1940年のオリンピック東京大会が中止された80年後、2020年オリンピック東京大会もなくなった。前者は戦争のため、後者は新たな感染症の蔓延によって。まさに「呪われたオリンピック」(麻生太郎財務相)となった。「アトム」を覆い隠して強引に誘致したオリンピックは、「コロナ」(COVID-19)に沈んだ(直言「「幻の東京五輪」再び―フクシマ後9年、チェルノブイリ後34年の視点」)。
ドイツ首相の「コロナ危機」演説
その「コロナ」により、世界の様相は一変した。まさにパンデミック、世界的大流行である。感染者数が激増しているドイツでは、3月18日、メルケル首相が「歴史的演説」を行った(冒頭左の写真参照)。シュプレー川沿いの連邦首相府の建物、その上階東側の執務室で、議事堂(Reichstagsgebäude)を背後に、首相は淡々と語った。「親愛なる市民同胞の皆さん」(Liebe Mitbürgerinnen, liebe Mitbürger) と、ドイツに生活するすべての人々に向けた呼びかけに始まり、新型コロナウイルス感染症の蔓延を、第二次世界大戦以来の歴史的課題と位置づけた。演説で注目されるのは次の箇所である(演説の全文は、林美佳子さん(ボン在住)のブログ参照)。
・・・開かれた民主主義に必要なことは、私たちが政治的決断を透明にし、説明すること、私たちの行動の根拠をできる限り示して、それを伝えること、理解を得られるようにすることです。もし、市民の皆さんがこの課題を自分自身の課題(IHRE Aufgabe)として理解すれば、私たちはこれを乗り越えられると固く信じています。このため次のことを言わせてください。事態は深刻です。あなたも真剣に考えてください。東西ドイツ統一以来、いいえ、第二次世界大戦以来、これほど市民による一致団結した行動が重要になるような課題がわが国に降りかかってきたことはありませんでした。・・・私たちは民主主義社会です。私たちは強制ではなく、知識の共有と協力によって生きています。これは歴史的な課題であり、力を合わせることでしか乗り越えられません。・・・
「コロナ」の挑戦に「開かれた民主主義」はいかに立ち向かうか。それには、政治的決断の透明性、科学的裏付けのある根拠を示して、理解できるように説明することが必要だという基本的立場が明確にされるとともに、市民が当事者意識をもって問題に向き合うことの大切さが説得力ある言葉で語られている。「事態は深刻です。あなたも真剣に考えてください。」(Es ist ernst. Nehmen Sie es auch ernst.)。この言葉を見出しに使うメディアも多かった(例えば、第2放送(ZDF heute)、大衆紙のBild等々)。
メルケル首相は「事態は深刻」であることを率直に語り、公的機関だけでは立ち向かうことはできず、市民がこれを「自分自身の課題」とするときにのみ、乗り越えられると訴えている。原文は「IHRE Aufgabe」、つまり「あなた(大文字)の課題」ということを強調している。こういう危機的な局面にあっては、指導者が直面する問題の本質を、真剣に、包み隠さず、誠実に訴えることが何よりも大切であり、かつ、指導者は言葉と行動(表情や話ぶりを含めて)のすべてにおいて、人々から不信をもたれるようなことがあってはならない。それは、直言「「危機」における指導者の言葉と所作」)で何度も書いてきた通りである。
そのメルケル首相自身が3月22日、肺炎球菌のワクチン接種を受けた際の医師に新型コロナの陽性反応が出たため、自主的な隔離措置に入った。翌日の連邦議会では、副首相のショルツ財務相(SPD)が首相にかわって答弁している。このことも、国民に事態の深刻さをリアルに伝えることになった。
身内もいさめられない人物が緊急事態宣言?
これに対して、日本ではどうだろうか。安倍首相は、記者会見で自分の言葉で、正面から国民に訴えかけ、記者からの質問にもきちんと答えて、信頼感を得るということにおいて、ことごとく失敗している。2月29日と3月14日の記者会見(官邸1階の記者会見室)はプロンプターに出てくる文字をひたすら読みあげ、記者の質問に対しても、事前に把握した質問のカンペですませるというお粗末さだった。「森友問題」などで追及されることをきらって、官邸4階の大会議室で開催される「コロナ対策本部」における、一方的な方針の読み上げでごまかしてきた。3月14日の記者会見では、「感染拡大を乗り越えて[オリンピックを]予定通り開催したい」という立場を堅持していた。冒頭右側の写真は、3月20日の第21回コロナ対策本部で発言する安倍首相だが、下を向いて原稿を読み上げるだけ。無表情で、咳き込む場面すらあって、メルケル首相のように正面から国民に向けて語りかけることをしない。中身も、「国内の感染状況については、爆発的な感染拡大には進んでおらず、引き続き、持ちこたえている」という認識の上に、臨時休校していた学校については、学校再開に向けた具体的な方針を文科省がとりまとめてください、自粛要請をしていた大規模イベント等については今後、主催者が感染対策につとめて判断してください、とトップとしての明確な方針を示すことなく、すべて丸投げの姿勢で、記者からの質問を受ける機会も十分につくらず、国民の疑問に何もこたえなかった。
ところが、オリンピック延期に向けた声が各国からあがってくると、4日後の24日夜になって、安倍首相は、IOC(国際オリンピック委員会)のバッハ会長との電話会談を行い、「1年程度の延期」という方向を唐突に打ち出すに至った。場所は首相官邸ではなく、首相公邸(旧官邸)であった。公邸でのぶら下がり記者会見というのはきわめて珍しい。安倍首相は自分の提案をバッハ会長が「100%同意する」と述べたとそこで紹介した。IOCはその後の理事会でこの方針を承認しているので、安倍首相主導の決定のように演出された。3月16日の主要7カ国(G7)の緊急テレビ電話協議の直後、安倍首相の口から「完全な形での実施」という言葉が頻繁に出てくるようになったので、結局、「完全な形での実施は困難だから延期」(3月23日参院予算委の答弁)という伏線がその時にはられていたことがわかる。このぶら下がり会見を伝えるNHKニュースには、「首相広報官」の岩田明子NHK解説委員が登場。安倍首相の思いまで読み解く「解説」のなかで、安倍首相の決断が「トランプ大統領から1000%の支持」を得たと誇らしげに語った。複雑な政治決定を詳しく検討するのではなく、単純に数字化して「成果」を誇るのでは本当に広報と変わらない。また、安倍首相は、イベントや外出の自粛を国民に呼びかけておいて、妻がレストランの敷地内で桜をバックに13人で密集して記念撮影していたことを指摘されて、「レストランに行ってはいけないのか」と居直ったのにも驚かされる(3月26日参議院予算委員会)。そんな人物の自粛要請に説得力は皆無である。自分の身内すら説得して思いとどまらせることができない人物に、緊急事態宣言を出す権限を与えてしまったこの国の危うさを思う。
この写真は、『南ドイツ新聞』3月26日付のスポーツ欄(27面)である。日本の新聞の政治記者などよりもずっと鋭い筆致で、五輪延期後の対応の急変を伝えている。見出しは「桜の花盛りの目覚め」。長らく日本政府とIOCは、あたかも東京はコロナ危機とは無縁であるかのように振る舞ってきた。PCR検査はわずかしか行われなかった。しかし、1年延期が決まるや、この国には「暴力的任務」(gewaltige Aufgabe)が差し迫っている。公園の桜を楽しむほのぼのとした写真の下には、小池百合子東京都知事の「感染爆発 重大局面」の記者会見の写真を入れている。
『ニューヨーク・タイムズ(電子版)』は 26日、日本の感染状況が欧米諸国のような状況になっていないことについて、「世界中の疫学者は理由が分からず当惑している」として、日本政府が医療崩壊を避けるため、意図的に検査を制限しているとの見方を紹介して、米コロンビア大の専門家の言葉として、「日本のやり方は「ばくち」であり「事態が水面下で悪化し、手遅れになるまで気付かない恐れがある」」を紹介している(共同通信3月27日10時45分より)。東京とその近県の知事たちの一致した「外出自粛要請」(3月26日)を受けて、安倍首相は3月28日に3回目の記者会見を開いたが、「現状は緊急事態宣言との関係でぎりぎり持ちこたえている状況だ。瀬戸際の状況が続いている」という認識を示し、リアリティのある具体策は何も出されなかった。
ドイツの「コロナ保護シールド」
コロナ危機に向き合う各国の状況のなかで、それぞれのトップの資質や能力が一気に見えてしまったように思う。冒頭に紹介したドイツのメルケル首相は、18日の「歴史的演説」に続いて、22日、16の州首相とのテレビ会議を行い、コロナ対策の内容や規制の強度の調整を試みた。災害対策も感染症対策も州の権限のため、首相としては9項目の方針(プラン)を確認した。それが以下の9点である。(1) 人との接触を最低限にすること、(2) 公共の場所で人に接触するときは1.5mの間隔をとること、(3) 外出する時は一人もしくは同伴者一人のみ(家族は別)、(4) 買い物、通院、他人の介助など以外は、外出は「危急の事柄」のみ、(5) 公私ともに集会(人の集まり)は原則禁止、(6) 飲食店は閉鎖(デリバリーやテイクアウトは営業可)、(7) 美容院やエステサロンなどの閉鎖(医療を除く)、(8) 接客を伴うすべての営業についての効果的なウイルス対策、(9)これらの措置は少なくとも2週間有効。違反には罰則がある。この方針を出したあと、首相はすぐに「自主隔離」に入った。
この写真は、3月25日のドイツ連邦議会の様子である(ZDF heute 25日7時)。メルケル首相の定位置は空席になっていて、ショルツ財務相・副首相がこの日の主役である。一つおきに議席を開けるために、「あけておいてください!(BITTE FREI LASSEN!)」という紙が置かれている。その結果、全議員が着席できないため、この日は例外的に、会派内での調整によって「間引き」が行われたようである。各会派の議員団長が質問をして、ショルツ副首相がメルケル首相のかわりに答弁に立った。そのつど、演壇の消毒が行われた。いつも水を交換にくる女性職員が、消毒液を浸した布で力を込めて拭いている光景は初めてだった。
この25日の議会では、与野党が一致して、大規模なコロナ危機の救済プログラムが決定された。これは「ドイツのためのコロナ保護シールド」(Corona-Schutzschild für Deutschland)」と呼ばれ、27日に連邦参議院で同意された。ドイツ連邦財務省のホームページにから見繕って紹介すれば、次の通りである。まず、1560億ユーロ(約20兆円)の国債の新規発行を可決した。国の債務負担行為に制限を設ける基本法上の「債務ブレーキ」(Schuldenbremse)を、「コロナ危機」に直面して緩和したわけである。追加予算も可決され、30日からの週で、旅行会社や中小企業などに対して援助が行われる。イベント自粛などで仕事を失った人たちに対しては、ほとんど審査なしで5000ユーロ(約60万円)の援助が与えられる。返済の必要はない。借家人に対して、9月まで家賃滞納を理由とした契約解除を禁止するとともに、家主に対しては家賃収入の援助が行われる。保育園や学校の閉鎖による家族の所得減への補償も厚く行われ、これには自営業やフリーランスも含まれる。フリーランスに低利の貸付をするという日本とは大違いである。中小・自営業者などへの緊急援助に500億ユーロ(約6兆円)。返済不要の補助金が3か月間支給だから、日本とは数桁違う。
ドイツ感染防護法改正に憲法上疑義あり
ドイツ政府の「コロナ保護シールド」は、安倍政権の「やってる感」満載の方針に比べれば、かなり踏み込んだ救済策といえる。だが、注意しておくべきことがある。これらの救済策と並んで、25日の連邦議会においては、感染防護法(Infektionsschutzgesetz)の改正法が短時間で可決されたことである。この改正法には、「コロナ危機」に対処するという緊急性や必要性は理解できるとしても、憲法上疑義のある点が存在する。しかし、いまそのようなことを指摘するのをはばかられるような「空気」がドイツにもあるようである。
ドイツの憲法研究者が出している「憲法ブログ」(Verfassungsblog)に、先週の木曜(3月26日)、興味深い論説がアップされた。ベルリン・フンボルト大学のクリストフ・メラース(Christoph Möllers)教授(51歳)の「ウイルスの時代(兆候)における議会の自己無力化」(Parlamentarische Selbstentmächtigung im Zeichen des Virus)である。緊急時に批判を行うことへの独特のプレッシャーを感じさせる書き出しで、コロナ危機に対処する際の感染防護法の改正法の憲法的問題性を指摘する。
メラースは、「スローモーションの自然災害」(Christian Drostenフンボルト大学ウイルス研究所)とされる1月末以降のコロナウイルス感染について、3月25日に連邦議会で可決された感染防護法の改正法について、厳密に再検討する必要があると指摘する。ただ、この法律に対する批判は容易ではない。法律が与野党一致して可決されているからである。そこで、メラースは、感染防護法の改正法について2点にわたり問題を提示する。
3月21日からほとんどすべての州において、外出・接触禁止が行われているが、その[法的]基礎となるのが、感染防護法28条と結びついた同32条における授権である。デモやコンサート、礼拝など公的生活全体の閉鎖がこれにより可能となるということはまずない。これとは逆に、一般条項によって州を封鎖しうるという見解もあるが、かなり珍妙だろう。警察法各論から緊急事態法総論を創出しているからである。
28条1項においては、規範の明確性を理由とする対応に限定されているが、コロナ対処によって行われていることは実質的にそこから逸脱している。メラースは慎重な言葉運びをしながらも、ドイツ連邦共和国の歴史のなかで最も強烈で集団的な基本権介入が、適切な法律上の根拠なく生じ得るという認識が、合法性の理解を揺るがすという危惧を表明している。
感染防護法の改正法は、本質的に、連邦議会自体による「国家的規模での集団感染状態」の確認を行っている。これは驚くべきことに、連邦保健省によって自己授権として行われ、同省の権限拡大に接続する。メラースの問題意識は、同法5条2項1号が、連邦保健省に、一定の条件下で、外国から帰国した人に対して、健康上重要な情報を与え、あるいは検査をさせることを義務づける権限を与えると指示している点にある。これによって、基本法83条により州の固有事務とされている連邦法律の執行が、連邦省それ自体に委ねられてしまう。しかし、このような権限配分は普通の法律では不可能である[基本法改正が必要]。
メラースが着目するのは、もう一つ。感染防護法5条2項3号が、連邦保健省に対して、「法規命令によって、連邦参議院の同意を得ることなく、この法律の規定の例外」を授権している点である。これは、行政機関に対し、法規命令の制定を授権する場合には、その法律において、授権の内容・目的・限度を明記すべきことを求め、 白紙委任を禁じている基本法80条1項と相容れない。
メラースは、この二つの条文は、単に技術的な問題があるだけではなく、公共性がとりわけ一般的な集会禁止によって害されるとき、まさに危機の時代にあっては政治的な取決めの場の問題があるとする。規範定立の作業から立法者が身を引くことが、このような時代にあって正しい判断であるかどうか、強く疑問とされねばならない。たとえ立法者が憲法適合的にこのことを成し遂げたとしても、である。メラースは、命令の制定が、立法よりも迅速で、より機能的であるということは、何れにしても神話であるとして、危機の時代に立法府によらず、行政府の命令を重視することに傾く議論に警鐘を鳴らす。
そしてメラースは、権限調整の必要性に立ち入るが、とりわけ州の執行権限および連邦参議院の関与を重視している。連邦保健省のような官庁がすべてを単独で規制できる場合には、調整の根拠は存在しないことになる。各州が、法規命令を発布する際に連邦参議院の同意なしですませるというのにはあきれるという。
最後に、不安にさせるのは、最終的な民主的調整機関である連邦内閣の放棄である。今のような緊急事態において政治的な関心の中心にある権限のすべてが、個々の省によって行使されうるということは、決定の脱政治化を極端に導く。民主的正当化に関する考察は、ここではさしあたり厳密な合法性の問題が肝要であるということについて何ら変更を加えるものではない。この危機を、議会と政府、そして連邦と州との分業に関する根本的な規範が、時限的に、不文の憲法的な緊急事態留保の下にあるという認識でもって切り抜けねばならないとすれば、このことは不幸な結果をもたらすであろう。裁判的統制もこのような状況にあっては自制的であろうから、その結果、我々は結局、あっさりと掘り崩された基準を受けとることになるだろう。
メラースの新型コロナ対策への批判は抑制的である。憲法上の論点も主に権限に関わる部分に限定されている。いずこにおいても、新型コロナの感染拡大防止など、緊急を要することについて、トップダウンで一元的に処理することは、迅速かつ機能的にも見えるが、メラースはこれを「神話」だと断定している点は注目していいだろう。日本の場合、安倍首相の言動を見ていると、彼に権限を集中させ、トップダウンで一元的に事態に対処することは、「神話」と呼べるほど高尚なものではなく、単なる妄想といっていいかもしれない。早ければ3月30日には出されると予測されている、首相による緊急事態宣言は、「コロナ危機」を克服することはできず、副作用を超えたマイナスの効果・影響をこの国の深部と芯部に与えていくだろう。
なお、「憲法ブログ」にはこのメラース教授の論稿に対するコメントが8本付いている(3月29日現在)。「コロナ危機」に対処する上で、より政府の裁量を拡大することに肯定的意見もあって、日本における「緊急事態宣言」の評価とも関わって興味深い。「憲法ブログ」には、「コロナ―トリアージと人間の尊厳」など興味深い論稿が毎日掲載されている。機会をみて紹介してみたい。