雑談(126)パワポの「功罪」――アナログとデジタルの「間」
2021年2月15日

21年前の森喜朗の「言葉」

京五輪組織委員会のトップが辞めた。21年前、「首相がまだ「欠けたとき」(憲法70条)にならない段階で、首相の地位をかすめ取った男」と指摘して、私はこう書いている。「政治家はまさに「言葉」が命である。だが、この男にかかっては、すべての「言葉」が「音」となる。言葉が軽い、重みがないという程度ならまだいい。・・・いま首相をやっている男[森喜朗のこと(注)]が発するのは言語でさえなく、思考を経由しない、単なる「音」にすぎない。口から出て、空気中に煙のように消えていく。だから、それを活字化して、論理矛盾を突くことがそもそも無理なのだ。まさに「幽弁」である。」(直言「総選挙の結果と「政治の言葉」」)。この文章は当時、賛同も批判もなかった。だが、いまは日本のみならず、世界中の人々のなかで違和感なく受け入れられるのではないか。この人物は、20年前の2月10日、宇和島水産高校実習船「えひめ丸」がハワイ沖で米原潜に激突され沈没、高校生4人を含む9人が死亡する事件が起きた際、第1報を受けてもそのままゴルフを続けたため、世論の怒りをかった。内閣支持率は9%にまで落ちた。こんな人物を「余人をもって代えがたい」(世耕弘成自民党参院幹事長)といって、オリンピック憲章の根本原則に反する「女性蔑視」発言(2月3日)から10日近くも、五輪組織委員会のトップに据え続けたことだけで、すでに「東京2020」は理念的に終わっている。二度目の「幻の東京五輪」となるのは不可避であろう。

パワポを使わない「個人趣味」

さて、入試・学年末繁忙期のため、「雑談」のストック原稿をアップする。前回は「雑談(125)」で、かつ「音楽よもやま話」シリーズ第27回「コロナ禍のコンサート」だった。今回は、大学の講義や講演などで使われるパワーポイントの「功罪」について書くことにしよう。

16年前の直言「雑談(44)個人のコンピューター(PC)からの自由?」においてこう書いていた。 「私は、講義などでパワーポイントは使わない。完璧に美しい画面を出して、論点も見事に整理されてプレゼンすると、確かにわかりやすいのだが、人間の思考が画面に支配されて、そこで話術を発揮して、人の想像力をかきたてるには、どうもしっくりしないのである。話す側も聞く側も、画面を「見る」ことに依存してしまう。もちろん、理系のテーマなどではパワーポイントは有益で、かつ有効だろう。でも、私個人としては当分の間は使わないつもりである。これは個人主義というよりも、個人趣味に近い。」と。

8年前の直言「雑談(101)緩慢な思考力低下の危うさ―スマホ化の時代に」では、「当分の間は使わない」から「あえて使わない主義」とトーンを強めた。いわく、「・・・パワポでは単純明快さが重視されるから、「物事を一つの筋道で単純化し、不確定要素も確定して考えがちになる」「質問がしにくい」「結局、何がポイントだったのかよくわからないまま会議が終わる」「見た目にこだわるせいか、内容が薄くなってしまいがち」といった問題がある。大学でも同様である。パワポが有効で有用な授業も当然ある。だが、他方で、パワポに過度に依存することのマイナス効果も無視できない。眼前の美しい、わかりやすい画面に支配されて、しっかり聞いて、考えるということが疎かになっている面はないか。・・・いまの大学はサービス過剰で、「痒いところに手が届く」を超えて、「痒いところを作って掻いてあげる」サービスをしている。パワポへの過度依存が、教員の「教える力」の実質的な低下をもたらしかねないという危惧もある。私は講義や講演で、あえてパワポを使わない主義である(直言「『脱IT依存』は可能か」)。」と。

オンライン授業でパワポを始める

だが、コロナ危機によって事情は大きく変わった。昨年の春学期から、大学は全面オンライン授業に移行した。私が担当する1年必修「憲法」(受講者350人前後)と「法政策論」(同500人以上)の講義について、授業回数分の動画を収録して、本来の授業開始時間に公開するということを始めた。当初は指定の教室で「無学生講義」をやって、それを職員やTA(教務補助の大学院生)の援助で収録するという話だった。しかし、4月7日に「緊急事態宣言」が出て大学は閉鎖となり、自宅書斎での収録とあいなった。書画カメラで新聞各紙を映写しながら講義を進める。「今週の事件」という冒頭の10分間はこれでよいが、講義の本論については、しゃべり続けるだけの動画では単調になる。メリハリをつけるためにも、パワポの画面と書画カメラへの資料の直接提示をはさむことにした。だが、今までパワポの使用に消極的だったツケがまわってきて、同僚たちよりも遅れてこの世界に参入することになった。TAの大学院生に携帯電話でアドバイスを受けながら、何とか収録できるようになった(山本和弘君、多謝!)。1コマ(90分)の授業を収録するのに、取り直しをしたりして、最初の回は5時間以上もかかった。

パワポを使わないのが「個人趣味」だったが、今度はパワポに私の「個人趣味」が反映して、「わが歴史グッズ」をふんだんに使ったものになった。冒頭左の写真は、秋学期の「法政策論」講義の第9回冒頭のパワポ画面である。その右は「憲法」秋学期の最後の授業「憲法改正とその限界」のなかの画面である。中央高速(初狩)やオーストリアのアウトバーンのサービスエリアで撮影した「進入禁止」の標識を使ってテーマのイメージをつくった。また、「法政策論」講義で、「安全・安心」という言い方は要注意であり、慎重に区別して論ずる必要があるということを語るとき、それを象徴する写真を並べた。「憲法」の講義でドイツの連邦憲法裁判所とその権限について紹介するとき、最近の「ソーシャル・ディスタンス」をほどこした法廷シーンの写真を見せたりした。また、憲法36条と死刑の合憲性について講義するときには、条文を並べるだけでなく、テレビのニュース特集で紹介された東京拘置所の刑場の写真を横につけてインパクトを与えるようにした。総合講座「ドイツ語圏を知る」の第5回「ドイツ憲法史の「モノ」語り――マインからシュプレーまで」で使った「マインツ共和国からボン共和制へ」のパワポもここに出しておこう

パワポに消極的だった私だが、オンライン授業で使ってみると、なかなか有用かつ有効であると思うに至った。ただ、パワポをあくまでも教材提示装置のように補助的・補完的に位置づけて使う。学生に講義をする際の説明の技や話術に手抜きをしてはならないと思う。

アマゾン社内会議はパワポ禁止!

そこで興味深い記事を見つけた。巨大企業アマゾンが、会議でのパワポと箇条書きを禁止しているという話である(Forbes Japan 2020年11月)。

佐藤将之『amazonのすごい会議―ジェフ・ベゾスが生んだマネジメントの技法』(東洋経済新報社、2020年)を紹介したもので、この本はまだ入手していない。世界のトップ企業GAFAの一つにおける「会議の技法」とはどんなものか。記事によれば、ベゾスが2006年頃に設定したのが、「会議の資料は箇条書き禁止。ナレーティブを用いる」、つまり文章で書くというルールだった。以下、要約するとこうなる。

(1)会議で箇条書き資料はNG。「よくある会議資料として見受けられるのが、「パワーポイント」に「箇条書き」で要点を書き込んだものです。それをプロジェクターで映しながら説明を加えるというプレゼンは、説明する側も資料作成が簡便で、聞く側もよく整理された内容を聞けるということで、非常に多くの企業や団体で行われていると思います。しかしアマゾンでは、「パワーポイント」や「箇条書き」の会議資料を見ることはほとんどありません。なぜならアマゾンでは、会議の資料は「文章(ナレーティブ)形式で書く」というルールがあるからです。」

(2)パワポは伝達内容のズレが生じやすい。資料は通常、会議前もしくは会議時に配布され、「参加者は必ずしも前もって読み込んでくることは期待されていません。なぜならば「その場で読んですぐに理解できる文章を書く」ことが資料作成の必須条件となっているからです。それは箇条書きだと、行間を読むことで、人によって解釈の違いが生じやすいからです。また発表者も行間に様々な思いや考察を埋め込んで説明することが多いので、後日それらを思い出そうとしても非常に難しいからです。・・・当初は小さなブレでも、時間が経つにつれ大きな解釈のブレになりかねません。その結果、最終的なアウトプットが大きくずれてしまい、本来の目的が達成できないという結果になってしまうことも考えられます。」

(3)「やっつけ仕事」を可能にする。「パワーポイントで箇条書きの資料は、比較的容易にすぐ作れます。枚数を気にせず思いついたことをスライドに列挙していき、会議当日は適当に飛ばしながら口頭で説明することも可能です。いわば「やっつけ仕事」での資料作成が可能なのです。」

(4)資料で大切なのは見栄えよりも中身。「エッセンスだけを凝縮して、それを文章にまとめようとすると、必然的に何回も書き直しをしなくてはならなくなります。・・・じっくり検討して推敲するプロセスも期待して、この会議の資料作りのルール」が生まれた。また、「パワーポイントの資料では見栄えを良くしようと、アニメーションを使ってひと手間かけたりすることが多いと思います。ただの箇条書きでも1行1行表示させることでインパクトを出したり、たくさんのアニメーションを多用して観る者の興味を引き付けることができます。会議の資料作りにおける「パワーポイント禁止」のルールは、見てくれだけキレイな内容のない資料は要らないという、ベゾスの考えの現われでもあるでしょう。」

この記事からいえることは、「わかりやすさ」は企業におけるだけでなく、大学教育でも必ずしもプラスではないということである。箇条書きにイラストが加われば、頭にすんなり入ってくる。でも、すんなり理解してしまってはいけない問題やテーマもある。じっくり考え、思考を練り込む過程には時間がかかる。パワポを使った簡単・明快なプレゼンでは得られない価値である。私も、学生の反応を直接感じることができないオンライン授業(講義)について、果たして効果があるのか、学生はどう考えているのか。反省することしきりだが、コロナ禍で学問研究の自由を実現するために、ここは努力するのみである。

アナログもデジタルも

携帯不保持主義から離脱して、スマホも使うようになり、とうとうパワポも使うことになった。まだ距離をとっているのはブログ(直言「雑談(70)ブログをやらないわけ」)とSNS(直言「雑談(123)「140字の世界」との距離」)だけかもしれない。

そんなとき、『朝日新聞』1月30日週末別冊版(be)に 「人生の相棒 ワープロ」という、慶応大学教授の片山杜秀氏の記事を見つけた(聞き手・吉田美智子記者)。 35年間、東芝製のワープロ「Rupo(ルポ)」を愛用し、21世紀に入ってもパソコンには適応せず、ワープロで打ち出したものを編集者にファックスで送っていたという。私がワープロ専用機「オアシス」で原稿を書き、3.5インチフロッピイをFMVのコンバーターでワードに変換してメールで送るというところまで、本当によく似ている。違うのは東芝か富士通かだけで、ここまで同じことをされていたとは。氏の音楽評論や著作には注目してきただけに、それがワープロ専用機で執筆されていたことを知ってうれしかった。片山氏はルポ計7台を保有しているとのこと。私も「親指シフト」キーボードのノート型パソコンを4台確保しており、最近デスクトップ型を1台購入して、いざとなればネットにつながず、ワープロとしてのみ使うことができるようにしている。原稿はワードで書いているのでもうコンバーターは不要。USBでネットにつなげるパソコンで送信すればよい。いずれにしても、あと20年は「親指シフト」で執筆できるようにしている(直言「雑談(123)「…親指シフト・キーボードの終わり?」)。

自宅の建て替えをするため、書庫の完全整理をやった。書庫の奥から手書き原稿の山が出てきた。ブルーのインキが原稿用紙の上を滑るように流れていく感覚。ほとんど忘れかけている快感だが、親指シフト・キーボードはこの万年筆のような滑る感覚で原稿を書くことができる。ローマ字入力では得られない感覚である(直言「雑談(68)たまには手書きもいいものです」)。

今回の「雑談」は、パワポを活用しつつ、例えば、紙の新聞を並べて映写するというアナログ手法も含めて、ネット時代にアナログ的要素を共存させようということに尽きる。

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