ネバー・エンディング無責任――遠隔授業をやりながら考える
2020年5月25日

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47年前、法学部2年生の時、「外国法」科目で稲子恒夫先生(当時、名古屋大学教授)の集中講義を受講した。夏休み前の数日間、先生の博学・博識の講義を最前列で拝聴した。巷で流布しているロシア語の翻訳の誤りを次々に指摘されていくのがおもしろかった。「ニコライ・ゴーゴリ『検察官』という本がありますが、これは誤訳でありましてぇ、「会計査察官」というのが正しい」と指摘されたことはしっかり記憶している。てっきり検事の法廷場面が出てくる小説とばかり思っていたから、授業終了後に早速、生協書籍部で岩波文庫を買って読み、なるほどと思った。

検察官について、しかもその人事に至るまで、一般の人々がここまで関心をもつようなことが、かつてあっただろうか。10年前の民主党政権時代に、「検察と政治」の問題が問われたことがあった(直言「次席検事の「眉間の皺」―検察と政治(その2・完)」参照)。私は当時の政権の対応もしっかり批判しているのでお読みいただきたい(特捜検事の証拠改ざん事件で検察批判も)。しかし、安倍政権の執拗かつ陰湿な人事介入と統制の手法は際立っており、ついに「法律を超える閣議決定」までやって、検察人事に乱暴に介入するに至った。そのことについては、先週の直言「検察庁法改正をめぐる政権の恣意―「法が終わるところ、暴政が始まる」」で詳しく論じた通りである。

突然の検察庁法改正案断念

ところが、この「直言」が更新された当日、検察庁法改正案の今国会成立が断念された。予想もしていない展開に、本当に驚いた。党総務会で了承され、連立与党協議も済ませ、閣議決定を経て国会に提出され、5月18日に採決が行われようとしていた内閣提出法案(閣法)が、唐突かつ一方的に成立を見送られたのである。納得のいく説明をしようとしない安倍首相は、国会軽視であるばかりか、閣議決定を行った自らの内閣をも傷つけるものである。「政府 強気から一転」「批判の広がり 見誤る」と、政権に近い『読売新聞』も4段見出しで、唐突な法案成立見送りを批判的に報じた(19日付「スキャナー」)。官邸に近い『産経新聞』ですら、論説副委員長コラム「風を読む」で、「検察官は、退官する」というタイトルのもと、2月27日更新の直言「検察官の定年延長問題―国家公務員法81条の3の「盲点」」で指摘した、この法律改正のもつ致命的な欠陥に触れている。検察庁法22条は、検察官は一般の国家公務員のように国家公務員法第81条の2第1項の規定により「退職」するのではなく、定められた年齢で自動的に「退官する」のであって、「他者に干渉の余地はなく」、それは「準司法官でもある検察官の自主と独立を象徴」するものだと書いている。『産経』からも、無理筋の法案であることが暴露された格好である。

検事長の賭けマージャン

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法案成立断念とほぼ同時に、ネット上に『週刊文春』5月28日号(21日発売)の記事「黒川弘務検事長は接待賭けマージャン常習犯」が発売前に飛び交った。閣議決定によって「定年延長」された黒川東京高検検事長が、「緊急事態宣言」下の5月1日と13日に、現役の産経新聞記者の自宅で、元朝日新聞記者とともに賭けマージャンをやり、産経記者差し回しのハイヤーで帰宅したというのである。密閉空間に4人が密集し、密接な距離で卓を囲むマージャンは、拙宅近くの防災行政無線塔から毎日2回、大音響で「自粛」を求められる「不要不急の外出」と「三密」そのものではないのか。黒川検事長は辞職したが、その後の展開にも、現政権の著しい腐敗のありさまが見て取れる。普通の公務員なら賭けマージャンが明らかになれば懲戒処分だろう。しかし、黒川氏は懲戒処分に至らない「訓告」にとどまり、退職金は満額支給される見込みである。黒川氏の定年延長を閣議決定して異様な特例を作ろうとした安倍首相は、これは法務省が求めてきたことだとかわして、例によって、「責任はある」と言いながら、「責任をとる」とは決して言わない(この写真はnews23より)。改めて、5年前の直言「安倍首相の「責任」の意味を問う」参照)をお読みいただきたい。安倍首相は歴代首相にはみられない特徴をもっている。それは、「ネバー・エンディング無責任」である。一見きわめて明白な誤りでも、決して認めない。これは天性かもしれない。父・安倍晋太郎元外相が、「こいつはね、言い訳をさせたら天才的なんだよ」と語ったというのも頷ける。

公訴権を独占し(「国家訴追主義」(刑事訴訟法247条))、人を起訴するか、しないかについて広範な裁量権をもつ(「起訴便宜主義」(同248条))検察の頂点近くにいる人物が、①賭博罪(刑法185条)にあたる疑いのある行為を、②かなり長期にわたって反復継続して行い、③国と都が「不要不急の外出」と「三密」を避けるように連日呼びかけているなかで、④権力との適切な距離(パワー・ディスタンス)をとるべき新聞記者とともに、⑤「三密」にあたるような場所と態様で長時間過ごし、しかも、⑥新聞記者(会社)が高額の料金を負担する交通手段(ハイヤー)を使って帰宅したということをどう考えるか。この一連の行為については、たくさんの突っ込むべき論点があるが、ここでは立ち入らない。ただ、ルールを破った人を訴える立場の人がそのルールを破ったケースであって、一般の人がそのルールを破ったときに考慮されるべき事情は、この場合低く見積もられるということは異論がなかろう。「試験中に携帯の着信音がすれば当該試験無効」というルールを定めていた大学で、(ここからはフィクション)しつこくそれを注意していた試験監督の携帯が、試験中に鳴り響いたようなものである。

ところが、争いのない事実である賭けマージャンについて、法務省が行った黒川氏の調査の結果によると、レートがいわゆる「点ピン」(1000点を100円に換算)で、1万から2万円程度の現金のやりとりがなされたもので、ハイヤーも産経記者の帰宅時に使ったものに同乗しただけだという(「法務省の調査結果(要旨)」『朝日新聞』5月23日付)。聞いた話だが、賭けマージャンの点数計算には、持ち点の換算〔1000点=100円〕以外に、祝儀、ハコなど、独自のボーナス点を加算する慣習があるそうで、黒川氏らの賭けマージャンで動いた金額が、報道されているような額の枠内におさまっていたのかは不明である。最高検察庁と法務省刑事局が関わった調査で、メンバーは全員が検察官のはずだから、この調査は大甘もいいところである。世間一般で行われている「点ピン賭け麻雀」に検察がお墨付きを与えることにもなる。そもそも記者がマージャンのあとに帰宅するならタクシーをよぶだろう。認証官の検事長閣下をお送りするために、黒塗りのハイヤーを使ったもので、毎回それをやれば、その費用は多額になる。ごく普通の検察官なら、賭博容疑で被疑者を取り調べる時、上記のレートとハイヤーに関する言い分で納得するはずもないだろう。

「余人をもって代えがたい」人物だったのか

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黒川氏が、法律で明確に規定されている定年(63歳)を閣議決定で強引に変更してまでその地位にとどめておかなければならないような、「余人をもって代えがたい」人物だったのか。改めてnews23が整理したこのフリップをみると、安倍首相の身近に迫ってきた刑事訴追のリスク(当面、公職選挙法違反と政治資金規正法違反)を回避するため、「官邸の守護神」を必要とした事情が見えてくるだろう。いまのところ、黒川氏に対して、賭博行為による刑事処分がなされる気配はないし、懲戒処分もなし、そして退職金満額支給など、このままでいけば、国民の怒りはさらに高まるだろう。検察庁法改正や黒川検事長問題などで、これを批判する膨大なツイッターが飛び交っている。私自身は今後もツイッターはやるつもりはないが、世間の人々が家にこもりながら、政治への関心を高め、SNSを通じて積極的に発信していることは注目したい。

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首相の側近たちは「国民は時間がたてば忘れるだろう」とたかをくくっているようだが、『毎日新聞』の世論調査(5月23日)によると、安倍内閣の支持率は27%まで急落し、不支持は64%に達しているという。このまま黒川氏を「円満退職」させるようなことがあれば、「コロナ危機」で苦しむ中小業者をはじめ、多くの国民の怒りをかうことは間違いない。

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このところ、毎日、朝から晩までパソコンに向かい、大講義2コマ分の動画を収録したり、4種類のリアルタイム授業(ゼミ)を実施したりしている。大学が提供するシステムが使いづらく、前期高齢者である私にとっては「意に反しない苦役」ではある。ただ、4種類のリアルタイム(遠隔授業)では、入学はしたものの顔も見たことのない法学部1年生33人との「導入演習」(1年ゼミ)では、毎週、オンラインで議論をしている。1週間の新聞記事を切り抜き、「これぞ法的問題」という1枚を持ち寄り、5人が発表して、私のコメントを交えて進めていく。たくさん発言があるので、90分はすぐたってしまう。

3・4年の専門ゼミ(水島ゼミ)ではゼミ生が中心になって報告して討論するので、180分は苦にならない。先週は、ゲストに、ゼミ長経験者で、全国紙の社会部記者に講演してもらった。大変興味深い話だった。ゼミ生にも刺激になったようだ。大学院法務研究科(ロースクール)の授業もオンラインでやっていて、全員が発言するので90分は苦痛ではない。

大学院法学研究科「憲法研究」では、授業開始が延期になった3月末、参加を予定していた院生たちが自主的な勉強会を企画した。私もこれに参加し、修士課程・博士課程の院生たちと尾高朝雄『法の窮極に在るもの〔新版〕』(有斐閣、1955年)を、授業開始前の4月中旬から毎週、1章ごとに違う報告者がレジュメを出して検討し、先週、第7章まですべて終わった。私は44年前の修士1年の時に読んだ記憶と記録(研究室にある本に読了日付)がある。古典的な名著は、人生のなかで何度か出会い、そのつど新鮮な驚きと発見をもたらしてくれる。今回の630分をかけたオンライン上での検討は、教室でやる授業とはまた違った、不思議な濃度を感じさせた。「コロナ危機」のなかでの一収穫といえるかもしれない。

オンライン授業のこと

このところ時間がとられているのは、「法政策論」と「憲法」(1年必修)の2コマの講義(履修者は計725人)の準備である。22年間担当した政経学部の「法学A・B」を2018年度限りで休講にしていたので、3コマで受講者1000人をオンラインでということはなくなったのは幸いだった。事前にオンデマンド動画を収録するのだが、私がずっとやってきた「ライブ講義」の雰囲気をオンラインでも残したいと思って、毎回いろいろと趣向を凝らしている。「緊急事態宣言」を受けて大学が全面ロックアウトになる前々日に、車で研究室から自宅に運んだ「歴史グッズ」は、わずかに段ボール3箱のみ。限られたグッズと資料で講義を組み立てなければならない。収録は講義前日の午前中。できるだけ24時間前まで、授業直前に起きた「事件」を反映できるようにしている。当初は大学のシステムがうまく使いこなせず、脂汗を流して作業していた。大変な労力を求められるが、好きでやっているので負担感はない。

この2つの講義では、本論に入る前の冒頭の10分間、それまでの1週間で起きた「事件」の法的解説をやる。冒頭左の写真は、検察庁法改正案が今国会見送りになったことを報ずる5月19日付各紙である。学生には、新聞(紙の新聞を1紙確保することを強く推奨)の切り抜きを毎日最低3枚はつくり、机の下の箱に入れ、授業前にそのなかから、自分の選んだ事件をもって授業に参加するようにいっている。私が扱った事件と一致すれば「座布団1枚」。10枚たまれば「心の単位をあげる」といってきた。

対面授業ができず、1年ゼミで国会見学裁判官弾劾裁判所見学ができないのが痛い。初回で自己紹介してもらったとき、このゼミを選んだ理由として、「フィールドワークがあるから」という1年生がかなりいた。秋学期に実施できるようになることを祈るのみである。

空襲下の早稲田大学

「コロナ危機」は教育の危機、大学の危機である。大学教員が研究室にも自由に行けず、学生会館が閉鎖されてサークル活動がストップし、大学院生は図書館が閉鎖されているので論文のための文献・資料集めもできない。私の担当した1年生のなかには、通信環境の影響で、音声が通じないままゼミの議論に参加せざるをえない者もいた。予期せぬ授業の全面オンライン化に伴う通信環境整備の負担もまた、教員・学生にのしかかっている。何事もオンラインでやるという人を除けば、この状態は、大学の研究・教育の「息の根」がかなり止まっていることを意味する。研究室にも行けず、授業もできず、図書館も閉まった状態というのは、戦争中にもなかった。

防空計画・空襲時の心得

『防空計画・空襲時の心得』(早稲田大学、昭和17年)という冊子がある(直言「『検証 防空法―空襲下で禁じられた避難』のこと」参照)。そこには、空襲時の早稲田大学の対応がマニュアル化されている。「心得」第10には、「今次空襲の結果、焼夷弾の被害を軽視するは不可なり」とあるから、1942(昭和17)年4月18日の「ドゥーリトル空襲」(B25爆撃機による日本初空襲)をきっかけに、大学がこの『空襲時の心得』を教職員・学生に配付したようである。「空襲警報下令時」、講義中の場合、「授業を中止し、部隊長の判断により定められたる部署に就く」。学内には、第一部隊(政経、法の校舎)から第一五部隊(文学部、専門部の校舎)までが編成されていた。教職員と学生の組織である。「各部隊は相当数の予備班を編成し常に部隊に残留せしむべし。予備班は部隊長又は本部の命を受け部隊付近に生ずる火災の消防、負傷者の救護に當る」。一般市民の避難所は、半地下の大隈小講堂となっていた。防空法(1941年改正)による応急消火義務は教職員・学生にも課せられていたことがわかる(私の防空法制研究参照)。

空襲下でも早稲田大学が授業をやっていたことを思えば、「コロナ危機」はキャンパスの完全閉鎖という意味で、大学の歴史始まって以来かもしれない。「コロナ危機」が世界と日本の国家・社会から大学に至るまで与えた影響の検証がいつになったらできるのか、まったく未知数である。少なくとも言えることは、このような「異常事態」のもとでも、研究と教育への努力は怠ってはならない、あきらめてはならないということである。3月から山の仕事場に行けないので(「県をまたぐ移動の自粛」)、自宅書斎を「仮設スタジオ」にして、ひたすらオンライン授業の準備をしている。なお、オンライン授業(遠隔授業)の功罪、これを受けられない学生・生徒との格差の存在を含めて、「コロナ後」において総合的な検証が必要だろう。


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