Netflix『新聞記者』を見る──アベノリアル
2022年1月31日

「コロナで映画館に行けない」の副産物

ロナ禍で映画館に行かない(行けない)日々が続いているうちに、岩波ホールが閉館になってしまった。80年代から通いだし、アンジェイ・ワイダ監督作品などは、このホールで上映されたものはほとんど見た。たくさんの作品と出会い、人生を豊かにしてくれた。さびしい限りである。

  この2年ほど、家にいる時間が長くなると、原稿書きの合間に、アマゾン・プライムでいろいろな国の映画を見るようになった。「見放題」でも、よい作品とけっこう出会う。すでに紹介した『否定と肯定』(アメリカ・イギリス合作、2016は封切り時に映画館で見たが、いまは「見放題」である。「雑談」で紹介した『お名前はアドルフ?』(ドイツ、2018)。ほかにも、例えば、『みかんの丘』(エストニア・ジョージア合作、2013年)は、期待しないで見始めて、民族紛争の深部と芯部から人間の可能性を感じる秀作に出会った。天才子役キム・ヒャンギの演技に舌を巻く『無垢なる証人』(韓国、2020年)も、法的議論抜きに素直に見れば感動できる。『グリーンブック』(アメリカ、2018)や『パブリック  図書館の奇跡』(同、2020年)もいい。『家へ帰ろう』(スペイン・アルゼンチン合作、2017)は、「70年前の恩人に、仕立てた洋服を届ける老職人」の旅物語である。アルゼンチンからポーランドまで「ドイツを通らないで行く」がテーマ。トラベルの途中のトラブルの一つひとつに意味がある。日本語タイトルのひどさはよく知られているが、「最後のスーツ」という原題よりも、「家へ帰ろう」の日本語タイトルの方がよいという、これは珍しい例である。また、先月見た『ある画家の数奇な運命』(ドイツ、2018年)の原題は“Werk ohne Autor”(作者なき作品)。英語タイトルは“Never Look Away”(決して目をそらさない)である。さまざまな「過去の克服」の課題を考えさせられる作品である。


Netflixで『新聞記者』を見る

あまりテレビを見ないので、テレビをつけたときに出てくるアプリの類については、今まで関心がなかった。だが、動画配信サービス「Netflix」で米倉涼子主演『新聞記者が見られるというので契約した。映画『新聞記者』と同じ監督の作品だが、長尺なので、複数の話を同時展開しつつ、人物描写もこちらの方が凝っているように思う(予告編はここから)。主演はドクターXのイメージが強烈な米倉だが、ここでは、驚くほど控えめで抑制的な演技が光る。

 3年前に、直言「映画『新聞記者』を超えるリアル――逮捕状を握りつぶした人物が警察庁長官に?!をアップしたが、山口敬之の逮捕状を握りつぶした中村格は、すでに警察庁長官になっている。今回のNetflix『新聞記者』でも、首相に近い評論家(配役・ユースケ・サンタマリア)が逮捕をまぬがれるシーンが出てくる。森友学園問題とよく似た「栄新学園」の問題で、首相夫人付きの男性官僚(綾野剛)が財務省理財局長に「圧力」をかける場面が出てくる。国会での野党の追及により、首相が思わず、「妻や私がかかわっていたということになれば、総理大臣も国会議員もやめる」と口走ってしまう。首相補佐官(佐野史郎)は、「想定外だ。原稿通りに話してほしいものだよ、まったく」と天を仰ぎ、「答弁を事実にしないといけない」という。ここから財務局の現場における公文書改ざんが始まる。

  それを実際にやらされる財務局職員(吉岡秀隆)の苦渋と苦悶の演技は鬼気せまる。直属の上司を演ずる田口トモロヲの表情の変化もいい。内閣情報官を演ずる田中哲司もはまり役で、映画版と同じ設定で登場する。直言「公文書改ざん事件と「赤木ファイル」で書いたように、この作品は、自殺した近畿財務局職員の赤木俊夫さんの置かれた立場と重なる。映画版と異なり、財務局の他の職員や、警視庁の刑事、検察官などがそれぞれの立場で不条理を語る。これは実際では見えてこないので、ドラマならではのものである。直言「公務員は「一部の奉仕者」ではない――「安倍ルール」が壊したものでも書いたように、第2次安倍晋三政権発足以降、10年近くの間に、この国の官僚機構は致命的な傷を負ったといえよう。その傷の深さを、個々の公務員の生活まで立ち入って描く。

  「この作品に登場する人物及び出来事は架空のものであり、実際のものを描写するものではありません。」とエンドロールの最後に出てくるが、限りなく「実際のもの」を再現しようと「リアル」にこだわっている。テレビで見ると気づかないが、二度目にパソコンで見たときは、さまざまな文書が出てくるところで画面停止させると、けっこう文章の細かな記述に凝っていることに気づかされた。


アベなるもの――「三無主義」

  ドラマのなかで、「答弁を事実にしないといけない」という首相補佐官の言葉がある。現実の森友学園問題における公文書改ざん問題も、ここから始まった。2017217日の衆議院予算委員会における安倍晋三首相の答弁を想起する。「私も妻も一切、この認可にもあるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして(中略)私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。」(映像で確認のこと)。

 この「在任期間のみ「日本一の宰相」の特質は、「三無主義」と特徴づけることができるだろう。無知、無教養、無節操、無反省、無批判…等々、人によってそれぞれ思い当たるだろうが、私はあえて、「無自覚」「無頓着」「無神経」の3つを挙げたい。安倍が「政治的仮病」を使って二度目の政権投げ出しをやった際、私は直言「「政治的仮病」とフェイント政治――内閣法9条のこと」のなかで、こう指摘した。

…[小学校から大学までを武蔵野市]吉祥寺北町3丁目のエスカレーターで16年間過ごしたときに身につけた「言い訳」と「ずる休み」の能力を十二分に発揮したものである。父親の安倍晋太郎は外相、農相、通産相、官房長官と自民党4役(幹事長、総務会長、政調会長、国対委員長)をすべて経験して、首相へのパスポートをもっていたが果たせなかった。息子の晋三は第3次小泉改造内閣で官房長官として初入閣するも、わずか10カ月で総裁選に立候補して当選。首相となった。父親と違って、主要閣僚の経験がほとんどない晋三は、小学校から大学までのエスカレーター的生活の延長で、閣僚としての基礎修行も乏しく、一気に首相になってしまった。人間力もなく、経験不足も著しい人物が長期にわたって首相をやったあげくが、病気を理由にした辞任である。私はこれを「政治的仮病」と呼ぶ。一般に仮病とは、病気でないのに病気をよそおい、病気のふりをすることである。「政治的仮病」とは、実際に病気になっていても、政治的必要性からそれを過度に重く見せるなど、病気を政治的に利用することをいう。安倍流「5つの統治手法」のうちの「論点ずらし」の典型的な形である。これが「フェイント政治」である。…

 上記で書いたように、叩き上げでも、超エリートでもない中途半端な世襲議員が、勘違いしたまま最高権力者となってしまったため、政治家や官僚が抱くであろう悩みやためらいがわからない。これは理解力の問題ではなく、自己の立場に対する無自覚があるのではないか。そして人の痛みに対する無頓着。だから、「私が指示したことは断じてない」などと平気で答弁してしまうのである。首相が指示する必要などない。まわりが忖度するのだから。他方、自分に批判的なキャスターを排除させたり、買収資金まで提供して、安倍批判をした参議院議員を落選させたりした。一方、自分をヨイショする「ネットサポーター」はどこまでも厚遇する。一国の首相としての自覚を欠いた、児戯的な行動ではないか。

 「総理大臣も国会議員もやめる」などと、同じような状況で野党に追及された場合、他のどの首相も決して口にはしないだろう。なぜ安倍は5年前にこの言葉を発したのか。あっけらかんとした居直りの姿勢は最強である。無神経だから、恐いものなしである。政権を投げ出してさして時間もたっていないというのに、「危機の指導者とは」などとインタビューで語ることができる所以である(直言「「危機の指導者」と「指導者の危機」――「どの口が言う!」の世界」参照)。

Netflix『新聞記者』は、フィクションを標榜しながらも、憲法上「全体の奉仕者」であることを求められているにもかかわらず、無理やり「一部の奉仕者」にさせられた公務員の悲しみ、苦しみ、痛みが伝わってくる作品といえる。他方、このドラマの唯一の救いは、新聞配達をする学生(横浜流星)である。「新聞配って、まったく読まない」典型的なタイプから、さまざまな矛盾にぶつかりながら成長していく姿が、この作品のもう一つの伏線になっている。若い横浜の演技が心に残る。この作品が多くの人の目にとまることを期待したい。

(2022年1月26日脱稿)
《文中敬称略》

《重要な付記》
  本稿脱稿後、『週刊文春』23日号に接した。「森友遺族が悲嘆するドラマ「新聞記者」の悪質改ざん」という6頁の記事だが、これを読んで、妻の赤木雅子さんや、この問題を明らかにする上で重要な役割を果たした元NHKの相澤冬樹記者が軽んじられていることがわかった。客観的に見ても、担当プロデューサーの対応にはかなり問題がある。「原作者」の態度や対応も。そして、小泉今日子の出演辞退とその理由があえて語られなかったことが、すべてを象徴しているように思う。とはいえ、制作過程に問題があったとしても、この作品を見る価値はなくならない。

 
トップページへ