コロナの「永続波」にいかに備えるか―「新しい日常」?
2020年7月6日

「新しい日常」と安倍流「会食の日常」

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「新しい日常」(「新しい生活様式」)なる言葉がいつの間にか定着してきた。ドイツでも5月6日にコロナ対応の制限措置の緩和が発表されて以来、16の州ごとに制限の緩和が行われ、例えば、ニーダーザクセン州では「ニーダーザクセン新しい日常計画」(„Plan für einen neuen Alltag in Niedersachsen“が実施されている(Die Welt vom 4.5.2020)。商業、サービス業、観光業、教育、スポーツ、イベント等を再開するにあたって、衛生規制、接触制限、州ごとの固有の制限がさまざまに実施され、これらをひっくるめて「新しい通常」(„neue Normalität“)という表現も出てきた。直言「この国の「目詰まり」はどこにあるか―日独の指導者と専門家」の後半で紹介した通りである。そこでも書いたが、ドイツは、郡ないし市ごとに、新しい感染者数が「7日以内に、住民10万人当たり50人を超えた場合」には、当該地域に接触制限措置がとられるという「緊急ブレーキ」もセットされている。その後、ドイツ中部の食肉処理工場で1500人の大規模集団感染が発生。当該郡では、6月23日から外出制限が再導入され、公共の場での3人以上の集まりが禁止され、映画館や博物館も閉じられた。ちなみに、日本では感染者数が急激に増えるなか、九州が豪雨被害に見舞われている(2年前の西日本豪雨の時、「赤坂自民亭」をツイートしていたのが西村康稔[現コロナ担当大臣]という既視感)。このところ首相は、「日本のKGB」といわれる北村滋(国家安全保障局長)と頻繁に会って、何と赤坂の高級日本料理店で会食までしている。既視感ありすぎの日本の首相についてはこのくらいにして、ドイツの話にもどろう。

ドイツの憲法裁判所のソーシャル・ディスタンス

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さて、冒頭左の写真は、ドイツ連邦憲法裁判所(直言「連邦憲法裁判所に入る」参照)の最近の風景である。ここにも「ソーシャル・ディスタンス」が適用されて、8人の裁判官は一定間隔をあけて入廷。座席の間隔も従来よりも広くとられている。4年前にこの第1法廷に入ったことがあるが、現在は法壇前に横長の簡易法檀が置かれ、裁判官たちが間隔をあけて座っている。この写真は5月19日、連邦情報局(BND)法に違憲判断を下した時の法廷である。ドイツのミニCIAのような存在であるBNDが、2016年の同法改正により、ネット上のメールなどの大量監視が可能になった。これを連邦憲法裁判所は部分的に違憲と判断したものである。判決は、アゼルバイジャンのジャーナリストの訴えを認め、外国における外国人の電話やメール等の大規模監視が、基本法の電気通信の秘密(10条1項)とプレスの自由(5条1項)に違反するとした。ドイツの国家権力に対する基本権の保障が、ドイツ国家領域に限定されないことを明確にした判決として注目される。

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この第1法廷で裁判長を務めたのは、5月15日に長官に選ばれたシュテファン・ハルバルト(Stephan Harbarth) である。キリスト教民主同盟(CDU)の連邦議会議員で弁護士。1971年生まれの49歳。かつては彼のような弁護士の政治家も長官を務めたことがあるが(特にエルンスト・ベンダ(Ernst Benda)は緊急事態法のベンダ草案で私の記憶に残る)、憲法・公法学者が多数を占める連邦憲法裁判所では、1987年から2020年前半までの約33年間、連続して大学教授が長官を務めてきた(第8代のハンス=ユルゲン・パーピアのインタビューは直言「「コロナ危機」に「緊急議会」?―ドイツ連邦憲法裁判所前長官の主張にも触れて」参照)。「憲法学者が大嫌い」という安倍首相の日本では考えられないことである。今回、政治家出身の新長官が裁判長を務める第1法廷で違憲判断が出されたことは、政府に過度に忖度する日本の最高裁との比較でも興味深い。ちなみに、ハルバルト新長官は一昨年、ハイデルベルク大学から名誉教授の称号を授与され、一応、大学教授の長官ということでProf.Dr.のタイトルがついている(博士号は本物なので安心!)。

なお、6月9日、公法学者のアンドレアス・フォスクーレ(Andreas Voßkuhle)長官の最後の法廷(第2法廷の裁判長)では、極右政党の「ドイツのための選択肢」(AfD)が連邦内務大臣を訴えた事件で判決が言い渡された。内務大臣が内務省のホームページでAfDを激しく批判したことが、国家の中立性の要請と政党の機会均等(基本法21条1項)に違反するというものだ。憲法裁判所が極右政党に有利な判決を出したとみるのは早計である。どのような政党も、基本法上、機会均等が保障されるという通説・判例通りの判決だからである。このような判決を出して、フォスクーレ長官は法廷を一瞥して去って行った。

「万人の万人に対する距離」

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ところで、連邦憲法裁判所の裁判官もまた、前述のようにコロナ対応での「社会的距離」をとる工夫をしている。この「人と人との距離」をとるという行為について少しこだわってみよう。ドイツでは、16州のうちの大半でAbstand(人と人との距離)は1.5メートルと決められているが、なぜかザールラント州とメルレンブルク=フォアポンメルン州だけは2メートルと定めている(Welche Corona-Regeln in welchem Bundesland gelten in:SZ vom 22.4.2020)。米国など「6フィート」(約180センチ)の国(州)もある。そもそも、「接触制限」とは何だろうか。日本では、「1メートル以内かつ15分以上の接触」だと「濃厚接触者」となって感染の「嫌疑」がかけられるから、そうならないように各自が行為せよということになる。犯罪者やテロリストとの接触でもなければ、敵国のスパイとの接触でもない。相手はウイルスである。人を選ばない。無症状で動きまわり、無意識のうちに感染を広めてしまう。それをいかに防ぐか。ウイルスがどこにでもいるのが「自然状態」とするならば、「万人の万人に対する距離」をとることが求められるということだろうか。

「社会的距離」と「社会的格差」

ここで「社会的距離」は「社会的格差」と密接にかかわっていることに注意しなければならない。米国でもブラジルでもどこでも貧困層で感染が爆発的に広まっているのは、「社会的距離」がとれない居住環境にあり、「ステイ・ホーム」と呼びかけられても、こもることのできる部屋もないという人々がいるからである。冒頭右の写真をご覧いただきたい。このプラカードは、ホームレスや住宅を求める若者を支援する団体が掲げたものである。「人間の尊厳に値する生存の権利」「制裁は無住居状態に通ずる」。これから第2波、第3波がくると危惧されているが、ボン大学病院ウイルス学研究所長のヘンドリック・シュトレーク(Hendrik Streeck )によれば、「コロナ感染の第2波あるいは第3波はない。私たちは永続波(パーマネント・ウェーブ)(Dauerwelle)のなかにいる」ということのようだ(Die Welt vom 28.6.2020)。再び、人と人との接触を制限するために、人々は家にこもるのか。ホームレスをどうするか。東京都知事は、「緊急事態宣言」によりネットカフェを追い出された「ネットカフェ難民」を、居住環境が劣悪な無料定額宿泊所に押し込んだことを記憶しておこう。

「移動の自由」とその制限

そもそも人間の自由のなかで、最も原始的な自由は、「移動の自由」ではないだろうか。ドイツ基本法11条1項は移転の自由(Freizügigkeit)を保障するが、2項では、たくさんの制限事由がおおらかに列挙されている。そのなかに「伝染病の危険」が明文で規定されている。日本国憲法22条1項は「居住、移転及び職業選択の自由」を保障しているが、そこに「公共の福祉に反しない限り」という文言がついている。日本国憲法の人権条項で、「公共の福祉」による制限を個別の人権について条文上明確に規定しているのは、この22条と29条の財産権だけであるが、保障することを定めた自由の前にダイレクトに「反しない限り」という制限的文言がかぶさっているのは22条1項である。憲法の授業では、ともに経済的自由の問題として、表現の自由や学問の自由などの精神的自由に対する規制とは違って、比較的容易に制限を肯定する傾きにある。

だが、そうだからといって決して軽い権利ではない。学説上、単なる経済的自由ではなく、人身の自由、表現の自由、人格形成の基盤としての自由といった多面的な性質をもつ複合的な権利としての「移動の自由」として解釈される傾きにある(樋口陽一・佐藤幸治・中村睦男・浦部法穂『注解法律学全集2 憲法II』(青林書院、1997年)104-112頁(中村睦男執筆))。日本人は「居住、移転の自由」が当たり前すぎて、国の内外を自由に旅行できることのありがたさを感じないが、「壁」がまだ随所に残っていた1991年に半年ほど東ベルリンで生活してみて、人と人とを暴力的に隔ててきた「壁のある日常」がなくなり、「壁のない新しい日常」を実感した。「移動の自由」は人権のカタログのなかで低く見られがちだが、「壁」崩壊の最も大きな起動力は、「移動の自由」への要求だったのではないか(直言「「ベルリンの壁」崩壊30年」参照)。

いま、「コロナ危機」のなかで、「見えない壁」が生れている。「社会的距離」や「接触制限」のなかで、「移動の自由」が著しく制限されている。ドイツでもそのフラストレーションが高まっている。人と人との接触制限により、芸術表現の自由も著しく制限されている。集会の自由の制限により、市民運動など社会的な活動は、全世界的にSNS上に活動の場を移したかのごとくである。「新しい日常」「新しい生活様式」を政府が国民に求めてくる。日本のように国民の信頼度が圧倒的に低い政府や首相にもかかわらず、国民はおとなしく従っている。戦前における「生活新体制運動」は、「新しい生活」という切り口で、社会を戦時体制に組み換えるという意味で政治的役割を果たした(大塚英志「感染拡大せず「日本スゴイ」―80年前と重なる嫌な流れ」参照)。この指摘は、防空法や隣組のことを調べてきた私も共感できる(防空法研究参照)。「安全・安心」と都知事もさかんに口にするが、客観的な「危険」に対処する「安全」と、主観的な「不安」に応える「安心」を安易に「・」で結びつける発想は危うい(直言「「安心保障」の先に何が―「安全・安心社会」の盲点(3・完)」参照)。フランツ・ノイマンの「不安の制度化」という視点も重要である(F.ノイマン=内山秀夫他訳『民主主義と権威主義国家』河出書房新社、1971年423頁)参照)。

だが、しかし、それにもかかわらず、ここでは、やはり相手が国家やテロリストや犯罪集団などの人間ではなく、ウイルスであることを踏まえるならば、「人と人との接触制限」をすべきでないとか、「社会的距離」をとらなくていいということにはならない。感染が拡大してくれば、一定の業種や活動に対して再規制を加えることも必要になるだろう。ただし、きちんとした補償をした上で。「移動の自由」についても、ことは「公衆衛生上の重大事態」である。とりわけ感染症の場合は、「自由を制限しないときに生ずる害悪の発生の蓋然性が高く、制約の緊急性と必要性を認めるに足りるものである」(前掲・中村睦男106頁)。憲法25条2項は1項で生存権を保障するとともに、2項で「国は、・・・公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」と規定していることが想起されよう。

ドイツ大統領の演説――「永続波」に備えて

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ドイツでは、これからコロナ危機の「永続波」に備えて、どのように対応していくのか。その点で注目されるのが、ドイツの憲法記念日にあたる5月23日を前に、フランク=ヴァルター・シュタインマイヤー(Frank-Walter Steinmeier)連邦大統領が行った「基本法71周年」のテレビ演説である。この写真は『南ドイツ新聞』に掲載されたその演説全文である(Süddeutsche Zeitung vom 23/24.5.2020,S.5)。開戦80年の際にポーランドの小さな町で早朝4時40分に行った演説と同様、大変格調高い言葉で、「コロナ」への構えを国民に向かって呼びかけている。

新聞がつけたタイトルは「健全な民主主義」。責任を自覚した市民とともに生きる民主主義」。大統領は、「このコロナ危機が、民主主義に対する試練であり、世界のあらゆるところで社会と政治制度とをテストする試練であるとすれば、独裁によって統治される多くの国々は、〔独裁によって達成されると〕自称するその効率性と迅速性に対する証明責任を今日まで果たせずにいます。」とする一方で、「それに対して私たちの民主的な基本秩序はパンデミックの最中にあっても、この試練に打ち勝ったのです。私たちの国、すなわち私たち全員は、感染曲線を平坦とすることに成功し、その結果、すでに身を切るような〔権利や自由の〕制約を、元通りに緩和することができたのです。」「…なぜかといえば、責任を自覚した市民とともにある、生きた民主主義国家だからです。」と語りかけ、コロナ危機のなかで立法、行政、司法がきちんと機能した事実を指摘しつつ、これを「生きた民主主義」として大統領はこう続ける。「私たちの自由権に現在制限があることを、誰もが痛感するにはしています。しかし、この制限は、制限それ自体が目的なのではありません。この制限が、健康と生命の保護に奉仕するのです。健康と生命の保護に奉仕すればこそ、この制限は可決されたのであり、私たちはこの制限を堪えることができるのです。基本法は、私たちの自由と生命の双方を手厚く保護しています。この両者を保護するという目的がぶつかり合うということは十分に起こり得ることです。しかし、ある者の基本権の限界が、他の者の基本権が生じるところに見出されるということ、このようなことは憲法上通常のことなのであり、このことのみをもって、自由な立憲国家の危機ということはできないのです。」

さらに大統領は、「私は確信しています。基本法は、被害を受けることなくこのパンデミックに打ち勝つでしょう。」と述べ、「自由と国家の保護委託とは、分かちがたく表裏一体を成しています。両者を調整することが政治の任務なのです。私が申し上げておきたいのは、両者を調整するということは、目下のところ、政治にとって極めて困難な任務だということです。というのもこの危機には、疫学的にも、法的にも、シナリオも無ければ取扱い説明書もありません。その上私たちはこのウイルスのことを熟知しているとはいえません。そして、いつこのパンデミックが克服されるのか、見積もることもできないのです。しかし、たとえ状況がはっきりとしていない場合であっても、政治家は、あらゆることが不明確であるとはいえ、決めなくてはならないのです。それも誠心誠意に決めなくてはなりません。」として、政治家への信頼感を吐露する。政治が科学的知見に基づいて決断し、柔軟性を保ちつつ新しい知識に対応し、勧告を変更する。大統領は政治への信頼と同時に、そのためにも、「活発で論争の多い議論」「議会での強い反対」「批判的な国民」が必要だという。そして大統領はいう。「信頼なくして民主的な政治的共同体は機能することができません。ドイツの人々は、基本法に信頼を寄せています。なぜ人々は基本法に信頼を寄せることができたのか、それは、基本権の保障が、私たちの国にあっては71年このかた、最優先事項であったからです」と。

この大統領の演説を読んでいて、安倍首相は正反対のところにいるなと思った。活発で論争の多い議論を嫌い、議会での反対意見を無視し、時には嘲笑し、批判的な国民は排除する。会食優先モードに変わった首相は、西日本豪雨の時と同様、九州豪雨でも同じことを繰り返すのだろうか。この8月24日、佐藤栄作の在任期間を超えて、歴代一位になるこの「大宰相」ならぬ「大災相」のもとで、日本におけるコロナの「永続波」に備えることはできない。

《文中敬称略》

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