学問研究の自由の真正の危機――沈黙するなかれ
2020年10月12日

任命拒否に高まる批判

6年前、「学問の自由が危ない―広島大学で起きたことへの憲法的視点」を出した。権力が、学問研究の内容にまで介入してくる動きはすでに始まっていた。ついに矛先は、日本学術会議それ自体に向けられてきた。10日前に明らかになった6教授任命拒否問題は、メディアでも連日大きく取り上げられ、学会や研究者の声明が続々と出されている。先週の「直言」以降の展開にも触れながら、この問題の本質がどこにあるかについて論じていこう。

私の職場では、この問題が新聞で取り上げられた10月2日の早稲田大学の学術院長会で、法学学術院長が問題の重大性を指摘し、大学としての見解表明の必要性を説いたのに対して、総長は、「学術会議は個々の研究者が参加しているもので、そのような活動に大学としての意見を表明しないのが早稲田大学なのではないか」と発言したという。耳を疑った。校歌にある「学の独立」からして、真っ先に見解を表明するのが早稲田ではないか。総長メッセージを直ちに出した法政大学総長との落差に驚く。当事者の一人、岡田正則教授が属する法学学術院では、10月7日、「わが国における学問研究の自立性を脅かすものであり、看過することはできません。」との立場から、学術会議の要望書の2点の実現を求める声明を出した

「攻めの論点ずらし」

政権発足から1カ月を待たずに、菅流の統治手法が見えてきた。その一つは、「攻めの論点ずらし」である。安倍流5つの統治手法を継承しつつ、「論点ずらし」はさらに磨きをかけている。法律によって独立性が保障されている機関の人事に露骨に介入して、6人の任命拒否をやっておきながら、理由は一切言わない。不利益処分における理由附記が法的に求められるこの国で、まるで中国や北朝鮮のようなことが起きている。直言「「全く問題ない」内閣官房長官」が首相となって、「説明」という言葉がこれほど虚しく響いたことはない。普通の権力者ならば、「説明責任を果たせ」と追及されれば、その場を切り抜けるための言葉や理由を探すだろう。だが、菅流は、理由を一切明らかにしない一方で、「総合的、俯瞰的活動を確保する観点から判断した」と、まったく別方向からのすれ違いの言葉を繰り出してくる。何度聞かれても、同じ言葉で答える。しかも、まともな記者会見ではなく、気心の知れた内閣記者会「インタビュー」(10月5日)をやって、「丁寧に説明した」ことにしてしまう。まさに「攻めの論点ずらし」である。この写真は、その「インタビュー」の際のものだが、「俯瞰的」という言葉の語感と、理由なしに首を切る際に使われたというリアルから、「攻めの論点ずらし」のつもりが、逆効果になりつつあるのは皮肉である。

任命拒否の「憲法論」?

政府は任命拒否について、憲法の3つの条文を持ち出してきた。まず、憲法15条1項である。公務員の選定・罷免権が国民固有の権利であることから、「首相が任命について国民、国会に責任を負えるものでなければならないから、首相に推薦通りに任命すべき義務があるとまでは言えない」という主張を導く。学術会議の推薦にない人を首相が自ら任命することも可能と言わんばかりである。「国民主権」「民主主義」の単純思考は、こういう場面で力を発揮する。そもそも憲法15条を持ち出し、公務員の選定罷免権を持ち出すのは間違いである。先週の「直言」でも紹介したように、1983年の政府答弁(政府の有権解釈)は、憲法23条の学問の自由の観点から、踏み込めない一線を自覚していたからこそ、首相の任命行為を形式的なものと解してきたのである。15条1項を大上段に振りかざして、首相の任命権を過度に強調するから無理が出るのである。そもそも人事権を悪用して公務員を「政権の使用人」「一部の奉仕者」にしてきたのは誰なのか。近畿財務局職員の赤木俊夫さんを死に追いやる原因の一端を担った人々が憲法15条を持ち出すことができるのか(直言「公務員は「一部の奉仕者」ではない」)。

任命拒否を正当化する憲法の条文として、「行政権は、内閣に属する。」という65条と、「内閣総理大臣は、…行政各部を指揮監督する」という72条も持ち出されている。学術会議会員は公務員であること、10億円もの国費が使われていることが強調され、首相は学術会議会員の「任命権者」として「一定の監督権」を行使できるというわけだ。あまりに荒っぽい議論である。安倍政権によって破壊された内閣法制局の第1部長の答弁も悲惨だった(10月8日参院内閣委員会閉会中審査)。行政機関であっても、当該機関の性質に応じて、独立性が付与されているものに対して、任命権者がことさらに15条や65条、72条を振りかざして、「自分には任命権があるんだぞ」とすごむのは、それだけですでに終わっているというべきである。

「形式的任命」の例――推薦名簿を「見ていない」?

任命権者は、最終的な任命権はもっていても、独立性を与えられた管理運営部門の判断を尊重して人事を行うものなのである。その分かりやすい例が、首相肝入りのカジノ関連の法律にも出てくる。いわゆる統合型リゾート(IR)整備推進法によれば、カジノ管理委員会は「独立して職権を行う」(216条)。同委員会が専門事項を調査させるために専門委員を置くことができるが(223条1項)、その専門委員は「カジノ管理委員会の申出に基づいて内閣総理大臣が任命する」となっている(同2項)。首相に任命権があっても、カジノの専門家を実質的に選定するのは管理委員会であって、その「申出に基づいて」首相はただ任命するだけである。

もう一つの例は個人情報保護法である。個人の権利利益の保護と個人情報の適正な取扱いの確保をはかるために、個人情報保護委員会が内閣府に設置されている。所轄は内閣総理大臣である(同法59、60条)。この委員会には独立性が保障され(62条)、専門委員については、「委員会の申出に基づいて、内閣総理大臣が任命する。」となっている(69条2項)。これもカジノ管理委員会の場合と同じである。

なお、国立大学法人法12条も、「学長の任命は、国立大学法人の申出に基づいて、文部科学大臣が行う。」となっていて、大学法人の管理運営部門で最終的決定がなされるのを待って文科大臣が任命するという形になっている。

日本学術会議法7条2項は「会員は、第17条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する。」と定めており、17条には、「優れた研究又は業績がある科学者のうちから会員の候補者を選考し…内閣総理大臣に推薦する」とある。学術会議内での選考が実質的なものであり、首相に任命しないという選択肢は限りなくゼロに近い。菅首相は9日の「インタビュー(笑)」で、9月28日に任命決済を行った際、名簿には99人の名前があったとしており、6人の名前を含む名簿は見ていないと述べた。これはおかしい。学術会議の推薦名簿には105人が列挙されており、これを見ないで任命したとするならば、その任命行為は「(学術会議の)推薦に基づいて」行われたことにはならず、違法のそしりを免れない。岡田教授はその点を指摘しつつ、首相に推薦名簿が到達する前に何者かが名簿上から6人を削除したとすれば、「首相の任命権や日本学術会議の推薦権に対する重大な侵害」となると述べている(『朝日新聞』10月11日付)。学問の自由を侵害するという違憲性と同時に、違法性も次第に明確になりつつある。

「攻めの論点ずらし」が始まった

論理がだめなら、感情論をいち早く広めた方が勝ちとばかり、SNSを利用した「フェイク」情報が飛び交っている。感情論の世界になれば、「ねたみ」「そねみ」「ひがみ」「やっかみ」を巧妙かつ執拗に利用して、学者・研究者と一般の人々を分断し、理系と文系を分断し、大学間を分断し、研究者を批判的か否かで分断し、批判する者を孤立させる。発信源は、アベ友の「ネトウヨ論壇」(ZA ITEN(財界展望社)9月号の言葉) である。ネット上にあふれる主な論点は4つ。(1)学術会議は中国の軍事研究に協力している(甘利明)、(2)学術会議会員は6年で学士院会員になり、年金250万をもらえる(平井文夫・フジテレビ上席解説委員)、(3)学術評価ツール「スコーパス」で調べると6教授は低評価(上念司・加計学園客員教授)、(4)2007年以降「答申」もなしで、学術会議は活動をしていない(下村博文)。4つとも少し調べればすぐバレる嘘を平然とつく。アベ友のレベルは低く、フェイクに近い。それでも、SNSで拡散・攪拌されると、一般の人々にはそれなりに影響を与えるからやっかいである。

菅首相が官房長官時代からの十八番は、官僚人事の統制である。「飴と鞭」は徹底していて、逆らう官僚には容赦しない。恫喝的手法も使う。学者・研究者に対しても「飴と鞭」は周到に繰り出される。10月5日、9日の「インタビュー(笑)」では、分割民営化や規制緩和真っ盛りの10数年前に登場した一群の言葉、「行政の縦割り」「既得権益」「あしき前例主義」(前例踏襲)などが使われているのも特徴である。竹中平蔵が背後霊のように菅にまとわりついているから、安倍流とは違った味付けになるのだろうか。今回の「攻めの論点ずらし」は、防衛大臣から行革担当大臣になって、ひたすら目立つことを求めて動く河野太郎が、印鑑の次に飛びついたのが、「学術会議を行革の対象に」である。この軽薄大臣は唐突に、「年度末に向けて、予算や定員を含めて、学術会議のあり方を見直す」と言い出した。その際、「聖域なく、例外なくみていく」と、これまた「聖域なき構造改革」の苔むした言葉を使っている。菅首相が任命拒否の理由を提示できない苦境を、「学術会議のあり方の見直し」という「攻めの論点ずらし」でかわす助っ人の役回りをかって出たわけだ。

予算や定員を出されると、とりわけ国立・公立大学の教員は緊張する。国立大学の運営費交付金の削減という兵糧攻めにしておきながら、足元を見るかのように、2015年から防衛省の研究助成制度である「安全保障技術研究推進制度」を始めて、研究者の「餌付け」を狙う。当初は3億円だったが、2020年度は95億円と、30倍以上に増やしている。「安全保障技術」とはよくいったものである。軍事研究にほかならない。

日本学術会議の原点は、学術研究が国家自体に従属し、科学的認識と知見が政治的にゆがめられた戦前の反省である(詳しくは、広渡清吾「科学と政治:日本学術会議の会員任命拒否問題をめぐって」参照)。とりわけ科学が軍事に協力したことへの強い反省に立って、1950年に、「今後、軍事研究には絶対に協力しない」という日本学術会議声明が出されている。この原点に立って、2017年に日本学術会議は、「軍事的安全保障研究に関する声明」を出して、「政府による研究への介入が著しく、問題が多い。」として一線を画した。菅政権の学術会議会員人事への介入は、これに対する意趣返しという側面は否定できない。そして、あわよくば、学術会議の解体にまで向かう。それが可視化され始めたといえよう。

「攻めの論点ずらし」は、この軍事研究に協力しないという学術会議の姿勢にターゲットを絞って、中国の軍事研究に協力しているという歪んだ切り返しを行い、学術会議に対して、「親中・反日」というレッテルを貼ろうとしている。これも事実に反することなのだが、ネット上ではいつまでも残る。

学術会議には10億円の国費が投じられているのに、政府に逆らうのはけしからんという論理はまったく貧困な思考である。金は出しても口を出さないというのが成熟した国家であろう。とりわけ学問研究の世界では、時の権力に批判的な研究も当然出てくる。もし、権力に忖度するような研究ばかりになれば、それこそ学問研究の荒廃極まれりとなろう。かつてナチス政権が、ドイツの国立科学アカデミー・レオポルディーナに、ユダヤ人会員を任命せず、ノーベル賞受賞のアインシュタインらを除名したことも想起される。

8年前、大阪維新の橋下徹が市長時代、大阪の芸術・文化に露骨な介入をしたことがある(直言「権力者が芸術・文化に介入するとき―大阪市長と大阪フィル」)。橋下は、文楽協会への補助金凍結を決めながら、近松の「曽根崎心中」を鑑賞し、終了後、記者団に、「ラストシーンがあっさりしていて物足りない。演出不足だ、昔の脚本を使うな」などと語ったという。2009年の大阪府知事時代に鑑賞した際には、「僕は二度と見にいかない」と酷評していた。補助金を出す側から、芸術の内容面に介入してあれこれ注文する。これは権力者としてやってはいけないことである。維新と関係の深い菅首相は、橋下に学んだわけでもなかろうが、学術会議の人事から始まり、その定員や予算にまで踏みこもうとしている。

コロナ対策でも場当たり的対応が批判される安倍政権のことは、直言「科学的根拠なき政治―議事録も記録も、そして記憶もない」で批判した。秋から冬にかけてのコロナの感染拡大(ドイツでは「第3波」への対応を始めている)に、学問研究の世界に露骨に介入する政権がうまく対応できるとは思えない。政権に忖度する「専門家」の会議では国民の命は守れない。学問研究の自由の侵害が、研究者だけでなく、広く国民一般の不幸につながるという一事例となるのか。

日本学術会議の6教授任命拒否事件は、この国の学問研究の自由の真正の危機である。これに沈黙はあり得ないだろう。

《文中敬称略》

《付記》冒頭の写真:
大隈講堂の改修風景 2006年10月17日水島撮影
国会議事堂の外壁洗浄工事 2010年12月26日ゼミ生撮影
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