入試・学年末の繁忙期用ストック原稿をアップする。今年2回目の雑談シリーズ「音楽よもやま話」である。前回は、コロナ禍のコンサートについて書いた。今回のテーマはアナログレコード。CDすら買わなくなった若者にとって、ほとんど「化石」と感じられるだろうが、どうしてどうして、これが、いまけっこう見直され、売れているというのだ。
ところで、岡山の県紙『山陽新聞』1面コラム「滴一滴」におもしろい記事が載っていた。この新聞には、私も30年ほど前の憲法記念日の前日に「病める学校社会――校則」という評論を依頼されたことがある(『山陽新聞』1993年5月2日付文化欄・新聞評論等リストNo.42 )。昨年8月、たまたま同紙1面コラムを読む機会があって、なるほどと思って保存しておいたものを以下、全文引用しよう。
先日、実家で長く眠っていたレコードを引っ張り出した。40年ほど前に買った日本のポップスやクラシック、そしてビートルズ。ジャケットを見ているだけで、あの頃、友と交わした何げない会話をとりとめもなく思い出す。
ここ数年、アナログレコードの人気が再燃している。日本レコード協会によると、総生産枚数は2020年まで4年連続で100万枚を超えて推移。過去最低だった09年の約10倍まで伸びている。
CDやインターネット配信といったデジタル音源が全盛の中、アナログならではの温かみのある音色が受けているようだ。デジタルに慣れた若者らには新鮮に聞こえるのかもしれない。新型コロナ禍で、家で過ごす機会が増えたこともあろう。
作家の村上春樹さんはジャズなどのレコード収集家でもある。1時間ほど床に座り込み、ジャケットを次から次へと眺めていることがあるという。
「時々匂いを嗅いでみたりもする。それだけでけっこう安らかな気持ちになれるから」。近著「古くて素敵なクラシック・レコードたち」で愛着ぶりを語っている。
指紋をつけないよう盤を取り出し、ちりを拭い、慎重に針を落とす…。儀式のような手間がかかるからこそ、意識を集中させ、音楽に向き合うことができるのがレコードの醍醐味だろう。便利なデジタルにはない妙味でもある。
( 『山陽新聞』2021年8月26日付1面コラム「滴一滴」デジタル版はここから)
レコードが毎年100万枚も売れているという事実をここで知った。作家・村上春樹が、レコードの匂いを嗅いで安らぎを得ているという下りもおもしろかった。15年前の直言「雑談(59)音楽よもやま話(9)――レコードとカセット」では、八ヶ岳南麓に仕事場を建てた際、そこに父が保有していた大量のLPレコード(33回転)を持ち込んだことについて触れ、次のように書いた。
…デジタル情報の洪水から自らを遮断して、精神の安定を保つ工夫でもある。これからの人生、生き急がないためには、アナログの要素も必要だと考えるようになった。…ボタン一つであとは自動というCDとは異なり、レコードを「ひっくり返す」という「段取り」と「間」が何とも楽しい。音の豊かさとふくらみ、やさしい「温感」は、レコードならではである。…
父が残したレコードのなかに、バッハの「マタイ受難曲」がある。オットー・クレンペラー指揮のものだが、劇的な演奏で、宗教曲の範囲を超えた「クレンペラーのマタイ」だと思う。特にイエスはバリトンのディートリッヒ・フィッシャーディスカウ。生演奏を含めて、ここまで深いイエスの声を聴いたことがない。10年ほど前に、同じ演奏のCDを入手して聴いたが、レコードの方に深みと奥行きを感じて、その後CDでは聴いていない。
直言「音楽よもやま話」はどこまでも私の個人的な趣味の世界なので、まじめにお読みいただいている方には恐縮である。もう少し続けさせていただきたい。
このシリーズでは、「第1交響曲」についての回と、「第9交響曲」について書いた回とがある。ベートーヴェンを意識して、「第9」をラストにしてその両端にこだわってみたわけで、一見無意味に感じるが、実は無意味だと思う。
レコードの録音が大嫌いな指揮者がいた。自ら映像会社を作り、最新技術を駆使して自分を「見せる」ことに執念を燃やした「帝王」ヘルベルト・フォン・カラヤンとは正反対のタイプの指揮者で、セルジュ・チェリビダッケという。80年代に何度か生演奏を聴いたが、聴衆にも最大限の緊張を強いるのが特徴だった。心地よい疲労ではすまなかった。オーケストラメンバーには妥協を許さないリハーサルで、「意に反しない苦役」となったことで知られる。自分の音楽をマイクで記録するのには限界があるとして、レコーディングをひどく嫌った。
だから、80年代にはひどい音の海賊版が出回ったこともある。父は1枚買ってしまったが、そのチャイコフスキー交響曲第5番だけは捨ててしまったらしく、死後に整理したレコードのなかには見あたらなかった。生演奏がすべての指揮者だったので、1994年10月17日のブルックナー交響曲第7番は是非とも聴きたいと思ったが、広島大学に勤務していた時で、ちょうど後期授業開始日だったため、あきらめた。しかし、これは「幻の演奏会」になってしまった(当日、チケットを入手していた方のブログ参照)。その2年後にチェリビダッケは死去する。
というわけで、今回の、入試・学年末繁忙期における「埋め草」的な直言は、アナログレコードブームにかこつけて、父の音楽へのこだわりを含む、個人的な「音楽よもやま話」となった。2016年のドイツ在外研究中における音楽体験についてはすでに書いたし、私のブルックナーへのこだわりについては、2017年のザンクト・フローリアン修道院で聴いたブルックナー・オルガンのコンサートなどについて書いたので参照されたい。ちなみに、まったく偶然だが、冒頭右の写真、父がメモに使った広告には不思議な縁があるが、ここでは触れないでおこう。