大統領命令の発布権、司法府の人事権など、大統領への権限集中はかつてない規模と内容になった(直言「立憲主義からの逃走」)。憲法改正国民投票を通じて、強力な民主的正当性を獲得して立憲主義を葬る手法である。日本の安倍政権の7年間も、「立憲主義からの逃走」そのものだった。
冒頭右の写真が象徴しているのは、国会が完全に目隠しされているということである。「モリ・カケ・ヤマ・アサ・サクラ」のすべてを通じて、国政調査権(憲法62条 )の機能不全はいうまでもなく、臨時国会の召集義務(憲法53条後段)も無視され、国権の最高機関性(憲法41条)は「政治的美称」とされるが、いまや政権にとっては笑ってごまかせる「政治的微笑」の対象でしかないのか。そんな暗澹たる思いにさせる出来事が、年末に起きた。
12月30日の「直言」の追記でも書いたように、12月27日、自衛隊の中東海域派遣が閣議決定された。国会が閉会となり、メディアが年末年始モードになって報道力が低下している時期を狙いすますかのような、あまりに姑息なやり方だった。法的根拠は、防衛省設置法4条18号(旧防衛庁設置法5条18号)の「所掌事務の遂行に必要な調査及び研究」という、最も安易で簡易で安直な方法が選ばれた。
仰天のニュースはさらに続いた。公明党の山口那津男代表が、「自衛隊の部隊を海外に出すことは、これまで特別措置法を制定して対応した経過がある。それに匹敵する閣議決定の内容になった」と記者団に語ったことである(『産経新聞』2019年12月27日付)。国会で制定される法律は、適用対象が一般的で抽象的である。だが、適用対象が特定なものに限定され、かつ相当程度に具体的処分性をもつ規範は、特別措置法という。一般法律にはなじまない、あるいは特別の事情があって急を要する場合などに、この特措法という法形式がとられる。あの「9.11」直後でさえ、補給艦を派遣するのに、「テロ対策特別措置法」を制定した。ところが、特措法でやるべきことを内閣の閣議決定でやってしまったことを、公明党代表は認めたわけである。これは重大な発言である。
安倍首相は、2年間に4回も、「私は立法府の長である」と国会で答弁している。これだけ頻繁だと、単なる言い間違えではなく、本気でそう思っているのかもしれないと疑ってみたくもなる。この人には権力分立についての認識も自覚もないようである。一般的な意味では、国家の権力が誰かの一手に集中し、あまりに強大になるのを防ぎ、各権力を分離・独立させて、相互に抑制・均衡の関係に置くところに権力分立の意味がある。安倍首相は、「政府は議会にかわって法律を制定することができる。これは憲法に違反することができる」としたナチスの授権法(全権委任法)と同じ感覚で、「法の世界の下克上」にいそしんでいるのではないか。山口公明党代表は、東大法学部卒の弁護士である。その山口代表が、法律でやるべきことを閣議決定で行ったことについて、「匹敵する」などといってお茶を濁しているのはどうしたことか。連立を組む政党として、この「年末どさくさ閣議決定」に賛成すべきではなかった。山口代表は「平和の党」の看板をこれまでに何度も何度もたがえてきたが(直言「公明党の「転進」を問う」)、今回のトンデモ閣議決定を許した「罪」は重い。(追記:1月2日夜、イラン革命防衛隊の精鋭部隊司令官を米軍はイラクの首都バグダッドで「ターゲット・キリング(標的殺害)」した。新たな湾岸・中東戦争への予兆がある)。
「安倍的統治手法」が定着して、「争点ぼかし」や「論点ずらし」により、「桜を見る会」も「IR疑惑」もすべて洗い流そうという勢いが強まっている。安倍首相は1月1日付の「年頭所感」で、東京五輪・パラリンピックについて、「わくわくするような大会にしたい」と語っている(『東京新聞』2020年1月1日付)。「わくわくする」のは本人だけで、少なくない国民は醒めきっている(私のように最初からのらない人もいる)。オリンピックまで半年あまりになったのに、いっこうに盛り上がらないだけでなく、施設における問題(アスベスト問題)や猛暑対応、マラソンの札幌開催をめぐる問題など、これで開催できるのかという状況になってきている。「桜を見る会」は明らかに「潮目」が変わり、国民は「わくわく」どころか、政府や国会に対する「いらいら」を強めている。
そもそも2020年の東京五輪を「復興五輪」などと呼ぶこと自体、「フェイク」ではないだろうか。昨年の直言「「復興五輪」というフェイク―東日本大震災から8年」をこの機会にお読みいただきたい。 2013年9月7日の国際オリンピック委員会(IOC)総会での安倍首相の英語演説こそ、IOCも世界も騙した「歴史的演説」といえよう。直言「東京オリンピック招致の思想と行動―福島からの「距離」」でも書いたように、安倍首相の「状況は統御されています(under control)」と語る時の手の動きは何度見ても不快である。振付師の指示通りのことをしているだけだろうが、「東京には、いかなる悪影響もこれまで与えたことはなく、今後も与えることはありません」と断言して、それを「私から保証をいたします」と胸をはってしまう感覚は理解できない。「福島は東京から250キロ離れており、皆さんが想像する危険性は東京にはない」というJOC会長(当時)の言葉とともに、東京五輪に対する世界の疑いの眼はここから始まったといってもいいだろう。ヨーロッパの人びとの感覚からすれば、1986年のチェルノブイリ原発事故では、300キロ圏内は高度の汚染地域となったことは常識だからである。東京五輪の会場は、250キロしか離れていない場所に、炉心溶融と建屋爆発事故を起こし、手がつけられない状態にある原子炉3基と、1500本の核燃料棒がある都市というのが「ファクト」である。
ところが、安倍首相は、福島市での開幕試合のソフトボールを観戦して、始球式までやってしまうというアドバルーンを、「官邸機関紙」に「スクープ」させた(『産経新聞』デジタル2019年12月28日17時59分)。見出しは「復興五輪を発信」である。ソフトボールは7月24日の国立競技場(東京)での五輪開会式に先立ち、同22日に福島県営あづま球場(福島市)で全競技の先陣を切って始まる。女子日本代表が午前9時開始の開幕試合に登場するが、その始球式を安倍首相がやるというのである。サッカー施設「Jヴィレッジ」(福島県双葉郡)で始まる国内聖火リレーの出発式にも安倍首相が出席するという。Jヴィレッジは「原発事故対応拠点」として使われた施設である。アベノミクスのために復興特別法人税を早々に廃止。復興予算もまともに使われない状態をさらに深化させ、復興庁を2030年まで存続させて復興そのものを先のばしにするとともに、原発再稼働を急ぐ。「復興五輪というフェイク」は、首相の過剰なパフォーマンスによって、かえってより多くの人たちに見抜かれてしまう。これではまるで「安倍五輪」ではないか、と。1936年のベルリンオリンピックにおけるヒトラーに続くものである。1940年の「幻の東京オリンピック」のことをもう一度思い起こす(想起する)ことが大事であろう。
この1月1日付の安倍首相「年頭所感」にはもう一つ重要な言葉がある。「国のかたちに関わる大きな改革を進める。その先にあるのが憲法改正だ」。前記『東京新聞』1月1日付によれば、「年頭所感で改憲に直接言及するのは2014年以来」とのことである。 2020年は、「レガシー(遺産)」を残したい安倍首相に忖度して、「憲法改正の年」にするためのさまざまな動きが起こるだろう。過小評価も過大評価も危険である。こと憲法改正については、「その男、凶暴につき」、何をするかわからない。直言「首相の「改憲扇動」の違憲性――「憲法改正の歪曲」」で指摘したように、安倍首相の言動は、単なる憲法改正の呼びかけではなく、「改憲扇動」ともいうべきものであり、それは憲法尊重擁護義務違反の域に達しているものである。直言「逆走をいかに止めるか―憲法政治の「幽霊ドライバー」(その2)」でも触れたように、「この政権は立憲主義への逆走だけでなく、法治主義にも、官僚的合理性に対しても逆走する「暴走車」」である。まともな官僚ならば、もはやついていけない、限度を超えてしまっている。「モリ・カケ・ヤマ・アサ・サクラ」のすべての要素が出揃って、いま「アッキード事件」(山本太郎氏命名)の最終コーナーに入りつつある。
昨年1年間の安倍首相の「暴言・バカ丸出し発言」10選や『毎日新聞』の「桜を見る会」をめぐる記事一覧などを読んで、新年にあたり、安倍流の「争点ぼかし」や「論点ずらし」に引っかからないようにする必要があるだろう。
2020年3月12日は「安倍政権3000日」である。東日本大震災9周年の翌日である。この長期政権の終わり方について、自民党元幹事長の山崎拓氏は実に鋭い指摘をしている。「現在の安倍政権はエリート主義でも草の根主義でもなく、いわば世襲主義です。エリートでもなければ叩き上げでもないボンボンが日本を引っ張っているという状況は、これまでになかったことです。」と。ここに「安倍一強」の弱さ、もろさがある。新年早々、臨時国会開幕と同時に、「滅びへの綻び」はさらに進んでいくだろう。しかし、最も警戒しなければならないのは、ナオミ・クラインの「惨事便乗型資本主義」と同様に、おめでたいことに便乗した動き、いわば「祭典便乗型改憲」である。
新年早々、「安倍五輪」の愉快でない話で終わってしまうが、私にとって、いま、この「直言」の原稿を書くことが最大の仕事である。もちろん本業の研究・教育(授業)に手を抜いたことはないし、これからも変わらない。ただ、かつてのように、講演や依頼原稿などを次々仕上げて、同時に「直言」も書くということが体力的に困難になってきた。目と耳の衰えも進んでいる。それでも、「直言」はどんなに遅くとも月曜日の朝には更新できるように生活スタイルを組み立てている。スタッフの負担も減らして、2020年も52回の連続更新を達成したいと思う。読者の皆さん、今年も「直言」をどうぞよろしくお願いします。