『相棒season20』第8話
先週の水曜(12月8日)、テレビ朝日『相棒season20』第8話「操り人形」をみた。これまで太田愛さんの脚本の回(特に『相棒』元日スペシャル(2012~14、2018~19)など)が印象に残っている(直言「介入と忖度――『相棒』『ウルトラマン』の脚本家・太田愛さんとの対談(『世界』6月号)」参照)。今回のものは、番組ホームページに、〈大学のキャンパスで白骨死体が見つかり、身元は1973年に行方不明になった学生運動の幹部と判明。過激派同士の抗争、内ゲバで殺害されたとみられていた…〉とあったので、「オヤッ!」と思った。脚本は瀧本智行さん。1966年生まれなので、70年代初頭は幼稚園児だった世代のはずだが、何か特別の思い入れがあるのだろうか。ともかく、冒頭から終わりまで、何ともいえない「空気」に支配されていた。これは、私より下の世代では理解できない独特の感覚なのである。それを象徴しているのが、番組内で使われた「内ゲバ」という、若い人には理解不能な和製ドイツ語である。暴力=ゲバルト(Gewalt)を仲間内に用いること、つまり学生運動のセクト間での暴力の応酬をいう。なお、この回で重要な役を演ずる女優がエンドロールで「白川和子」と出てきた時は「オヤッ!」ではなく、「オーッ!」となったのも、やはり70歳前後の世代でないとわからない時代の「空気」だろうか。
私が高校に入学したのは、東大紛争や日大紛争など、全国的に大学紛争の嵐が吹き荒れた1969年だった。この時期、全国各地で高校紛争も起きて、私自身それがなければ別の職業を選んでいたであろうというほどの影響を受けた。大学に入学したのは、1972年4月。沖縄はまだ日本ではなかった。早大キャンパスには、「沖縄協定粉砕」の巨大立て看板が立ち並び、その合間をぬって教室やサークル部室に移動した。いまの学生たちからみれば、信じられないような雑然・騒然としたキャンパスだった。私が愕然となったのは、毎日の生活のなかに「ゲバルト」があったことだろう。早稲田は革マル派の拠点大学で、各学部の自治会を握り、「全学中央自治会」を自称するとともに、文系サークルを統制する「文連」(文化団体連合会)を支配していた。大学が、学費と一緒に自治会費を「代行徴収」していたので、毎年、多額の自治会費が革マル派の活動資金となっていた。文学部キャンパスは革マル派が完全支配しており、正門などでは検問が行われていた。革マル派に目をつけられて学内に入れない学生もいた。その一人が、キャンパスを見下ろす穴八幡宮の境内で焼身自殺するという悲惨な出来事も起きていた(『産経新聞』1970年10月7日付)。
入学して3カ月たった1972年6月19日、革マル派が法学部の8号館を火炎ビンで襲撃した。それを事前に察知した法学部自治会のメンバーは、密かに撤収していた。証拠写真を撮るために残れと上級生に命じられた私は、向かいの7号館の屋上から、火炎ビンを投げ込んで襲撃する場面をカメラで撮影した。革マル派の一人が私に気づき、屋上を指さしながら数人が7号館に駆け込むのが見えた。急いで一つ下の階に降りて、掃除道具入れに隠れた。体がブルブル震えた。かなりの時間が経過してから、自治会関係者の集合場所まで必死の思いでたどり着くと、その上級生は、「あ、その写真、もう必要ないよ」と一言。私は脱力してその場にへたりこんだ。翌日、プロカメラマンの写真を使った記事が当該機関紙に掲載された。戦場で、上官の死守命令で捨てられる一兵卒の気持ちだった。
「11.8」とは何だったのか
1972年に早稲田にいた学生・院生、教職員、生協職員、周辺飲食店を含め大学に関わっていたすべての人々にとって、それぞれの人生のなかで忘れられない日付が「11月8日」ではないか。この日、第一文学部2年の川口大三郎君(20歳)が、革マル派に「中核派のスパイ」と間違えられて、文学部の教室に連れ込まれ、陰惨なリンチを受け、死亡した。それを伝える『朝日新聞』11月9日付の見出しは「リンチで殺害か」で、鉄パイプのようなものでメッタ打ちにされたとある。別の記事には、「体全体が細胞破壊を起してショック死している。死亡時間は8日夜9時から9日午前零時までの間」という東大法医学教室の司法解剖結果も記されている。学問の府である大学の、しかも授業を行う教室で、夜9時から深夜まで、当局から自治会費をもらっている自治会の役員がリンチを行って殺害する。この異様かつ、あり得ないことに対して、多くの学生たちが怒った。鉄パイプの恐怖を乗り越えて、学生たちは立ち上がった。
11月11日昼前、大隈銅像前で、法学部自治会の執行部メンバーが革マル派の学生に対して、「なぜ殺したのか」と詰問した。ちょうど授業が終わって数百名の学生がそれを取り囲んで、口々に革マル派の学生を追及しはじめた。これが始まりだった。その場面を、『毎日新聞』11月11日付夕刊が伝えている。見出しは「一般学生、詰め寄る」である。
3号館前に長机が出され、そこに革マル自治会の幹部を立たせて、自然発生的な追及集会が始まった(冒頭右の写真参照)。1500人ほどの学生にふくれあがり、さらに数千人になった。私も同級生とそこにいた。
13日月曜は午前中から3号館前で集会が開かれ、途中から革マル自治会の委員長が連れてこられて糾弾集会が行われた。集会は深夜まで続き、ついに翌朝まで、20時間以上に及んでいた。大学は何度もキャンパスからの退去を求めたが、私たちは動かなかった。寒いので、たき火をして暖をとったりした。焼き芋を作った学生もいた。大学に入学して7カ月、夜中のキャンパスに居すわることに、ちょっとした興奮を覚えた。
朝8時過ぎ、突然、警察の機動隊が50人ほど学内に入ってきて、革マル派をその場から「救出」したのには驚いた。これを目撃したクラスの友人は、「彼らの反権力って、嘘だな」と怒っていた。司法試験をめざし、いつも六法を抱えて歩いているが、いざという時は必ず駆けつけてくる頼もしい男だった。いわゆるセクトの学生もいたが、そういう正義感にあふれた学生がほとんどだった。
11月下旬にかけて、各学部で革マル自治会をリコールしようという運動に変わっていった。文学部が焦点になった。リコール署名が大量に集まり、11月28日、いよいよ文学部学生大会が開かれるという時になって、革マル派が全国動員をかけてそれを阻止しようとした。当日、8号館301教室という大教室で民法の授業が始まる際、自治会の役員が駆け込んできて学生たちに訴えた。「革マルから文学部学生大会を守ろう」と。教授はその場で休講を宣言し、学生のほとんど全員が外に出て、文学部学生大会が開かれる教室前に座り込んだ。そこへ革マルの動員部隊が押し寄せてきた。私は、友人と一緒にスクラムを組んで最前列に座った。目の前に「槍ぶすま」の革マル派の隊列が近づいてくる。恐かったが、六法を抱えたクラスの友人がギュと腕を引き締めてきた。その場面を、『毎日新聞』11月28日付夕刊が「4000人、厚い壁、革マル派をはね返して」の見出しで伝えた。文学部学生大会は成功して、革マル派執行部はリコールされた。それを報ずる上記の『毎日新聞』11月29日付は第1社会面トップだった。
この記事の写真にある後ろ姿は、委員長に選ばれた樋田毅さんである。冒頭右の写真でも、マイクを握って演説する彼の姿が2つある。NHKスペシャル「未解決事件・赤報隊事件」の再現ドラマで、主人公の朝日新聞記者は樋田さんだった(演ずるのは元SMAP草彅剛)。私は直言「安倍政権と日本社会の「赤報隊」化」で、樋田さんのことをこう書いた。「…樋田記者は、1972年11月、私たちが学部1年生のときに起きた「川口大三郎君事件」の際、川口君を殺害した「革マル派」を糾弾する多数の学生たちの先頭に立っていた。髭もじゃの特徴的な顔だちは、その当時早大キャンパスにいたものなら誰しも記憶にあるだろう。当時の大学は早大のみならず、「党派闘争」の醜悪な舞台になっていた。暴力のない、普通に勉強できるまともな大学にしたい。みんなの思いは同じだった。…」
『彼は早稲田で死んだ』のこと
先月8日、その樋田さんが、『彼は早稲田で死んだ――大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋社、2021年)を出版した。文春オンラインで、そのさわりを読むことができる。文学部がいかにひどい状況だったかを改めて知って戦慄を覚える。総長はじめ、大学当局がいかにひどい対応をしていたかも知った。本書のタイトルは、1973年4月2日に発行された、彼が委員長を務めた第一文学部自治会執行委員会編『彼は早稲田で死んだ』という新入生歓迎パンフに由来する。私は、1972年4月に入学してから、早大構内でまかれたビラを保存していた。2つの段ボールに入れて書庫の奥に眠っていたが、「終活」のために「断捨離」をやった際に、ファイルを2つだけ残してすべて処分した。そのなかに、「11.8」直後の革マル派のビラと一緒に、この新歓パンフも含まれていた。それが冒頭左の写真である。
樋田さんの本が届くと、文字通り一気に(一息に)読み切った。私が知らなかった文学部内部の悲惨な状況が伝わってきた。樋田さん自身が革マルに鉄パイプで乱打される時の痛みの描写は、体をよじりながら読んだ(141-143頁)。私が知らなかった当時の文学部の状況や、自治会の幹部たちのやりとりなどの記述には、そうだったのかという「発見」もあった。だが、何よりも本書の際立った特徴は、彼に暴力を加える側にいた当時の革マル派幹部に対して、記者の冷静な目で、客観的に取材していることだろう(205頁以下)。これには心底驚いた。冷静に、しかしさまざまな思いを込めて迫る樋田さんの人間力に脱帽だった。この後半の革マル派元幹部への取材が加わることによって、単なる個人の回想記とは区別される、半世紀近く前の歴史的出来事の記録としての重みと深みを本書は有しているように思う。本書の細かな紹介はここでは省略するが、是非、若い人たち、とりわけ早大生に読んでほしいと思う。
「川口大三郎が逝ったあの日、あなたはどこにいたか」
「川口大三郎が逝ったあの日、あなたはどこにいたか」。この言葉には、68歳から70歳代前半の早大出身者の多くにとって、心の奥を揺さぶられる何かがある。あの時早大生だった作家たちも、自らの作品で、この事件のことを書いている。例えば、直木賞作家の松井今朝子『師父の遺言』や村上春樹『海辺のカフカ』に、この事件のことが出てくる。故・栗本薫(中島梓)も作品のなかで、この事件を扱っている。松井や栗本は私と同じ1953年生まれで、事件当時1年生である。なお、瀬戸宏「川口大三郎君追悼資料室」には、事件そのものに関するデータをはじめ、当時早大にいた人々の発言や記録も収録されており、この事件に関する詳細なArchiv(記録庫)になっている。
「11.8」後に暴力支配が復活
大学1年生の1972年は落ち着いて勉強することもなく、慌ただしく、せわしく過ぎていった。樋田さんの本によれば、文学部では新しい執行部ができて、まともな自治会活動が始まろうとしていたようである(115-123頁)。ところが、私が正月明けの1月8日、登校して大隈銅像前を見ると、その異様な光景に目を疑った。反革マル派の黒ヘル集団(「11.8行動委員会」)が座り込んで一帯を占拠していたのである。革マル派は鉄パイプで襲いかかり、キャンパス内は乱闘状態。負傷者が続出した。『朝日新聞』1973年1月20日付は、「早大紛争、泥沼のきざし 学生が投石合戦 重傷含けが人多数」の見出し。中核派の武装部隊も早稲田に向かったという噂も流れ、一般の学生たちは運動から離れていった。それでも、樋田さんたち文学部の自治会は地道な活動をして、文学部教授会も新自治会を承認する方向に進んでいたようだった。ところが、黒ヘル集団が入学式に乱入するという事件が続き、それを口実にして、革マル派の暴力が復活し始める。1972年11月にかすかに見えた希望は、急速にしぼんでいった。
学生たちの関心が急速に醒めていくなかで、5月14日、樋田さんが革マル派による鉄パイプ攻撃を受け、重傷を負った。「致命的なダメージを一瞬にして与える刃物や銃などの武器とは違い、鉄パイプは殺傷効果では劣るが、それだけ何度も振り下ろされることで、激痛とともにその恐怖で心身が冒されていく。まさに、あらゆる意欲が削がれていくのだ。…敵の戦意を萎えさせ、服従させるために、これほど有効な武器はないだろう。」と書いている(本書142頁)。樋田さんもやがて運動から離れていく。暴力支配の本質は、暴力そのものよりも、暴力を用いた恐怖の構造を作り出すところにある。早稲田では、そういう状況が長く続いていた。
80年代、日本の学生運動は衰退し、見る影もなくなり、学生は運動の意味すら知らないという時代になっていく。孤立した学生セクトの間では、「内ゲバ」が日常化していった。特に革マル派と中核派の「内ゲバ」は苛烈で熾烈をきわめた。立花隆『中核VS革マル』上・下(講談社文庫、1983年) は、そうした「革マル・中核戦争」をリアルに描ききったもので、吐き気を催すだろう。川口君事件についても、上巻の第5章に「川口虐殺事件と“早大戦争”」というタイトルで出てくる。
1994年、革マル派排除へ
1994年に、早稲田大学総長に法学部長をやった奥島孝康氏が就任すると、早稲田における革マル派をめぐる状況、特に大学と革マル派との関係は劇的に変わった。それ以前は、大学当局や文学部当局も、革マル派を大学管理の手段に使っていた節がある(本書33-34頁等)。樋田さん曰く。「当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。…大学当局は、キャンパスの「暴力支配」を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待していたのだろう。」
奥島総長はこうした大学の姿勢を根本的に改めた。まず、長期にわたって革マル派の資金源になっていた学園祭、「早稲田祭」の中止を決定。早稲田祭実行委員会の活動を禁止した。革マルの実質的な準機関紙である早稲田大学新聞会のサークル公認を取り消した。また、革マル派の拠点、第一学生会館を取り壊し、新学生会館には徹底した管理システムを導入した(これは逆に一般の学生の自由を過度に制限するという側面をもった)。
暴力への態度
そもそも、当時は、すべての側が暴力を肯定していた。暴力一掃を訴えた法学部自治会の側も、裏では暴力を肯定していた。「正当防衛」ということで、ヘルメットをかぶり、角材などで武装して、時には実力を行使した。私がまだ高校生だった1970年、71年に早稲田であった武力衝突のことを、2年生以上の先輩たちは、アルコールが入ると(あるいはしらふでも)、私たち1年生に自慢げに話していた。自衛のためとはいえ、明らかに「先制自衛」のような話もあり、体験のない1年生に向かって武勇談を語るのである。1年生の多くは、これに圧倒的違和感をもっていた。先日、電話で話したクラスの友人も、私が知らないようなすごい「武勇伝」を聞かされていたようである。表面上は暴力反対をいいながら、実は手段としての暴力を肯定し、一時期、正当防衛として行使していたわけである。1972年当時1年生だった人たちが、しだいに運動から離れていったのは、いろいろな原因があるが、過度の政治化が影響している。私は3年生の時に病気で一時休学状態となり、回復して4年の憲法ゼミに入って猛烈に勉強を始めて、大学院入試に合格した。どんなことがあっても暴力は認めないという立場は確固たるものになっていた。
樋田さんも本書のなかで、暴力についての思考をめぐらしている。文学部のなかで、革マル派の暴力に対抗して武装すべきだという議論が出てきていた。樋田さんは悩みながらも、一貫して武装化に反対した(本書158-166頁)。さまざまなジレンマに悩みながら、樋田さんは運動から身を引いていく。私も運動から意識的に離れていった。
学生自治会の政治化の後遺症
50年近く前に起きたこの事件は何だったのか。大学に何をもたらしたのか。徹底した学生管理の仕組みの完成に「貢献」したことはいうまでもない。自由な早稲田にとって、これは大変痛ましいことである。しかし、革マル派の復活は決して認めない。早稲田出身の教員にとって、革マル派だけは特別なのである。それは「11.8」の体験から出てくるが、しかし、若い教員にこの体験を伝承することはむずかしくなった。多様な思想や主張を認める寛容な語学の教授でも、革マルだけは例外で、徹底して批判しておられた。革マル派だけは、早稲田のなかにその存在を認めない。この点では、教授会でも議論の余地なく一致していた。
そうした姿勢の副作用ということもあって、学生の間には、何らかの政治的主張を行うことそのものがよくないこという空気が生まれた。学生会館の管理についても、学生から特段の批判が出てくることもなくなった。また、法学部の場合、民青系執行部がなくなってから、一般の学生たちは、「学生自治会」という名称をもなくす動きに出た。最後まで自治会が残っていた法学部では、2013年、法学部学生自治会が、「自治」を自ら削除して、「学生会」と名称変更する学生投票を提起した。圧倒的多数で、「学生自治会」から「自治」が消え、「学生会」となった。これは学生自治の「政治化」がもたらした後遺症といっていいかもしれない。「就職に不利になる」「やっていることは、高校の生徒会なので、生徒会でもいい」ということだった。50年前に学生だった世代からすれば、まさに言葉の一つひとつまで、隔世の感であろう(直言「雑談(105)今時の学生たち(2)――大学に生徒会?」参照)。
私たちの親の世代が、「戦後50年」を語るのと同じような感覚で、「11.8」後の50年を思い返している。「戦争を知らない子供たち」(北山修作詩、杉田二郎作曲、1970年)を知らない子どもたちの世代に、どうやって1972年11月8日を伝えるか。これは難問である。今回の「直言」を読んで、水島朝穂はやっぱり「ブサヨ」だったというつぶやきが飛び交うかもしれない。だが、私は「左」の方の議論も批判してきている(直言「立憲主義と民主集中制」)。50年前は右から左まで、中間派の間も含めて、実に多様な分岐が存在していた。インターネットやSNSの発展により、一見多様にみえる言説空間が狭く、画一的になっていることを危惧する。《付記》 本直言アップ後、大学時代からの友人でジャーナリストの高世仁氏がブログで、「『彼は早稲田で死んだ』を読んで」を書いているので紹介しておきたい。そこには、高世氏の『産経新聞』12月13日付の書評も掲載されている。なお、高世氏は、私と同じで親指シフトキーボードの愛用者であることがが9年前にわかった。そのことを2012年の「直言」に書いてある(2021年12月14日加筆)。
《追記》 映画史家・比較文学者の四方田犬彦氏が、映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』(2024年5月25日公開)について、「触れれば血が噴き出すような傷」というタイトルの評論を『毎日新聞』2024年5月29日付夕刊に書いています(ここから読めます)。2年半前、この「直言」を読んだ方々から、映画化の話がメールできて、電話で出演を依頼されました。しかし、私は断りました。その思いは、同世代の四方田氏の書いたものと重なります。(2024年5月30日追記)