「二正面作戦」で再延長?
「緊急事態宣言」(コロナ特措法32条)が6月20日まで再延長された。菅義偉首相は「これからの3週間は感染防止とワクチン接種という二正面の作戦の成果を出すための極めて大事な期間と考えております。…私たちの力を結集すれば、必ずウイルスに勝つことができます。私自身、その先頭に立ってやり遂げてまいります。」と述べたが(首相官邸ホームページ)、表情にも言葉にも訴えるものが何もなかった。緊張感のない記者の質問を含めて、コロナ禍の記者会見が空虚で空疎な「儀式」のようなものになって久しい。もっとも今回、東京新聞の記者が、「記者会見での総理の御回答が正面からお答えいただけなかったり、曖昧なものが多くて、見ている国民の方が不満を抱いていたりしています。是非明確にお答えいただけるようお願い申し上げます。」と迫ったのが唯一の見せ場だった。
ところで、菅首相は「二正面作戦」という言葉を使ったが、これは違う。コロナ対策と五輪開催を同時に追求することこそが、連続していない複数の戦線に力を分散させる二正面作戦の愚なのである。五輪メンツに固執している限り、コロナの感染拡大を止めることはできない。
関連する日付を挙げよう。6月11~13日(G7サミット(英国))、16日(国会の会期末)、25日(都議選告示)、7月4日(都議選投開票)、20日(IOC総会)、23日(東京五輪開会式)、9月5日(パラリンピック閉会式)、30日(自民党総裁任期)、10月21日(衆院議員任期)。菅政権のコロナ対策が迷走するのは、五輪メンツと政権メンツが絡み合っているからである。国民の命は二の次になっている。まずは「五輪中止」の決断しかない。だが、メディア、特に大手新聞社+北海道新聞社は五輪のオフィシャルパートナーとなっている関係上、五輪利権の当事者でもある。なかなか中止の主張が出せない、隔靴掻痒の状況が続いていた。ここへきて、ようやく変化が出てきた。
五輪中止を主張する社説
先陣をきったのは、長野の県紙、『信濃毎日新聞』5月23日付社説である。「東京五輪・パラ大会 政府は中止を決断せよ」と明確に中止を求めた。「崩壊する医療体制」の問題を立ち入って論じ、五輪予選への選手団派遣を見送った国の存在から「公平な大会にならない」こと、「収入の7割を占める巨額の放送権料」が背後にあること、「責任や求心力の低下を避けるため」「政治の都合を最優先し、開催に突き進む」菅政権の事情にも触れながら、「コンパクト五輪、復興五輪、完全な形での開催、人類が新型コロナに打ち勝った証し…。安倍晋三前首相と菅首相らが強調してきたフレーズは、いずれもかけ声倒れに終わっている。」と批判する。
「「国民みんなの五輪」をうたいながら、当初の倍以上に膨らんだ1兆6440億円の開催費用の詳細を伏せている。大会に伴うインフラ整備が、人口減少社会を迎える国の首都構想に、どう生きるのかもはっきりしない。」「組織委の森喜朗前会長の女性蔑視発言に、国内外の猛烈な批判が集中した。東京大会の、あるいは五輪自体がはらむ数々のゆがみへの不信が凝縮した」「菅首相は大会を「世界の団結の象徴」とする、別の“理念”を持ち出した。何のための、誰のための大会かが見えない。反対の世論は収まらず、賛否は選手間でも割れている。開催に踏み切れば、分断を招きかねない。」と、たたみかけるように五輪開催のマイナス事情を挙げながら、「インド変異株がアジアで猛威をふるい始めている。コロナ対応を最優先し、出口戦略を描くこと。国民の命と暮らしを守る決断が、日本政府に求められる。」と結ぶ。もはや「東京2020」開催に何の正当性もないことを、さまざまな角度から明らかにしている。信毎の五輪担当論説委員の筆になる、決して早くはないが、遅すぎない渾身のメッセージである。
信濃毎日といえば88年前、1933年8月11日付の社説が想起される。タイトルは「関東防空演習を嗤ふ」。主筆・桐生悠々の手になるそれは、高校日本史でも扱われる名社説として知られる。これは、前々日に行われた第1回関東地方防空大演習について、「帝都の上空に於て、敵機を迎え撃つが如き、作戦計画は、最初からこれを予定するならば滑稽であり、やむを得ずして、これを行うならば、勝敗の運命を決すべき最終の戦争を想定するものであらねばならない。壮観は壮観なりと雖も、要するにそれは一のパッペット・ショー〔操り人形劇〕に過ぎない。」と鋭くその本質をえぐっていた(直言「「関東防空大演習を嗤ふ」と「国民の立憲的訓練」」参照)。なお、この写真は、悠々が社説を執筆した机である(長野市の信濃毎日新聞本社展示室で撮影)。
朝日新聞社説が続く
信濃毎日より2日遅れて、『西日本新聞』5月25日付が、「東京五輪・パラ 理解得られぬなら中止を」という社説を出した。「理解が得られないならば」などの留保がいろいろついているが、ブロック紙が五輪中止の社説を出した意味は大きい。
そして全国紙では、信毎から3日遅れて、『朝日新聞』5月26日付社説が「夏の東京五輪 中止の決断を首相に求める」と題して、態度を鮮明にした。「東京で五輪・パラリンピックを開くことが理にかなうとはとても思えない。人々の当然の疑問や懸念に向き合おうとせず、突き進む政府、都、五輪関係者らに対する不信と反発は広がるばかりだ。冷静に、客観的に周囲の状況を見極め、今夏の開催の中止を決断するよう菅首相に求める。」と。中止の理由を三つ挙げる。一つは「生命・健康が最優先」、二つは「賭けは許されない」、三つは「憲章の理念」である。
まず、国際オリンピック委員会(IOC)幹部の発言を引いて、その独善的体質を批判。「健康への脅威」が決定的で、変異株の出現やワクチン接種の停滞から、9万を超す人々の入国で、「世界からウイルスが入りこみ、また各地に散っていく可能性は拭えない。」という。「順守すべき行動ルールも詳細まで決まっておらず、このままではぶっつけ本番で大会を迎えることになる。当初から不安視されてきた酷暑対策との両立も容易な話ではない。」として、「誰もが安全・安心を確信できる状況にはほど遠い。残念ながらそれが現実ではないか。・・・十全ではないとわかっているのに踏み切って問題が起きたら、誰が責任をとるのか、とれるのか。「賭け」は許されないと知るべきだ。」と書いている。
コロナの影響で、予選に出られない選手、ワクチン普及が進む国とそうでない国との厳然たる格差の存在など、憲章が空文化していることを指摘して、「人々が活動を制限され困難を強いられるなか、それでも五輪を開く意義はどこにあるのか。」と問う。「誘致時に唱えた復興五輪・コンパクト五輪のめっきがはがれ、「コロナに打ち勝った証し」も消えた今、五輪は政権を維持し、選挙に臨むための道具になりつつある。」と厳しく指摘する。「そもそも五輪とは何か。社会に分断を残し、万人に祝福されない祭典を強行したとき、何を得て、何を失うのか。首相はよくよく考えねばならない。」と結ぶ。
ちなみに、これは関東防空演習時の東京朝日新聞の一面である。批判的視点はゼロで、ほとんど政府と軍の広報のような紙面構成と内容である。桐生悠々の社説のために、在郷軍人会などによる信毎の不買運動が広まり、それに屈した経営者が桐生悠々を辞任に追い込んだ。会社として五輪のスポンサーやパートナーになっていても、報道機関としては、事実に基づき、客観的な報道につとめるのが原則であり、社説もまたその延長線上にある。経営サイドに忖度することなく、新聞各社が当たり前のことを当たり前に、自らの態度を示すべきときがきているように思う。「安全・安心の五輪開催」はあり得ない。冒頭右の写真は、東京五輪の開催中止を求めるオンライン署名の画面である。いま、開催国日本の市民が声をあげるときである。
オリンピックの理念は失われた
にもかかわらず、国際オリンピック委員会(IOC)のメンバーは強気である。「アルマゲドン(最終戦争)がない限り、実施できる」と語ったIOCパウンド委員に至っては、世界の終末や最終戦争を持ち出してまで、「絶対にやる」という。狂信的な響きすら感じる。その他の幹部から出てくる言葉も、ここで紹介するのもはばかられるほどの、常軌を逸したものばかりである。
一体全体、国際オリンピック委員会(IOC)はそんなに偉いのか。国連の機関でもなければ、公的な国際機関でもない。オリンピックを主催し、オリンピックに参加する各種スポーツ団体をまとめる、非政府組織である。放映権料やスポンサー料が主な収入源である。幹部は五輪利権に色濃く寄生している。かつて「最高でも金(きん)、最低でも金」という選手の言葉があった。だが、IOCの行動準則は、「最低でも金(カネ)」のようで、「一にカネ、二にカネ、三、四がなくて、五にカネ」のように見える。もはや五輪の理念は失われ、「東京2020」開催をごり押しするIOCは、五輪に寄生する利権屋集団としてのマイナスイメージをかなり普及してしまった。今後、IOCの抜本的改革なくして、オリンピックはないというのが実感である。
コロナ禍の「東京2020」は、冒頭左の写真にある第12回オリンピック東京大会が戦争で中止になったのに続く、パンデミックと、IOC自身の暴走によって中止になった大会として歴史に刻まれるだろう。世界の見識あるアスリートたちに問う。「どうか日本に来ないでください!」と。