「~じゃないでしょうか」症候群――「トップの言葉」の貧困史
2021年8月2日

テレビは「五輪夢中」

リンピックが始まってしまい、予想通り、メディア、特にテレビ、とりわけNHKの豹変ぶりが著しい。世の中がコロナと政治の迷走で「五里霧中」のなか、まさに「五輪夢中」になっている。 日本のメダルラッシュは、コロナ禍と猛暑という悪条件のもと、開催国の利点(長距離移動なし、生活環境の変化なし等々)を活かし、他国の選手がベストコンディションとはいえない状況のなかでもたらされたものであり、アンフェアな果実であって、手放しで喜ぶことはできない。猛暑やひどい競技環境(特にトライアスロン)のもとで五輪開催を強行した国際オリンピック委員会(IOC)と日本政府の責任がさまざまに問われてくるだろう。

  他方で、新型コロナウイルスの感染爆発が起きている。東京は連日3000人台をキープしており、7月31日には4000人台に突入した。まさに「五輪応報」である。「緊急事態宣言」のど真ん中に、あまねく広く世界中から選手・関係者・取材陣が集中した結果、五輪後には「コロナ五輪株」の世界拡散が起こりかねない。それに接続してパラリンピックをやるというのは正気の沙汰ではない。オリ・パラを全面的に中止する方針を直ちに打ち出すべきである。そもそも東京にオリンピックを招致したこと自体が誤りだったのである。この東京2020をめぐる問題については先週の「直言」にゆずり、今回は政治家の「言葉の貧困」について書くことにしよう。

8.28」の1周年

まもなく「8.28」の1周年となる。もうお忘れだろうか。安倍晋三首相(当時)が、コロナ対応に行き詰まり、記者会見を長期にわたって行わず、二度目の政権投げ出しという挙に出た日である。直言「「政治的仮病」とフェイント政治―内閣法9で詳しく論じた通りである。首相の病気辞任ならば、医師団の記者会見があってしかるべきだが、それはなされなかった(できなかった)石橋湛山首相や池田勇人首相とは大違いである

  在任期間のみ「日本一の宰相」である安倍が、自らのレガシー(遺産)のために、「2年延期なし」をゴリ押しして、1年延期にした結果がいまの惨状である。「コロナ五輪」にした最大の責任は安倍にある。にもかかわらず、『読売新聞』730日付に登場して、「私も自宅で観戦する」と涼しい表情で語りながら、「開会式にも出席しませんでした」と、「体調不良」など、ズル休みの定番の理由すら挙げずに、「無断欠席」を居直っている。驚くほかはない。在任中、「ステイホーム」を訴えるため、歌手の星野源さんとの「勝手にコラボ」をツイートして(2020412)、国民をあきれさせたパフォーマンスを想起させる。今回も、怒りより脱力である。

なお、安倍晋三後援会が「桜を見る会」の前日に開いた夕食会の費用を政治資金収支報告書に記載していなかった事件で、安倍を不起訴とした東京地検特捜部の処分の一部について、東京第一検察審査会が715日に「不起訴不当」の議決をしていたことが30日に公表された(『朝日新聞』731日付)。この問題で安倍は国会で118回も虚偽答弁をしている。これを機会に国民は「もっと怒りを! 」、政治に「もっと光を! 」、である。11月28日までにその結論は出る。

安倍・菅政権が「言葉の貧困」をもたらした

来月、「9.16」は菅義偉内閣発足の1周年である。菅政権はメディアによって「作られた」といっていいだろう(直言「メディアがつくる「菅義偉内閣」―「政治的仮病」の効果)。安倍・菅政権に共通することとして、憲法蔑視国会無視国民軽視に加えて、「言葉の貧困」がある。これには、まず、言葉そのものの欠乏で、言葉がまともに使われないという意味がある。何よりもそれは、まともに答弁しないという安倍・菅の姿勢に表現される。これについては、「ご飯論法」(上西充子法政大教授) に見られる、言い逃れや言い抜け、言い繕いの手法がよく知られている。

  「言葉の貧困」には、言葉そのものの貧しさという意味もある。安倍・菅政権では、単なる「知識や教養の貧困から「歴史認識の貧困を経由して、「無知の無知」の域にまで達している。安倍晋三という政治家は、もともと「思い入れ」が強く、それが単なる「思い込み」から「思い違い」に発展し、国政に影響を及ぼす「壮大なる勘違い」にまで進化していった

 
昨年の唐突な政権移譲によって、「言葉の貧困」は、「アベノコトバ」から「菅語(ガースー語)へと変異した。菅は官房長官時代、「問題ない」「ご指摘はあたらない」「全く問題ない」という「木で鼻をくくるという表現がぴったりするような態度をとり続けたが、さすがに首相になるとそうはいかない。政府のトップである以上、その言葉は政府を代表するとともに、外国から見れば、日本国の見解として受け取られる。だから、「全く問題ない」と突き放しておしまいではすまなくなった。首相になった瞬間から、菅という人物の本質が常に問われることになり、おそらく本人がこれに一番戸惑ったことであろう。

 国会における答弁も惨憺たるものになっていった。安倍流のペラペラ感は、2017217日の衆院予算委員会における、あの「妻や私が関わっていたら・・・」という赤木俊夫さんの自殺につながる致命的な藪蛇(やぶへび)答弁となってあらわれたが、菅の場合は、逆に、同じ言葉を、辟易するほど頻繁に繰り返すと同時に、そもそも答弁をしないという態度をとっている。それは「お答えを差し控える」という言葉の多用に示される。これは国会の答弁としては完全にアウトである。私はこれを直言「日本議会史上の汚点ではないか―「黙れ」事件から82で批判した。

 安倍時代から「ぼろ隠し」と「やってる感」演出のために行われてきた、内閣記者会による「予定調和的」記者会見においても、最近はフリーランスや地方紙の記者からの予定外の質問が出るようになってきて、かなり苦しくなってきた。記者会見から逃げまわり、政権の「晩年」は1カ月以上会見を開かなかった安倍に比べれば、菅の場合、それよりは開いているが、抑揚のないしゃべりと表情の乏しさから、「やってる感」を演出できないでいる。内容も、65歳以上のワクチン接種率が高いことが感染拡大を防いでいるというネタくらいしか残っていない(最近では、「新たな治療薬を確保した」という妙な自信が加わったが、詳細は不明)65歳未満のワクチン不足、1回目の予約すらとれず、またいわゆる「2回目難民」も続く自治体もある。

菅首相、ぶらさがりは大失敗ではないでしょうか

「ぶらさがり」という、記者に取り囲まれて行われる「イレギュラーの記者会見」で悲劇は起こった。「令和の2.26事件」と称されている。菅の場合、広報官の助け船なしに記者会見をすることができず、「ぶらさがり」でも広報官が記者を抑えて何とか乗り切ってきた。だが、今年226日、山田真貴子広報官が接待疑惑で辞任するため姿を隠しているなか、「丸腰」で記者に取り囲まれた菅は、この写真のように、「今日こうして、「ぶら下がり」会見やってるんじゃないでしょうか。」「必要なことには答えてるんじゃないでしょうか。」とまったく余裕のない態度をみせてしまった。「じゃないでしょうか」という言葉を13回も使ったと、「文春オンライン」は伝えている。安倍とは違った菅流として、「~じゃないでしょうか」という「不思議な口癖」がある。「いら立ちを抑えながら反論する場合に用いられる言い回し」として、菅の「言葉の貧困」の特徴として挙げることができよう。

なお、730日の「緊急事態宣言」拡大に関する記者会見官邸1階の記者会見室で開かれた。内閣広報官が仕切る安心感からか、菅首相は1時間あまりの会見中、「~じゃないでしょうか」を一度も使わなかった。

  付け加えれば、菅の場合、「いずれにせよ」「いずれにしろ」も口癖である。「いわば」「まさに」「そもそも」「~の中において」「その上において」などを多用した安倍は、「いずれにせよ」はあまり使わなかったように思う。菅は東京の感染者が400人を超えた317日夕方の「ぶらさがり」で、「緊急事態宣言」の解除の是非を記者が質問すると、「いずれにしろ、専門家委員会の皆さんとそうしたことも含めて、意見を伺いたいと思っています。」と答えた。「いずれにしろ」というのは「どちらにしても」「どっちみち」の言い換えで、実際には何も答えていない。

ちなみに、「事実ではないでしょうか」「~も事実です」という「事実」という言葉もよく使う。立法事実もないのに「菅事実」がすべてにされている。

 728日に、東京で感染者が3000人を超えたのを受けて、記者団が政府の対応を官邸に質問したところ、「本日はお答えする内容がない」(首相秘書官)として、首相の「ぶらさがり」取材すら拒否した。憲法53条後段に基づく臨時国会召集を拒否するという、安倍政権から継承した違憲行為を続けながら、メディアに対しても取材拒否に近い対応をするに至ったのである。

 
「させていただく」症候群から「じゃないでしょうか」症候群へ

20年ほど前から、コンビニやファストフード店などを中心に、「~でよろしかったでしょうか?」という言い方を耳にするようになった。私はこれが嫌いで、直言「雑談(28)以上でよろしかったでしょうか?」を書いて皮肉った。2009年の政権交代後、鳩山由紀夫首相がやたらと、「させていただく」という表現を使ったのが気になって、直言「「させていただく」症候群」を出した。これは、少し丁寧に言い過ぎているきらいはあるが、質問に答えないというようなものではなかった。これと比べると、「~じゃないでしょうか」は、政治家としての自らの決意や責任を棚上げして、常に結論を曖昧にしておく、不誠実な言語表現じゃないでしょうか。

  映画パンケーキを毒味する』(内山雄人監督、2021)が封切られた。安倍・菅政権の本質がさまざまな角度から鋭く暴かれているようなので、時間をみつけてみにいくことにしよう。

(文中一部敬称略)

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