「直言」を24年書き続けて
今回で、連続更新1300回となった。1997年1月3日から、 原則として週1回の更新を自らに義務づけ、24年7カ月、一度も休まずに続けてきた。5年ほど前の1000回達成の時は「さまざまな反響」をアップした。この「直言」を訪れる方は毎日2万人前後で、加計学園問題の回は、テレビで紹介されたこともあって、1日8万人以上が訪れた。ブログやツイッターの世界と違い、「直言」は長文のため、SNS上で話題になることは多くはない。しかし、ひょんなことで過去のものが注目されて、SNS上で盛り上がることがある。例えば、3年前の「直言」がその例である。この時の末尾の言葉は、「安倍夫妻をめぐるさまざまな問題の「点と点」を結んでいくと、何本もの「線」が錯綜してのびていき、やがてそれらがつながって、「疑獄の膿」の立体映像が見えてくる」であった。7月の東京第一検察審査会の安倍「不起訴不当」議決も加わって、安倍・菅政権の「影と闇」の「立体映像」が可視化されてくるのも時間の問題だろう。その意味では、遅くとも11月28日までに行われる総選挙がきわめて重要となる。
ところで、私自身がこのサイトの管理人となり、独力で更新するようになって今回で11回目である。これからも、「140字の世界」とは距離をとり、週1回、煩雑なHTML文書のホームページを更新して、「140字」の20倍から時に50倍の長文を発信し続けていきたいと思う。今後とも「直言」をよろしくお願い致します。
「日航123便事件」から36年、「ベルリンの壁」建設60年
さて、今回は書きたいことがたくさんある。8月12日は「日航123便事件」36年だった。これが事故ではなく「事件」であることは、11年前の直言「日航123便墜落事件から25年」、「日航123便はなぜ墜落したのか」以来、繰り返し書いてきたところである(詳しくは、サイト内検索の窓に「123便」と入力) 。2年前、123便のボイスレコーダー(音声記録装置)とフライトレコーダー(飛行記録装置)などの調査資料の情報公開請求を考えるシンポジウムを主催したが、今年3月26日、遺族2人が東京地裁に訴訟を起した(『上毛新聞』3月27日)。大手メディアはほとんど触れないが、きわめて重要な訴訟になるだろう。また、8月13日は、「ベルリンの壁」建設60周年である。10年前に、直言「「壁」を作る側の論理――「ベルリンの壁」建設50周年」をアップしたが、そこで触れた7つの「新しい壁」の問題は、この間、「トランプ」とコロナ危機というさらに新しい「壁」を生み出す要因が加わって、より複雑になっていくように思う。これはまた、別の機会に書くことにしよう。
8月15日に戦争が終わったのか
昨日は「8.15」の76周年だった。「直言」で「8.15」を論ずることはあまり多くはなかった。戦後60年の直言「カゴシマ・ナガサキと戦後60年」は「8.15」当日にこれを直接テーマにした。戦後62年の時は、映画「TOKKO-特攻」について扱った。戦後70年の直言「「8.14閣議決定」による歴史の上書き――戦後70年安倍談話」 と、戦後74年の際の「「戦争の惨禍再び」――ホルムズ海峡「存立危機事態」?」では、「8.15」がきわめてリアルな形で問われた。そして76回目の「8.15」である。
映画やテレビドラマ、NHKの朝の連続テレビ小説、例えば「ごちそうさん」や「花子とアン」などで「8.15」が扱われると、昭和天皇の「朕 深ク世界ノ大勢ト帝国ノ現状トニ鑑ミ…」の「玉音放送」をラジオの前で主人公らが聞き入る映像が流れる。これはパターン化しているといってよいだろう。この「玉音放送」を使った「終戦」描写のせいで、多くの人は1945年8月15日に戦争が終わったと思い込んでいる。前日の14日に日本政府はポツダム宣言受諾を連合国に通告し、天皇の「終戦の詔書」が15日正午、NHKラジオを通じて国民に伝えられた。すべては8月15日の蝉の声とともに終わったかのようにドラマなどでは描かれるが、その最中にも、南方や「満州」で、また日本の北と南で戦闘は続いていたのである。
8月8日にソ連が日ソ中立条約を一方的に破棄して、9日午前零時に「満州」や南樺太・千島列島に侵攻した(この写真は対日参戦40周年パンフの地図である)。18日には、樺太の占守島をソ連軍が奇襲。武装解除中の日本軍守備隊と戦闘になった。その状態は停戦となる23日まで続いた。ポツダム宣言受諾後にも、たくさんの命が失われた。8月15日は「終戦」ではなかったのである。
沖縄では9月7日が「戦闘終結」
沖縄では、9月7日である。冒頭2枚目の写真は、沖縄公文書館のホームページにある降伏文書である。旧越来村(ごえくむら)(現在の米軍嘉手納基地内)で降伏調印式が行われた。沖縄守備軍の第32軍司令官・牛島満中将は6月23日に自決しているため、先島群島司令官(第28師団長)の納見敏郎中将ら3人の将官が出席し、降伏文書に署名した。米第10軍司令官のジョセフ・スティルウェル大将が降伏文書に署名し、沖縄戦は公式に終結した。文書には「全面降伏に基づいて琉球諸島を無条件に引き渡すものである」と記されている。調印後、沖縄奄美は日本本土から切り離され、米軍の直接統治下に置かれることになった(「シリーズ沖縄戦 第32軍の降伏」参照)。
「9月2日」は日本史を勉強する受験生なら必須だが、一般の人はほとんど知らないだろう。沖縄でも、「9月7日」に特別の意味を感じる人は多くないはずである。そのかわり、沖縄では「6月23日」が重要な日であり、県および県内市町村の機関は休みになる。この「慰霊の日」は、軍司令官と参謀長の自決で、日本軍の「組織的戦闘」が終結した日とされてきた(当初は6月22日だったが、1965年の琉球立法院議会で「住民の祝祭日に関する法律」が改正され、6月23日になった)。
司令官がいなくなって、敗残兵たちは山中に逃げ込み、時に住民を壕から追い出して抵抗を続けた。住民を巻き込んだ悲惨な状況が生まれたのは、むしろ6月23日以降の方が多かったとされている。守備軍司令官の自決の日は、指揮系統を失った軍隊が、勝手に戦闘を続ける裸の暴力装置となった日ということである。端的にいえば、「慰霊の日」とされている1945年6月23日から、沖縄戦におけるさらなる悲劇が始まったといえるだろう(裏表1枚と血がついた1枚の伝単は、米軍が沖縄戦で撒いたもの)。
沖縄戦の悲劇の本質―「軍民共生共死」の思想と実践
冒頭の写真は、今年6月23日付の『琉球新報』特設面(14-15面)である。沖縄戦76年の今年のテーマは「根こそぎ動員 住民の命奪う」。1956年から57年に琉球政府が各市町村で動員に関わった人への聞き取り調査でまとめた「軍属に関する書類綴」をもとに、その実態をリアルに再現したものである(執筆・構成:中村万里子記者)。
1945年2月、県知事をトップとする大政翼賛会沖縄県支部が主体となり、警察が推進役となって、各市町村や学校に「義勇隊」が結成された。15歳から60歳は疎開が制限され、義勇隊への参加は事実上の義務とされた。3月以降、大規模な「防衛召集」がかけられ、14歳~16歳の男子生徒、15歳以上の女子生徒も「学徒隊」として動員された。義勇隊は「根こそぎ動員」の象徴とされ、県の調査では、戦闘の巻き添えとなって2万8228人が死亡したとされるが、全容は不明である。冒頭の写真の灰色の人形は動員数を、オレンジ色は死亡者を示す。南部の村々では全滅に近いところもあったことが見て取れる。
この写真は、私の研究室にある防衛庁・自衛隊の沖縄戦関係資料である。部内資料『国土防衛における住民避難――太平洋戦争に見るその実態』(防衛庁防衛研究所・研究資料87RO-11H、1987年)では、「住民避難施策の原型」と位置づけられたサイパン戦に際しての軍内部の議論が詳しく紹介されている。これが沖縄戦や本土決戦における住民の扱いに応用されている(直言「「居留民の仕末」から「集団自決」へ」参照)。そこに貫かれている思想は、前述の「軍官民共生共死」である。
冒頭写真にある「根こそぎ動員」についての『琉球新報』6月23日付の識者談話として、私のコメントも掲載されている(中村万里子記者のまとめ)。写真ではよく見えないと思うので、コメント全文を下記に引用しておこう(見出しは、琉球新報整理部記者のもの)。
問われる軍の無責任さ
水島朝穂さん(早稲田大学法学学術院教授)
「住民を労働力として使い、最後は始末する」という日本軍の考え方は、44年のサイパン戦で実践され、『上陸防禦教令(案)』に定式化された。住民に労役させ、警戒・諜報活動に当たらせ、直接戦闘に参加させることも含め、利用し尽くした。その一方で住民が敵の「スパイ」となることを警戒し、「不逞(ふてい)分子」に対して断固たる処置をとって「禍根を未然に芟除(さんじょ)する」と定められていた。沖縄戦での住民の根こそぎ動員や「集団自決(強制集団死)」を強いたことは『上陸防禦教令』が根っこにある。
ハーグ陸戦条約には、捕虜や民間人を殺してはいけないということが書いてある。もし第32軍の牛島満司令官が4月の段階で米軍に一時停戦を呼びかけ、民間人の保護を要求していたら、沖縄戦でこれほどの住民被害は出なかっただろう。6月23日に、牛島司令官が住民を保護する責任を放棄して自決したことは、無責任の極みだった。
沖縄戦で日本軍は住民に竹槍や爆弾を持たせて米軍に突っ込ませた。「軍官民共生共死」が刷り込まれていたからだ。米軍とすれば、兵隊たちと一緒に武器を持って攻撃してきたら無差別に攻撃してしまう。住民に多数の死者を出した背景には、日本軍が『上陸防禦教令』というマニュアル通りの戦い方をしたことがある。23日は「組織的戦闘が終わった日」ではなく、軍司令官が責任を放棄して住民の大量死が始まった日と見るべきだろう。
(憲法・法政策論)