「間違いを止める力と言葉」を持てるか
数年前、地下鉄東西線の早稲田駅ホームに、「君たちが世界だ。世界をつくるのは君たちの言葉だ。WASEDA」というボードが貼られていた。「世界が間違いを犯そうとするとき、君はそれを止める力を持てるか。君はそれを止める言葉を持てるか。」で始まる。電車がくる前のわずかな時間だったが、思わず携帯で撮影したまま、忘れていた。先日、携帯写真を整理していたら、これが出てきた。撮影日は2018年5月10日とある。誰が、どんな経緯でこれを地下鉄の駅に掲げたのかと思って検索をかけてみたところ、何と、2016年4月に早稲田大学が出したものとわかった。このメッセージボードが学内に並べられていて、その名残のようである。なぜ、私はこれを知らなかったのだろうか。日付をみて了解した。これが出されていた時期、私はドイツのボンで2度目の在外研究を行っていた。だから、その間の日本の出来事がすっぽり抜け落ちていたわけである。
それはともかく、このメッセージボードの最後の言葉、「WASEDAは、そういう人間をつくる場所だ。その言葉を学ぶ場所だ。」 いまの大学が、早稲田が、こう言い切れる場所になっているか。忸怩たる思いを抱いている。
「大学改革」の罪深さ
「大学改革」という言葉で検索をかけてみると、億単位のものがヒットする。16年前、「大学改革」が声高に語られ始めた頃、直言「「小さな親切」と「大きな害悪」の間」を出したが、そのなかに次の文章がある。
「…世間では、さまざまな「改革」が行われている。大学でも、「学生のニーズ」や「社会のニーズ」に応えるためとして、種々の「改革」が行われている。…近年、「ニーズ」に応えないと競争に負けるという強迫観念(オブセッション)からか、求められてもいないのに先回りして、「痒いところに手が届くような」サービスを提供する傾向がある。「ここが痒いでしょう」と教えてかいてあげる、「ニーズ先取り型」もある。さらには、「痒いところをわざわざ作ってかいてあげる」という「ニーズ創出型」もある。ここまでくると本末転倒である。自分で調べろ。もっと足を使え。自分で考えろ、と言いたくなるような、私たちが学生のころには考えられなかったような、過剰なサービスが大学にも横行している。それに伴い、教職員の側には、さまざまな仕事や負担が増えていく。そうしたなかで、「大学の自治」の歴史のなかで築いてきた伝統や慣習が、「世間の荒波」と「ニーズへの対応」にさらされて消え去ろうとしている。…」
この20年ほどの間、大学の世界に、「小さな親切、大きなお世話」「小さなお節介、大きな迷惑」「小さな勘違い(思い込み)、巨大な害悪」ということがやたらと増えていったように思う。2004年の国立大学の独立行政法人化がターニングポントだった。大学に、企業の思想と行動原理が持ち込まれていった。政治家や審議会常連たちの思いつきや勘違いなどが答申・提言に反映して、法律の制定・改正へと進む。教育基本法の「改正」をやったのは、安倍晋三の第1次政権だった(直言「これが「不当な支配」なのだ」)。安倍の場合、「思い込み」が激しく、2012年の第2次政権からは、持ち前の「無知の無知の突破力」を発揮して、大学や教育の分野にも執拗かつ粘着質に手を突っ込んでいった。
「…「リーダーシップ」と「ガバナンス」という言葉が使われていることに違和感がある。学長や学部長のトップダウンによる「スピード感」あふれる大学運営が期待されているようだが、それは壮大なる勘違いというものである。大学にとって最も無縁なのは、指揮命令関係である。過度な「リーダーシップ」は有害でさえある。学部長が教授に対して指揮命令をするという発想がそもそも大学にふさわしくない。従来、学長や学部長というものは、われわれ教授からすれば、大学のお世話係という認識があって、「ご苦労さま」という感覚だった。だが、近年は妙にその役割が強調されるようになり、なかには勘違いして空回りしている長もいる。この国の首相と同じである。「私が大学の最高責任者だ」などと学長が言ったら、かつてなら笑いものになっただろう。だが、いまは誰も笑わなくなった。特に職員管理は徹底し、指揮命令関係が大学内に貫徹するようになっている。従来はもっとアバウトだったし、それが大学のよさでもあった。…」
権力の私物化、大学にも
一体、誰のための「改革」なのか。学生も教員も誰も幸せにならない「改革」の連鎖に、大学人は振り回されてきた。その一方で、大学設置認可の現場では、権力の私物化が進行していた。加計学園問題である(直言「「ゆがめられた行政」の現場へ――獣医学部新設の「魔法」」および「なぜ、加計学園獣医学部にこだわるか──忘れてはならないこと」参照)。
学外者が大学のことを決める「ガバナンス」?
日本大学をはじめ私立大学におけるさまざまな「不祥事」を理由に、文部科学省が「学校法人のガバナンス強化」をはかろうとしている。文科省の有識者会議「学校法人ガバナンス改革会議」(増田宏一座長(元日本公認会計士協会会長))は2021年12月3日、「学校法人ガバナンスの抜本的改革と強化の具体策」という報告書をまとめた。A4で本文9頁ほどだが、冒頭、「大学を設置している学校法人では経営を巡る不祥事が多数起こり」として、日大理事長逮捕を念頭においた現状認識が示される。「公益法人としての破格の税制上の恩典」(報告書は「隠れた補助金」(tax expenditure)と呼ぶ)と「多額の助成金」を得ていることを挙げながら、諮問機関の性格をもつ評議員会に「最高監督・議決機関」としての性格を与え(各紙共通して「格上げ」という表現を用いる)、理事会の権限を大幅に縮小することを提言している。
現行の私立学校法(1949年法律第270号)では、大学経営の最高議決機関は「理事会」である(36、37条)。「評議員会」は理事長の諮問的機関であり(42条)、理事長はじめ「役員に対して意見を述べ、若しくはその諮問に答え、又は役員から報告を徴することができる。」とされている(43条)。報告書は、その評議員会を「最高監督・議決機関」と位置づけ、理事の専任・解任、事業計画、予算・決算をはじめ、「学校法人の経営に関する重要な事項」を議決する権限を与えようとしている。
報告書の最大のポイントは、評議員は「現役の理事、監事及び職員との兼任は認めず、その選任も理事又は理事会において行うことを認めない」としていることである。「現役の…職員」とは当該大学の教員と職員を意味するから、評議員に、当該大学の現職の教授は含まれないことになる。「職員の地位にあった者は、5年経過後は評議員に就任することができる。」とあるから、定年退職後5年の名誉教授しか評議員になれないわけである。評議員はすべて学外者ということになり、会社社長やビジネス弁護士、経済評論家などで構成される評議員会が、大学の運営全般に関わることになる。これにより、日大の田中前理事長のような独裁的人物は排除できるかもしれないが、評議員会議長が今度は、大学の外部からの視点で絶大なる権限をもつ。評議員の任期を、「理事の任期よりも長いもの(倍以上)とする」「再任を妨げない」「理事会・理事による評議員選任(解任)は認めない」とする法律改正を求めているから、学外者からなる評議員会が、もっといえば研究・教育の現場を知らない部外者が、大学の研究・教育、人事などに対して大きな影響力をもつ建て付けになっている。
文部行政のトップだった前川喜平・元文科事務次官は、「田中容疑者のような理事長の専横は防げるだろう。しかし、今度は評議員会の議長が絶大な権力を握ることになる。…今回の提言に決定的に欠けているのは大学の自治の観点だ。大学とは本来学問をする者の自治的共同体である。教師は被用者ではない。学生は顧客ではない。田中前理事長のような人物は教師や学生が参画する大学の自治によって排除されるべきなのである。」(「学校法人ガバナンス改革」『東京新聞』12月5日付「本音のコラム」より)。まったく同感である。
この報告書に対しては、日本私立大学連盟が「株式会社の考え方を導入しようとするもので合理性を欠く。このままでは私立大の健全な経営と教育研究の発展を阻害する」と批判している(『朝日新聞』12月4日付)。文科省はこの報告書を受けて、私立学校法の改正を進めていくという。来年の通常国会に法案を出してくるようである。文科省は、報告書とは異なり、①理事会の意思決定機関としての機能は維持し、評議員会には諮問機関だけでなく、監督機関としての役割を与える、②理事と評議員を構成する教職員の数に一定の上限を設ける、③理事の選任は評議員会に報告し、解任は評議員会もできるとする案が検討されているという。有識者会議の増田座長は、「監督される側の私学の文句に動じずに、報告書の理念を生かした法案にしてほしい」と主張している(『朝日新聞』12月14日付)。
法案を通すとき、極端な権利制限的な条文を入れて、反対運動を起こし、国会審議のなかでそれを削除して、もともと狙っていた条文を実現する。いわば「バナナのたたき売り」的に、最初は500円から始めて、最後は「エーイ、280円だ。もってけドロボー!」とやって、客に280円を安いと感じさせる手法である。文科省のいう②がくせもので、学内理事や学内評議員の数に「一定の上限」を定めることで、実質的に学外者の影響力を今までよりも拡大することが可能となる。研究・教育に関する重要事項についての教授会権限を縮小する学校教育法の改正(2014年)に続いて、学長も理事となる理事会の権限を制限するだけでなく、「監督機関」という形で、学外者が大きな影響力をもつ評議員会の強化をはかって、「ガバナンス」の名のもとに、大学の自治を萎縮させていく試みではないか。
大学の主人公は誰か
大学の主人公は学生と教職員である。大学設置者(国・自治体・学校法人)は「金は出すが、口は出さない」のが原則である。憲法23条の学問の自由と「大学の自治」は、特にこの9年間で、さまざまな方面から切り崩されてきた。大学入試のあり方やカリキュラム(直言「「安倍カラー」で空洞化する大学――入口から出口まで」参照)、大学の本質に反する安倍流「実践的職業教育の場としての大学」論(直言「大学を職業教育の場に?!――「傲慢無知」政権の大学政策」)、従軍慰安婦問題など特定のテーマについての教育内容への介入の動き(直言「学問の自由が危ない――広島大学で起きたことへの憲法的視点」)、さらに、高等教育無償化を憲法改正の口実にする恣意性(直言「安倍晋三トルクメニスタン大学名誉教授の改憲論と大学論」)等々。最近では、日本学術会議の6教授任命拒否が、岸田文雄政権に継承されている。
2002年早大総長選挙のこと
20年ほど前、早大総長選挙にかかわったことがある。当時、教員組合書記長の任にあったので、総裁選挙の両候補者へのインタビューなどをやって、構成員に候補者の政策や人柄を知らせる活動の責任者をやった。総長は、学校法人早稲田大学の理事長と、早稲田大学の教学面の最高責任者である学長を兼ねる。専任教職員による投票と、学生による信任投票とによって総長が選出される。まず、『2002年総長選挙:意味と仕組みについて』というパンフレット(A4、12頁)を2600冊印刷して、全教職員と新任教員に配付した。23項目もの「候補者アンケート」を行い、有権者に知らせた。私の提案で、「総長候補者の抱負を聞く会」をビデオに収録して、早稲田の全箇所(学部、研究科、高等学院など)で上映する「ビデオ立ち会い演説会」を実施した。「候補者の顔と声」というものを初めて表に出す選挙をやったという自負はあるが、その後の総長選では実施されず、最初で最後の試みになってしまった。学生の投票率は毎回低く、この時の信任投票率は0.48%だった。それでも、総長を教職員の直接選挙で選び、学生の信任投票も加える制度が存在することは、早稲田の「大学の自治」の形といえる(詳しくは、直言「顔の見える選挙――早大総長選の試み」参照)。今後、「ガバナンス」が強調され、学外者が力をもつ評議員会が前面に出てくると、こうした自治のやり方は後退していくことになるのだろうか。そうさせてはならない、と私は考えているが、どうなるだろうか。
なお、冒頭右の写真は、キャンパスを歩いていて、ふと大隈講堂の方を見たときの光景である。雲間から見える月との構図に息をのんだ。2017年1月17日(火)17時47分の打刻がある。携帯で撮影していて、その後忘れていたものだ。冒頭左のボードの写真と同時に見つけた。
《文中敬称略》