究極の「不要不急」は憲法改正――日本国憲法施行74年
2021年5月3日

「元祖・憲法くん」

法記念日は、1986年から全国各地で講演してきた。昨年、新型コロナウイルス感染拡大で名古屋のアンコール講演を中止した。本日はその名古屋からの求めに応じて、29回目の憲法記念日の講演を行う。コロナで二回続けて中止するのかと悩んだ末の決断だった。24年前の5月3日に誕生した「憲法くん」が近年、映画や演劇にも真似されたので、「元祖・憲法くん」ここにありを示す場として、松元ヒロさんとのコラボ企画はどうしても実現したかったからである。

菅首相のコロナ対応の迷走続く

4月15日、自らワクチン接種をやってバイデン米大統領のもとに飛んだ菅首相。世界中のどの首脳よりも早く、対面で会談したことを誇っているようだが、コロナ危機のなかで、各国首脳が自国にとどまり、感染防止から病床確保、ワクチン接種などに全力をあげているのに一体何をやっているのか。冒頭左の写真は、4月16日の日米首脳会談後の記者会見における菅首相である。ロイター通信の記者が、「公衆衛生の観点から、日本は準備ができていないと指摘されるのにオリンピック開催を進めるのは無責任ではないか」と質問した際、一瞬迷って、自ら共同通信の記者を指名。ロイター記者の質問にはまったく答えなかった。その瞬間の表情を、TBSのNEWS23の画面から私がとらえたものである。官房長官時代の記者会見で、記者の質問を「問題ない」「ご指摘はあたらない」「全くない」などと「木で鼻をくくる」対応をしていたときの余裕はなかった。

いま、世界からみて最も奇妙な国は日本だろう。新型コロナウイルスの感染拡大がとまらず、ワクチン接種は世界最低ランクにもかかわらず、東京五輪の聖火リレーを続けている。医療崩壊が始まっているのに、五輪のための看護師500人の派遣を求める。政府としてやるべきことをやらず、やらなくていいことにこだわり、やってはいけないことをごり押しする。その最たるものが、憲法改正手続法(国民投票法)改正案の「火事場泥棒」的推進ではないだろうか。

10年前の憲法審査会―「惨事便乗型改憲」

東日本大震災後8カ月というタイミングで、2011年11月17日、衆議院憲法審査会の実質審議が始まった。憲法に緊急事態条項がないために大規模地震などに十分対応できないというようなことが主張された。私は直言「憲法審査会「そろり発進」―震災便乗型改憲」を出して、出版されたばかりのナオミ・クライン『ショック・ドクトリン―惨事便乗型資本主義の正体を暴く』上・下(岩波書店、2011年)を紹介した。震災のどさくさ紛れで改憲を進めることは、ナオミ・クラインに倣って言えば、「震災便乗型改憲」にあたると指摘した。

その後、東京2020や新天皇即位に便乗して「新しい時代の憲法」を叫ぶ安倍流改憲を、「祭典便乗型改憲」と特徴づけた(直言「「祭典便乗型改憲」―リセット症候群の危うさ」)。そして、便乗型改憲の第3波として、新型コロナウイルス感染症にかこつけて憲法に緊急事態条項を導入する改憲論の登場がある。冒頭右の写真にある伊吹文明元衆院議長の発言が最も早い。私はすぐにこれを直言「新型コロナウイルス感染症と緊急事態条項―またも「惨事便乗型改憲」」)で批判した。昨年4月7日に安倍首相(当時)が、「緊急時に国家や国民がどのような役割を果たし、国難を乗り越えるか。憲法にどう位置付けるかは極めて重く大切な課題だ」として緊急事態条項の改憲導入について国会の議論を促した。これに対し、私は昨年の憲法記念日に直言「日本国憲法施行73周年―「コロナ便乗型改憲」へ」をアップして批判した。そこで次のように指摘した。

「…「コロナ危機」を克服するために、現行法で可能なことがたくさんある。「公衆衛生上の重大事態」におけるやむを得ない権利制限の拡大も、国会での議論の上に行うことも可能である。しかし、コロナ対処に限定した権利制限を、憲法改正に結びつけるのは邪道である。現行憲法のもとでもできる権利制限の態様を検討する必要もあるだろう。だから、緊急事態条項導入の憲法改正の議論は、窮極の「不要不急」の議論といえる。…」

安倍首相がコロナ対応に行き詰まり、「政治的仮病」を使って「コロナ前逃亡」をはかったのは、その5カ月後だった。

憲法改正手続法改正案の不要不急

4月15日、衆議院憲法審査会において、「日本国憲法の改正手続に関する法律の一部を改正する法律案」(7項目改正案)が審議された。この法案は、2016年に公職選挙法が何度か改正されて、①名簿の閲覧、②在外名簿の登録、③共通投票所、④期日前投票、⑤洋上投票、⑥繰延投票、⑦投票所への子ども同伴という7項目が導入されたのに合わせて、改正手続法を改正しようというものである。

来週、5月11日にこの法案が採決される方向とされるが(『朝日新聞』4月29日付)、期日前投票やら洋上投票やら、不要ではないが不急なものが多く、しかも、憲法改正にかかわる手続法である。一般の選挙法と平仄をあわせる必要は必ずしもない。そもそも憲法改正国民投票は、憲法96条により、衆参両院の総議員の3分の2以上が賛成したものを国民投票にかけるものである。公選法と横並びの7項目をとりたてて急ぎ決めるよりも、テレビやラジオ、インターネットの有料広告の規制の問題や、資金の上限規制、最低投票率の問題など、より本質的な問題がある。一般の選挙と憲法改正国民投票を同じに扱うのは妥当ではない。後者は国民の憲法改正権の具体化であり、かつ憲法の最高法規性を担保する重要な意味をもつ。そのような重要な手続法について、投票所への同伴者の問題などの公選法レベルの「瑣末な」テーマで法律制定の実績をあげて、憲法改正を一歩進めたというアリバイ的臭いが漂う。

加えていえば、憲法改正手続法(国民投票法)は法形式上、一般の法律と異ならないし、出席議員の過半数で可決できる。しかし、憲法96条には、「憲法改正国民投票については、法律でこれを定める」という文言がないことに注意していただきたい。ちなみに、憲法95条の地方自治特別法の住民投票については、「法律の定めるところにより」という一文が付いているし、最高裁判所裁判官の国民審査については、79条4項で「審査に関する事項は、法律でこれを定める。」とある。改正手続法(国民投票法)は憲法による法律への明示の委任がないのである。そのこと自体(直接の法律委任の文言を欠くこと)が、総議員の3分の2以上の賛成ということと相まって、改正手続を厳格にしていると解される。だから、与党の過半数で強行可決するというのは、この法律に関しては許されない。憲法改正手続法(国民投票法)は、全会一致が望ましく、最低でも憲法改正と同じく、3分の2以上の賛成が必要だろう。憲法改正手続の慎重さと厳格さからすれば、そのように解することもできるのではないか。

またも緊急事態条項――参院憲法審査会

先週、4月28日の参議院憲法審査会では、3年2カ月ぶりとなる実質審議が行われた(『東京新聞』4月28日(デジタル)参照)。自民党と日本維新の会は、コロナ問題を前提に、大規模災害時などに国会議員の任期延長や内閣の権限強化を可能にする緊急事態条項を新設する憲法改正の議論を要求したという。相変わらずの便乗改憲である。特にひどいのは維新で、「喫緊の課題として緊急事態での人権制約のあり方を議論する必要がある」と主張したが、共産党の山添拓議員が、「コロナ危機に便乗して改憲論議をあおるのは、究極の火事場泥棒だ」と切り返した。立憲民主党の小西洋之議員は、「審査会で審議すべき重大な憲法違反が生じている。国政調査権の妨害たる決裁文書の改ざん、県民投票無視の(沖縄県名護市の)辺野古埋め立て続行という地方自治の本旨のじゅうりん、検察官の違法な定年延長など三権分立の毀損、学問の自由を侵害する日本学術会議の任命拒否などだ。違憲行為で国民の自由、権利が奪われ、議会政治が破壊されている現状で改憲議論が許されるのか」と主張した。まさに正論である。

首相が「緊急事態宣言」を3度もやって、適切な効果もでない。これ以上、首相・官邸に権限を集中したら、ろくなことはないということを、国民も実感し始めているのではないか。憲法を改正して首相の緊急事態権限を強化するというのは、三度の「緊急事態宣言」の失敗をみればまったく説得力がない。憲法蔑視の安倍・菅政権の8年5カ月は、立憲主義の根本を破壊する「壊憲」の政治だった。安倍・菅政権に対案は不要である。ルールのルールを破壊するこの政権には退場を求める以外に「対案」はない。にもかかわらず、浮ついた「護憲的改憲論」「改憲的護憲論」「立憲的改憲論」が出てきて、安倍・菅改憲に「対抗」しようとしている。私にいわせれば、「対案オブセッション(強迫)」である。これらの議論は、カレーライスとライスカレー、ドライカレーくらいの違いしかない。しかも、以下のような甘過ぎて不味いカレーの作り方をしている。

「立憲的改憲論」の勘違い

この機会に、山尾志桜里衆院議員と倉持麟太郎弁護士のコンビによる「立憲的改憲論」について触れておく。このドライカレーの議論を私はまったく評価しない。前者の「立憲的憲法改正のスタートラインとは」は、「憲法改正から逃げるべきではない」という威勢のいい言葉から始まり、「日本国憲法の「規律密度」が相対的に低いため、その行間を埋めてきた憲法解釈を尊重せずに、むしろ行間を逆手にとって解釈を恣意的に歪曲するタイプの政権に対して、その統制力が弱いこと」と、日本国憲法は「そのような政権の恣意的憲法解釈を正す現実的手段を予定していないこと」の2点を問題にして、前者については、「行間を埋めてきた適切な解釈を明文化すること」で恣意性の余地を極力減らすのだそうである。具体的には、安保法制以前の自衛権の合憲的解釈を、憲法9条の2、あるいは憲法9条3項を新設し、自衛権の範囲を限定する条項とするのだという。「個別的自衛権の行使に限る」と自衛権の範囲を明文化すれば歯止めになると信じているようで、徹底して甘いといわざるを得ない。自衛隊を戦力と位置づける点で、山尾氏は、自衛隊戦力論をとる百地章氏や西修氏と同じ発想といえる(実際、5月3日の日本会議シンポジウムに同席している)。

後者に対しては、政権の恣意的憲法解釈を事前にチェックする機関として、政権から独立したいわゆる「憲法裁判所」を設けるそうだが、合憲判断積極主義の憲法裁判所にならない保証はまったくなく、制度論としてもすこぶる甘い。

倉持麟太郎「憲法の包容力よ再び――誰もが当事者の立憲的改憲論」も、山尾氏と並んで情緒的表現に満ちており、「憲法裁判所の創設を――憲法を権力者に「強制執行」する」に至っては漫画的でさえある。「倉持的9条改正提案Ver2.0」も山尾氏とほとんど同じ内容で、「個別的自衛権」の限りで交戦権行使・戦力保持を認めるのだそうである。政府解釈は「自衛合憲論」をとっておらず、依然として「自衛合憲論」である。自覚があるかどうかわからないが、さすがの安倍前首相も、集団的自衛権行使合憲に踏み込んだ安保法制懇報告書についての記者会見(2014年5月15日)において、西修氏が説く「自衛戦力合憲論」を採用しないと述べていたことは記憶しておいてよいだろう。倉持氏の「個別的自衛権及び前項の交戦権の行使のための必要最小限度の戦力を保持することができる」という下りを読むと、政府解釈への歯止めどころか、二人が批判してやまない安倍前首相の議論よりも踏み込み過ぎているといわざるを得ない。

ことほどさように、主観的には安倍・菅政権への「対案」のつもりでも、むしろ、改憲派への甘い塩の役割を果たしている。実に残念である。山尾氏は、5月3日に西修氏も参加する日本会議シンポジウムに参加して「立憲的改憲」を説くようだが、おそらく共感の拍手をもらえるのではないか(上記写真参照)。

立憲主義の土俵を壊す安倍・菅政権が設定する「土俵」に乗るべきではない。安倍・菅政権下での改憲に懐疑的というよりも、正確には、これらの政権下で多用されてきた、言いっ放しで質問に答えず議論を尽くさずに多数決で強引に進める改憲作法に懐疑的なのである。こうした政権の体質が続くならば、「安倍首相(または菅首相)が辞めた後は議論の土俵に乗れ」という物言いも安易といえる。なお、朝日新聞Webronzaの拙稿「「安倍ファースト」改憲に対案は必要か――腰を据えて「改憲ノー」を言い続けることが真の「対案」だ」を参照されたい。

日本国憲法の原点を――「義男さんと憲法誕生」

不出来な「対案」に付き合うよりも、日本国憲法の原点を改めて確認させてくれる良質のドキュメンタリーを見る方がはるかに有益である。昨年の憲法記念日前に放映されたETV特集「義男さんと憲法誕生」のアンコール放送がある。5月8日(土)23時~ Eテレ、 5月13日(木)0時~(12日(水)深夜)Eテレの2回放送される。これはおすすめである。塩田純・元プロデューサーから届いたメールにある番組紹介の文章は下記である。

「日本国憲法の制定にかかわった人物の再評価が始まっている。ギダンさんの愛称で親しまれた福島県の政治家にして法学者・鈴木義男である。敗戦の翌年1946年、帝国憲法改正案の審議を行う衆議院の小委員会。ギダンさんらの提案から第9条に平和の文言が加わり、GHQ草案にはなかった25条の生存権が追加された。さらに、最近の研究で、国家賠償請求権(17条)や刑事補償請求権(40条)もギダンさんの提案から追加されたことが明らかになった。戦前、東北大の教授時代、軍事教練の導入に反対して教壇を追われたギダンさん。弁護士に転身し、河上肇や宮本百合子など治安維持法違反者の弁護に尽力した。この時の経験が、戦後、国家賠償請求権や刑事補償請求権の要求へとつながっていった。番組では次々に明らかになる鈴木義男の新資料をもとに、憲法改正案の小委員会や法廷での弁護を忠実に再現。憲法誕生の陰で長く忘れられていた日本人による追加修正に光を当てる。」 

福島県が生んだ「二人の鈴木」が日本国憲法の制定に大きな影響を与えた。鈴木安蔵と、この鈴木義男である。憲法記念日の今日、日本国憲法の制定にかかわった先人たちのことに思いをはせてはいかがだろうか。「押しつけ憲法論」のフェイク性もおのずと明らかになってくるだろう。


《付記》金井光生「鈴木義男の「立憲平和主義的生存権」思想の覚書」(福島大学「行政社会論集」33巻2-3号(2021年3月)71-102頁〔PDF〕)も参考になる。
トップページへ