何のための「緊急事態宣言」なのか――「公衆衛生上の重大事態」に対処するために
2020年4月13日

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4月7日午後、第27回新型コロナウイルス感染症対策本部(官邸4階大会議室)において、安倍首相は、新型コロナ特措法32条1項に基づく「緊急事態宣言」を発出した(写真左は翌日の各紙。「発令」という見出しを付けたのは『読売』『毎日』のみ)。その日午後7時から、宣言により「指定公共機関」となったNHKは、政府広報として機能を始めた。民放は「指定公共機関」でもなく、独自に番組を放映できるのに、テレビ東京までが全社横並びで報道特番を組んだことには驚く。なお、この宣言の法的問題点についてはここでは立ち入らない(望月穂貴「新型インフルエンザ等対策特別措置法の「緊急事態宣言」の問題点」(公益財団法人政治経済研究所、2020年3月)参照参照)。

「緊急事態宣言」の自己目的化

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天皇の記者会見のような距離感(右の写真:『読売』1面)で、冒頭25分近く、冗長で冗漫、情緒的な語りが続いた。テレビ中継をみたが、なぜ、このタイミングで、このような宣言を出したのか、具体的根拠に基づく説明もなければ、休業要請と同時にしっかりした損失補償があって、中小業者もこれなら協力しようという気持ちにさせるような中身もなかった。息をのんで次の言葉を待つ人々を納得させる言葉はついに出てこなかった。むしろ、「今までどおり、外に出て散歩をしたり、ジョギングをすることは何ら問題ありません。・・・レストランなどの営業に当たっても、換気の徹底、お客さん同士の距離を確保するなどの対策をお願いします。」といった、首相が言わなくてもいいようなことをダラダラ語って、緊張感を弛緩させる内容だった。飲食関係が営業自粛に追い込まれるなか、「レストラン」という例示に違和感を覚えた。台東区の某高級レストランで「桜を見る会」のようなことをやっていた昭恵夫人のことが週刊誌で暴露され、国会で追及されるや、「レストランに行ってはいけないのか」と居直った安倍首相。この記者会見における例示は、その答弁との帳尻合わせたのかもしれない。本当に感染爆発を防ぎたいのならば、各国がやっているように、外飲食を厳しく制限し、その代わりに損失の補償をしっかり行う。その方が筋が通っているのに、日本政府だけはやろうとしない。

ただ、この記者会見で注目されたのは、東京で「2週間後には1万人、1か月後には8万人を超えることとなります」という妙に細かな数字を挙げたことである。「人と人との接触機会を最低7割、極力8割削減することができれば、2週間後には感染者の増加をピークアウトさせ、減少に転じさせることができます。・・・5月6日までの1か月に限定して、7割から8割削減を目指し、外出自粛をお願いいたします」。各国の首脳たちの記者会見とは違って、安倍首相は「専門家」会議の尾身茂的カタカナ語(クラスター、オーバーシュート、そして今回はピークアウト)をそのまま使い、理由や根拠も示さずに、国民に対して負担を求める発言を続けている。

想起しよう。2月26日に、「ここ1、2週間が瀬戸際」と言っていたことを(それを戦前の「日本ニュース」風に皮肉ればこうなる)。その2週間が経過し、3月14日の記者会見における安倍首相の言葉が国民のコロナへの警戒をゆるめてしまった。これで人々はホッとして外に出た。だが、それから11日が経過した3月25日、「五輪縛り」が吹っ切れた東京都知事が「感染爆発 重大局面」を打ち出し、流れが一気に変わる。2月下旬の安倍首相の判断が甘く、見通しを誤り、国民を誤誘導したことを率直に謝罪し、仕切り直しをすべきところにきていたのに、7日の「緊急事態宣言」後の記者会見でも、何ら根拠を示すことなく、「5月6日」という日付まであげて、この日までがんばれという精神論を説いたのである。国民にだけ負担を強いて、「身を切る努力」をしないで、「8割削減で、失敗すれば8万人の感染者」。この政権にコロナ対処を任せていたら、1カ月後にどんな惨状が待っているのか。背筋か寒くなった瞬間である。

責任なき首相のいう「政治は結果」?

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この記者会見での白眉は、終了間際に果敢に質問したイタリア人記者とのやりとりだった。記者が、安倍政権の対応が「一か八かの賭けが見られますね。成功だったら、もちろん国民だけではなくて世界から絶賛だと思いますけれども、失敗だったらどういうふうに責任を取りますか。」と質問した。これに対して、安倍首相は、「急所を突かれると興奮する性癖」から一瞬、眉毛を八の字にする「予算委員会での答弁顔」になった。そして、この表情で安倍首相は、「最悪の事態になった場合、私たちが責任を取ればいいというものではありません。」と言い切ったのである。安倍首相の口癖では、「政治は結果」ではないのか。「私や妻が関係していたということになれば、間違いなく総理大臣も国会議員もやめる」といって責任を取らなかった首相らしい逃げ方ではある。「コロナ危機」という最悪の事態に最悪の政権で立ち向かわねばならない日本の悲劇がここにある。

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英国のジョンソン首相のコロナ感染という異常事態で前面に出てきたのは、46歳の外相である。医学・感染症の専門家を両側において、テレビ画面の記者に対して「会見」をしている。メッセージはいたって明確。自分の言葉で語っている。演台には、「復活祭には家にとどまれ」というプレートを掲げている。私は復活祭(イースター)の時期に3回ドイツに滞在したが、この時期は天気もよく、お祭気分ですごい人出になる。だから、それを止めるのは大変である。感染防止のために、必死に訴える真剣さが伝わってくる。

東京がNYになるのか

今週、東京はニューヨークのような状況になっていくのではないかという予感がする。PCR検査が極端に少ないために、感染拡大を予測する根拠を持たないのが日本の政府である。「まるでギャンブル」(フィナンシャル・タイムズ)、「一か八かの賭け」(先のイタリア人記者)。防空法のもと、空襲に対してバケツリレーと火叩きで対抗せよと強いた大日本帝国政府と安倍政権との間には、さほどの距離はないのではないか(直言「大空襲から75年―防空法と新型コロナ特措法」参照)。

児玉龍彦氏(東大先端研教授)の「東京はニューヨークになるか」(4月3日収録)は68分あるが、長い動画を見ない私でさえ、家族と二度も見てしまった。最新の科学的知見に基づく正確な認識に支えられ、高い調整能力を発揮する(信頼に値する)リーダーの存在の重要性を痛感した。安倍政権が依拠する「専門家会議」には、最先端の専門研究者が不在で、尾身茂氏らの「昭和の懐メロ」(児玉氏の言葉)的な専門家が仕切っている。これは不幸である。ただちに専門家会議を作り直して、新型コロナウイルスに対応できる真の専門家と入れ換える必要がある(児玉氏の動画の後半参照)。大仰な「緊急事態宣言」など使わなくても、もっと早い段階でできたことである。いまの「専門家会議」は、「3.11」の時、「原子力ムラ」の住人たちが「専門家」として表に出ていたのとよく似ている。

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いま、埼玉県を皮切りに、医療崩壊が起きている。医療の現場の声が届いていない。今週から感染爆発が顕在化することが危惧されている。「神奈川県医師会からのお願い」(PDFファイル)は、全国の医療関係者の共通の思いとして、しっかり受け止める必要がある。

 

前例のない自由制限には、前例のない透明性が必要

ドイツの『憲法ブログ』というサイトの4月4日更新で、ハーバード大学ロースクール教授(会社法・比較法)のホルガー・シュパマン「前例のない自由制限は前例のない透明性を必要とする」(Holger Spamann, Beispiellose Freiheitseingriffe brauchen beispiellose Transparenz)という魅力的なタイトルの論文を見つけた。その概要を抄訳・紹介しよう。

「コロナの時代」においては、民主主義と効果的な感染病対策との両立可能性について議論が多くなされている。特に全面的な外出制限や携帯電話のトラッキング(データの追跡・収集)などの措置が問題となる。民主主義の観点から重要なのは、その目的だけである。一方で措置と目的、他方で措置と手続の区別を曖昧にすることは、二重の意味で極めて危険である。第一に、民主主義社会が、効果的な措置は本質的に非民主的なものであるとして、誤ってそれを受け入れない場合には、感染症に対処する上で底抜けに衰退する。そして第二に、民主主義社会が、目的と厳格に結びつけることをせず、適切な透明性もなく、他の手続上の保証もなしに極端な措置をとる場合、危うい先例を生み出すことになってしまう。

外出制限や、コロナに関連して布告され、想定されるその他の措置は、自由と私的領域への大規模な介入であることは疑いの余地がない。しかし、制限の厳しさだけでは非民主的ということにはならない。健全な民主主義であっても、その存立を確保するために、まさに部分的に、いくつかの自由権に対する厳しい介入を必要とすることがある。自由刑、徴兵制、または電話の盗聴を想起すればよいだろう。むろん、介入が厳しければ、濫用の恐れもまた高くなる。上述の措置それ自体の良し悪しではなく、目的と手続が問題となるのである。

民主主義国家においても、例外的な状況においては、例外的な措置が必要な場合がある。措置それ自体に関する透明性が欠けている。より詳しく言えば、将来の措置の計画および現在の措置の期限の計画に関する透明性が欠けている。ここでは、政治が手の内を明かしていないという印象は避け難い。メルケル首相の演説では、外出制限や接触制限について示唆されていた。その5日後、全国的に実施された。予想される期間に関する公式な表明はまだ存在しない。目的を達するために、いかなる期間、これらの措置が維持されるかが重要で、そのために見積もりや予測は避けられない。

問題の解決にあたって透明性が不利に働きうるという問題もあるが、コロナの場合はこれに当たらない。敵が人間である場合と異なり、ウイルスという敵は、その戦略を変更しない。他方、措置が完全かつ早い段階から透明性を持つことは、有害な副作用を軽減するのに役立つ。前例のない自由への介入は、前例のない透明性を伴わなければならない。そうして初めて、民主主義は、極めて深刻な介入についても、何ら危惧する必要はなく、あらゆる非民主的な国家よりも効果的に措置を投じることができるであろう。

「コロナ危機」において、どこの国でも、外出禁止ないし外出「自粛」によって、移動の自由という基本的な権利に対する著しい制限が行われている。また、接触感染を特徴とするコロナに対処するために、感染者が接触した人の経路を徹底して追跡することが行われている。経路特定(クラスターをつぶす)の必要性と緊急性から、スマホの個人情報が収集され、利用される。「平時」ならば重大なプライバシー侵害となる問題が、「コロナ危機」においては、感染を防止する必要性と緊急性から正当化されている。この重大な権利制限には、徹底した透明性が求められるというのが、このブログの論稿のポイントである。その通りだと思う。ただ、「前例のない自由制限」は日本でも行われているが、「前例のない透明性」は現在のこの国では望むべくもない。それどころか、前例のない隠蔽と秘密主義の政権によって、この「コロナ危機」に対処しなければならないという不幸な状況にある。公文書の偽造、変造すら行ってきた安倍政権において、「コロナ危機」への対処を超えて、「火事場泥棒」的にさまざまな施策が繰り出されている。

「公衆衛生上の重大事態」に対処するために

コロナは国家や武装勢力ではない。「コロナ危機」は外部からの武力攻撃を想定する事態ではないから、これを戦争に例えるのは有害無益である。犯罪行為であるテロを戦争になぞらえて、議論を「対テロ戦争」に向かわせた意識的ミスリードを想起すべきであろう。憲法に緊急事態条項を導入する「実験台」として「コロナ危機」を利用する向きは「惨事便乗型改憲論」として排斥されねばならない。今回の「緊急事態宣言」は憲法のもとにある法律上の措置であって、憲法による制約を受けている。すぐに「国家緊急事態」(Staatsnotstand)を想起するのではなく、災害対策基本法上の「災害緊急事態」、警察法上の「警察緊急事態」、原子力災害対策特措法上の「原子力緊急事態」と並んで、感染症防護の観点からの「公衆衛生上の重大事態」と解すべきである。憲法改正の必要はまったくないし、法律の改正によって、一定の地域を閉鎖する権限を都道府県知事に与えることも可能である。都道府県単位で対処できることに国が官邸主導で「イニシアチブ」をとったかと思えば(全国一律の休校要請はひどかった! )、休業補償など都道府県単位では限界がある措置については、国は無策と不作為をさらしている。

だが、注意しなければならないことは、感染防止のため、外出制限をもっと厳しくすべきだという「下からの声」に押されて「緊急事態宣言」を出したような格好をみせていることである(直言「「コロナ危機」に「緊急議会」?」の最終パラグラフ参照)。安倍政権は、人の命を人質にとって、適切な措置をさぼり、「自由をもっと制限せよ」と国民が求めたからと、憲法改正で緊急事態条項を導入する方向にもっていこうとしている、とみるのは穿ちすぎだろうか。

安倍首相は立憲主義の土俵からの逸脱を続けるのみならず、その土俵を壊してしまった、まさに「憲法違反常習首相」である。土俵を壊す人間に、人権にもかかわる「土俵際」の議論をさせてはならない(直言「安倍首相に「緊急事態」対処を委ねる危うさ―「水際」と「瀬戸際」の迷走」)。

いま求められていることは、テレビに登場するような役者化した感染症学者ではなく、児玉教授がいう最先端の研究者が全国から集まってチームを組織して、コロナにまともに対処する体制をつくらせることである。感染症対処の権限は都道府県知事にある。知事たちの連携で、国に対して実効性ある施策を求めていくことだろう。

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