「どうにもとまらない」
大学に入学した1972年の夏、テレビをつけると流れてきた歌がある。山本リンダの「どうにもとまらない」(阿久悠作詩、都倉俊一作曲)。その年の第14回日本レコード大賞をとった。そういえば、2003年3月20日、世界中で反対運動が起こっていたにもかかわらず、ブッシュ大統領とチェイニー副大統領、そして、先日亡くなったラムズフェルド国防長官のコンビはイラク戦争を始めてしまった。その時、この曲を思い出して、直言「自由と民主主義のための軍事介入?」を書いた。そこでは、「軍は勢いなり、止められない対イラク作戦」という元・陸自北部方面総監の言葉を引用した。そういえば、「軍の勢い」があって、「どうにもとまらない」という形で真珠湾攻撃が始まってから、12月8日で80年になる。
そういえば、今週、7月23日、コロナ変異株の感染拡大がとまらないにもかかわらず、また、国民の多数が反対しているにもかかわらず、「東京2020」の開会式が「無観客」(ただし、「関係者」は参加)で行われる。もう「どうにもとまらない」。
「消極的平和の祭典」――オリンピックと戦争の深い関係
「戦争とは、他の手段による政治の継続である」というクラウゼヴィッツ『戦争論』の定義を応用すれば、「オリンピックとは、他の手段による戦争の継続」という側面をもっている。「略奪的気質からなる無反省な競争性向が人の支配的な衝動であることを媒介として、戦争と五輪が結びつく」ことは歴史の教えるところである。「停戦」(truce)の思想は近代オリンピズムの一側面であり、武器で戦う戦争を中断して、礼儀正しい競技でお互いを讃えあう。1992年のバルセロナ五輪を前に、国連とIOCが合意して、1993年10月にオリンピック停戦(The Olympic Truce)が国連で初めて決議された(藤田明史「オリンピックは平和的か―オリンピックの暴力性の問題をめぐって」参照)。オリンピックも戦争と同じで、メディア産業とスポンサー企業、それに「五輪貴族」という「軍の勢い」によって、その開催・実施は「どうにもとまらない」ということだろうか。
世論は開催反対
世論調査会社IPSOSは7月13日、米国やフランスなど28カ国を対象にした、東京五輪についての世論調査結果を公表した。開催すべきかどうかとの質問に、「反対」と答えた人は57%で、賛成は43%だった。特に反対が強いのはドイツ63%、英国66%、カナダ68%などで、日本は78%である。開催国の国民の圧倒的多数が開催に否定的というのは、五輪史上初めてのことだろう。
爵位のないバッハが求める「名誉」とは
IOCの歴代会長の多くは爵位(侯爵、伯爵、男爵)をもつ。米国のエイブリー・ブランデージ(第5代)とドイツのトーマス・バッハ(第9代)にはそれがない。だが、IOC会長の貴族のような処遇と特権のゆえに、バッハについては「ぼったくり男爵」という「愛称」がつけられている。開会式の1週間前に、「都道府県をまたいだ不要不急の移動」の自粛が要請されているなかで、わざわざ広島まで移動している。「平和の祭典」に貢献したとして「ノーベル平和賞」を狙う際、「ヒロシマ」訪問は不可欠と考えたのだろう。「バッハ氏が広島訪問にこだわるのは、実利的な狙いがあるからだ。」「狙いはノーベル賞でしょう。バッハ氏は日本国内の反応ではなく、国際政治的な目で物事を見ている」(『毎日新聞』7月17日付2面「平和アピール訪問「強行」」「政治利用 懸念の声」デジタル版)。
バッハ の博士論文(1983年)をめぐる事情
バッハ会長は私と同じ1953年生まれ。旧西ドイツのバイエルン州ヴュルツブルク出身で、少年時代からフェンシングをやり、各種の大会で賞をとってきた。1973年にヴュルツブルク大学に入学。法学部で法律・政治学を学び、1979年に第一次国家試験(法学部卒業試験)に合格して卒業した。1982年に第二次国家試験(司法試験)に合格して弁護士に。1983年、論文「連邦憲法裁判所の判例への予測の影響」(Der Einfluss von Prognosen auf die Rechtsprechung des Bundesverfassungsgerichts,1983) で法学博士号を取得している。1984年に個人で弁護士事務所を開設し、弁護士活動を始めている。大学入学から10年で司法試験合格と法学博士号取得というのは、日本ではあまり見られない。そもそも日本では、法学博士号(1991年から「博士」(法学))の取得者は少ない。ちなみに、近年「法務博士」(JD)などと経歴に書いている議員がいるが、これは厳密な意味での学位ではなく、タイトル(Titel)としてはまったく無意味であるので削除した方がいい(直言「学位が売られる?」参照)。近年の学位をめぐる規制緩和をめぐっては、大学人として忸怩たる思いがある(直言「「学位」をめぐる規制緩和の「効果」」)。
博論指導教授(Doktorvater)はゲオルク・ブルンナー教授(憲法、東欧法)で、ハンガリー生まれ、ソ連・東欧法が専門である。1983年7月7日にバッハに対する口頭試問が行なわれ、2週間後の7月22日に学位が授与されている。25年にわたり博士論文指導・審査をやってきた私の個人的経験からすると、論文提出から口頭試問、学位授与までの時間があまりにも短すぎるというのが率直な感想である。五輪金メダリストの博士学位に何らかの配慮が働いたとまでいうつもりはないが、一般に「有名人」の入学から学位認定に至るまでハードルが下がる傾向にあることについては否定しないでおこう。なお、ブルンナー教授は2002年10月に66歳で死去している。
憲法学の分野でバッハの博士論文が引用されているかを少し調べてみたところ、Julian Staben, Der Abschreckungseffekt auf die Grundrechtsausübung: Strukturen eines verfassungsrechtlichen Arguments, Mohr Siebeck 2016の第3章「議論の方法論的・経験的構成」のところで9箇所引用されている(116頁注507から120頁の注537まで)。特に120頁では、本文でバッハの博士論文について言及され、予測と立法者の裁量の関係が論じられている。
前掲『スポーツと政治』の論稿がバッハの博士論文に注目するのは、モスクワ五輪のトラウマから引き出される政治との関係である。「この論文は、この道へのパズルの一部である」と。この論稿によれば、バッハの博士論文は、「予測」が物事の進路をどのように決定できるかという問題に取り組んでいる。連邦憲法裁判所の判例なのか、それとも政治の決定なのか。この初期の論文のなかに、バッハのその後の30年のスポーツ政治家、ビジネスロビイストなどの仕事のパターンとストーリーを見て取ることができるという。バッハは、「決定のための予測制御の合理性」について説明している。この博士論文は、専門用語を駆使して、一連の引用と一般的なフレーズで書かれているが、著者の経歴を知っているものには、非常に個人的な感触を与えるという。バッハは論文のなかで、フランスの政治哲学者ベルトラン・ド・ジュヴネル(『純粋政治理論』)を広く引用している。「政治的決定は、世界の将来の状態に影響を与える試みである。そのような試みは、決定がどのような結果をもたらすことになるのかを事前に計算することを伴う。したがって、いずれ生じるであろう事実や偶然を考慮に入れる」と。そしてバッハは付け加える。「政治的論争は通常、将来の正しい評価をめぐって行われる。この論争を乗り越え、現代の政治の要求を満たすためには、広範な政治的先見性が必要である。政治家は、不測の事態という考えを持つと同時に、予期せぬ事態に備える必要がある。〔不測の事態の〕必然性は、常に新しい計画や政治プログラムを作成し、それらを継続的に更新することによって克服されるべきである。ただし、将来の計画には、将来の発展に関する知識も必要である」。 合理性、常に新しい計画と政治プログラム、絶え間ない更新。30年後、これらがIOC会長としてのバッハの宣言につながっていくというのである。
政治家たちの博士論文
私はこの博士論文を読んでいないので隔靴掻痒の感もするが、そこにおける「予測」概念を、この論稿のように、バッハのその後の行動指針などに広げて解釈することについては何ともいえない。私にはむしろ、もっと初歩的なこと、すなわち、IOC関係の委員などの活動をやりながら、憲法裁判所の判例分析などをやって、決して大分ではない(211頁)とはいえ、博士論文を書き上げることがよくできたなぁという驚きである。好きな言葉ではないが、「文武両道」の天才なのかもしれない。そうである可能性は否定しないが、もし、バッハの博士論文が、現在のようにインターネットが発達した時代に書かれていたとしたら、ドイツの政治家たちと同様のリスクにさらされていたことは確実である。剽窃検知ソフトが発達して、10年前、国防大臣は博士論文の剽窃で辞任した(直言「コピペ時代の博士号」参照)。政治家をやりながら、憲法と条約をめぐる米国やEU諸国の憲法上の問題を475頁の大分の博士論文にまとめるのは超人的と思われていただけに、結論はシンプルだった。その後も政治家の辞任は続く(直言「政治家の剽窃―ドイツでも政治不信が深刻」参照)。博士号をもつ政治家が少ない日本の場合、こんな「高級な」心配は無用だろうが。