ドイツ紙がみた「アベノマスク」
「全国民に布マスクを配れば、不安はパッと消えますよ」という国民を完全にナメきった進言に乗って、安倍晋三首相が4月1日に唐突に打ち出した「マスク2枚、全世帯配布」。その「アベノマスク」が5月22日、拙宅にも届いた。4月20付「直言」で、「わが家に届いたものは、そのまま「わが歴史グッズ」のラインナップに加わることになる。日本の歴史上、最低・最悪の政権が税金466億円を使ってやった窮極の愚策の象徴として。」と書いてから1カ月あまり経過したが、大学の閉鎖解除後、わが研究室の一角に展示されるだろう。
ドイツの知人から、その「アベノマスク」を取り上げた『南ドイツ新聞』5月27日付の記事が送られてきた。冒頭左の写真は、その記事と現物を重ねたものである。タイトルは「カビとその他諸々の欠陥」。妊婦用のマスクにカビがついていたり、汚れていたりと、発送をストップして再点検するのにまた税金が支出された。記事は、5月25日の「緊急事態宣言」解除の際の安倍首相記者会見に触れながら、そこで首相が、「新しい日常を取り戻(もど)す」というところを、「とりもろす」と、“d”を“r”に発音したことに注目。「とりもろす、とりもろす、笑! 」とSNS上で遊ばれている様子を伝えている。
官邸のホームページによれば、この日の記者会見では、「新しいやり方で日常の社会経済活動を取り戻していくことだと思います。」「そうした日常を少しずつ段階的に取り戻していく。」「感染を抑えながら完全なる日常を取り戻していく」と、「とりもろす」と聞こえる箇所が3つある。ドイツ人特派員も、首相の日本語の怪しさを感じたのだろう。それよりも内容的に、この記者会見は自画自賛ばかりで、「事業規模は200兆円を超えるものとなります。GDPの4割に上る空前絶後の規模、世界最大の対策によって、この100年に一度の危機から日本経済を守り抜きます。」と言い放ったのには驚いた。一刻も早く輸血しなければならない瀕死の中小企業・小規模事業者などに対して、「血液」が届かない。「最大200万円の持続化給付金も何よりもスピード感を重視し、入金開始から10日あまりで40万件を超える中小企業小規模事業者の皆様に対して5000億円お届けをしております」という言い方にはあきれる。申請は90万件で、5月1日の初日に申請した業者が、システムの不具合で再申請せざるを得ないなどの現実を踏まえれば、ここは、「まだ申請の半分に達していませんが、一刻も早くお届けできるよう全力をあげます」というような呼びかけ方はできないものだろうか。「特別定額給付金」10万円にしても、一体いつになったら届くのか。11年前の「定額給付金」の際も、支給の根拠をめぐって政府の説明は迷走した。当時の首相は麻生太郎現財務大臣である。一事が万事。医療機関がマスクや防護服の足りない切迫した状況にあるのに、「一世帯マスク2枚」に金と手間をかける。『南ドイツ新聞』の記事は、「“アベノマスク ”は、政治的な行動主義が科学的理性を押しのける危機管理のシンボルとなった」と皮肉っている。なお、記事は、黒川検事長問題、自粛下の昭恵夫人彷徨、内閣支持率が29%(朝日)に落ちるも、後継首相がはっきりしないことなども伝えている。
なぜ全国一斉休校要請なのか
今回注目したいのは、「コロナ危機」のそれぞれの局面において、政治が重要な決定を行う際、そこに専門的知見がどれだけ反映していたかということである。逆に言えば、科学的データの裏付けのある専門的知見を踏まえた決定になっていたか、である。
まず、子どもたちの人生を変えてしまった2月27日夕の「全国一斉休校要請」を想起していただきたい。北海道から沖縄まで、全国一律に休校要請を首相が行ったことである。専門家の明確な意見もない政治判断で、首相と側近ら限られたメンバーによる「連絡会議」で決まった。その会議の議事録はつくられていないという。すでに直言「安倍首相に「緊急事態」対処を委ねる危うさ―「水際」と「瀬戸際」の迷走」でも触れたように、経産省出身の今井尚哉補佐官の進言によるもので、文科大臣や初等中等教育局長らも青天の霹靂だったようである。オリンピック開催にこだわり(「五輪面子」)、かつ経済自粛をしないで「やってる感」を示すため、子どもたちを犠牲にしたに等しい。専門家の間で、子どもは重症化しないという報告がある一方、子どもは無発症のまま、高齢者や基礎疾患のある成人に感染させる可能性があるという見解もある。そこから全国一律休校要請という手段につながるのだろうか。ここは感染症の専門家だけでなく、教育関係の専門家、さらには所管の文科省の意見を聞いてから行うべきものだった。安倍政権の特徴は、専門家や専門官庁を無視して、官邸が突出することである。『南ドイツ新聞』が皮肉った「政治的な行動主義が科学的理性を押しのける」手法がここにも見られる。
「専門家会議」はどんな議論をしていたか
次に、PCR検査とそれを実施する場合の「基準」についてである。日本は主要国のなかで、この検査の実施数が圧倒的に少ない。なぜそうなるのか。「専門家会議」のなかでどういう議論がなされていたのか。尾身茂氏の冗漫・饒舌ばかりが目立ち、ここ数カ月、国民のなかに疑心暗鬼が深く沈殿している。とりわけ、PCR検査をするのは「37.5度以上の発熱が4日間以上続く場合」という「基準」を示した、厚生労働省の「事務連絡」(2月17日付)が全国の保健所の現場を呪縛してきた。私自身にも、この「基準」が原因ではないかと疑っているケースがある。では、この「基準」がいつ、どこで決まったのか。政府は「相談・受診の目安」というが、これが検査の実施を妨げ、重症化して死亡するケースを引き起こす要因となってきたことはよく知られている。
安倍首相が「専門家会議」を設置したのは国内初の感染者確認の約1カ月後の2月14日。初会合は16日。その翌日の17日、加藤勝信厚生労働大臣が記者会見で、「37.5度以上の発熱」「強いだるさや息苦しさ」の症状が4日という「相談・受診の目安」を発表した。しかし、専門家の初会合では「目安」には異論が出て、まとまっていなかったという(『読売新聞』2月17日付)。なぜすぐに「目安」を発表でき、いかにして現場の行動を制約したのか。ここにも「政治的な行動主義」が作用している疑いがあり、厳密に検証する必要がある。
さらに、先週の「緊急事態宣言」解除についても、果たしてどこまで専門家の意見を聞いたのか疑問である。政治判断を専門的知見に優先させたのではないか。つまり、検察庁法改正と黒川検事長賭けマージャン事件に対する国民の批判が高まり、内閣支持率が3割を切るという事態に仰天して、国民の関心を大きくそらすべく、「緊急事態宣言」の一律解除に踏み切ったのではないか。北海道と神奈川は感染者増がみられ、地域を分けた解除の判断も可能だったし、専門家のなかには時期尚早論も出ていたはずである。この解除は、自己の保身と政権維持のためという最悪の決断となる可能性を含んでいる。北九州市では感染が急増しているし、東京都でも二桁台が続いている。第二次爆発がないという保証はまったくない。
一般に、政策決定において、科学技術に精通する専門家集団が科学的判断に基づいて政府に助言を行い、政府はそれに基づいて政策決定を行う。新型コロナ感染症では、未知数の部分を含むため、対応を決定するにはできるだけ多様な専門家を集め、多角的に検討することが求められていた。しかし、「直言」でも批判してきたように、「専門家会議」には偏りがみられ、限られた方面と人脈からしか選ばれず、安倍流5つの統治手法のなかの「友だち重視」がここでも発揮されていたように思われる。それでも、参加者からはさまざまな批判が出たようで、安倍首相の一連の決断の根拠を問うような発言は隠蔽されることになったのではないか。前述の一斉休校要請については、『毎日新聞』3月18日付が、「「科学軽視」の首相を批判」という見出しで、「科学が政治に負けた」と憤る感染症専門家の声を伝えている。
「専門家会議」の議事録なし
だからだろう。専門家会議において議事録が作成されてこなかったことが、先週29日、共同通信の取材でわかった。共同通信が内閣官房に議事録などの情報公開請求したところ、「作成および取得をしておらず保有していないため不開示」と通知してきたというのだ。今年3月10日、政府は、この「コロナ危機」を「歴史的緊急事態」に指定して、将来の検証が可能なように公文書管理を徹底することを決定していた。それにもかかわらず、コロナ対策の重要機関である「専門家会議」の議事録が作成されていないというのである。これはどう考えてもおかしい。発言者のわかる議事録ではなく、簡単な「議事要旨」しか残っていないという(『朝日新聞』5月30日付)。何か隠しておかなければならないことがあることを推測させる。
安倍流5つの統治手法のうち、とりわけ「情報隠し」は陰湿かつ徹底したもので、公文書すら改ざんする政権である。コロナ対応における安倍首相の対応のまずさを裏付けるような発言などが表に出ないよう、ことごとく隠蔽ということになるのだろうか。
安倍政権は、会議における議事録を残さず、公文書を改ざんして、記憶と記録を消去する統治を特徴とする。議事録を残さない会議とは、記録を残さない競技大会のようなものである。どんなスポーツでも、競技記録は必須である。最終結果だけでなく全ての予選記録、選考過程は重要で、世界記録も日本記録も自己ベストも、過去の競技の記録がきちんと残されていなければ成立しない。公文書管理法1条にあるように、公文書は、「健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源」である。安倍政権下の日本は、「健全な民主主義」とは到底言えないだろう。
福田康夫元首相と公文書管理法
冒頭右の写真は、この公文書管理法の制定に尽力した福田康夫元首相の記事である。首相が省庁幹部から受ける説明(レク資料)なども首相の政策判断に影響を与える公文書だが、首相退任時にそれを保存するルールはない。福田氏はそれらをすべて段ボールに入れて個人事務所に保存しているという(『毎日新聞』2019年1月20日付)。さすが公文書管理法制定を主導しただけあって、自らにもそれを適用している。立派である。安倍政権下では、公文書が改ざんされ、議事録も作成されず、都合の悪い記録も関係者の記憶も消去されている。福田氏は、「各省庁の中堅以上の幹部は皆、官邸を見て仕事をしている。恥ずかしく、国家の破滅が近づいている」と危機感をあらわにしている(『東京新聞』2017年8月3日付)。
「コロナ危機」のなか、自宅にこもって新聞をいつもより時間をかけて読んだり、テレビのニュースが家族の話題になったり、いつもよりネットで政治的問題を熱心にみたりと、明らかに国民はこの間、この国の政治について関心をもち始めたのではないか。それが、検察庁法改正に対する批判的なツイッターにも反映しているように思われる。私はオンライン授業のなかで、学生たちに紙の新聞を読むようにすすめている。1年生からは、2週間あまり新聞の切り抜きをやってみて、いろいろなことが見えてきたという感想が届いている。この国のトップは紙の新聞を読むなとすすめている。特に麻生太郎財務大臣は、「若者はネットだけだから期待がもてる」と本音をもらしている。紙の新聞を読めば、記録が確かで、記憶もネットのチラ見よりも明確に残る。安倍政権の「記録も記憶もない」といって乗り切る政治に対しては、国民が紙の新聞を批判的に読むようになれば効果的であると思う(直言「「新聞を読むな」という政権――「新聞を読んで」の今は昔」参照)。
俺らこんな国いやだ・・・
最後に、吉幾三風にいまの世相を歌っておこう。コロナ禍で目覚めた人々が、「こんな国」を変えるために声をあげることが重要である。
「記録もねえ、記憶もねえ、議事録まったくとってねえ、金[給付金]もこねえ、マスクもこねえ、コロナ対応うそばかり、誠意もねえ、真摯でねえ、朝起きて夜寝るまで、外出自粛でテレワーク、子どもが周りでぐーるぐる、補償もねえ、謝罪もねえ、検事長週3賭けマージャン、カラオケねえ、ジムもねえ、届いたマスクは欠陥品、俺らこんな国いやだ、俺らこんな国いやだ・・・」