「限定核戦争」のリアル
「プーチンの戦争」が始まって46日目になる。一般市民に大量の犠牲者を出す悲惨な状況が毎日のように報道されている。ヴォルゴグラード(旧スターリングラード)を訪れた時に、ナチスによって完全に破壊された市街地のジオラマをみたが、いまのマリウポリなどの映像や写真を見て、時代が80年以上も戻ってしまったかのような感覚におそわれた。核兵器を使わないで、「通常兵器」による破壊の極致をいま、「プーチンの戦争」で見せつけられている。ロシアのペスコフ大統領報道官は3月22日、核兵器を使用する可能性を否定しなかった(CNN 3.23)。
かつて「限定核戦争」に欧州の人々が危機感をもったことがあった。1979年12月、ソ連が東欧に配備したSS20という中距離核ミサイルに対抗して、NATOが、パーシングⅡと巡航ミサイルをドイツやイタリアなどに配備する決定を行ったからである。その時、これに反対して、ドイツでも欧州でも反核運動が盛り上がった。米ソが生き残り、ヨーロッパが灰になる「限定核戦争」のリアル(“Euroshima”)が人々を突き動かしたのである。やがて、ゴルバチョフとレーガンが署名して、中距離核戦力全廃条約が生まれた。その後、紆余曲折を経ながらも、また北朝鮮によるミサイル発射の連鎖という状況がありながら、2021年1月の核兵器禁止条約発効によって、歴史は核兵器禁止の方向に向かってゆっくり動き出しかに見えた。だが、「プーチンの戦争」で戦術核兵器の使用が語られるようになり、キューバ危機(1962年)の頃にまで、歴史は60年逆走したかのようである。「非核三原則」が生まれて55年になる日本においても、核兵器への選択肢を拡大させる議論が登場している。それは13年前に広島で主張されたが、世間の反応は鈍く、忘れられていたものである。
13年前の「核共有」論
in Hiroshima
2009年8月6日、田母神俊雄元航空幕僚長が広島にあらわれ、「ヒロシマの平和を疑う」というテーマで講演した。私は2011年まで14年間、NHKラジオ第1放送「新聞を読んで」のレギュラーをやっていたので、講演を先触れ的に報じた新聞記事を使って、番組の終わりの方で、次のように指摘した。「田母神氏は、『アメリカの核を国内に持ち込むだけでは効果が薄い。核兵器の発射ボタンを共有する“ニュークリアシェアリング”に踏み込む必要がある』と主張しています。ヒロシマ『原爆の日』に広島でこのような主張の講演会が行われること自体、被爆から64年が経過したなかでの『変化』に違いありません。平和を祈るだけでなく、より研ぎ澄まされた平和の論理の構築が求められていると思います」(2009年8月1日放送)と。
ラジオ番組なので批判は控えめにしておいたが、そのあとの直言「核時代のピエロ」では激しく批判した。2008年、田母神は現職の幕僚長であるにもかかわらず、アパグループの懸賞論文に応募して、300万円の賞金を獲得した人物である(直言「空幕長「論文」事件をどう診るか」)。ただ、当該直言では、「核共有(シェアリング)」論それ自体について踏み込んで批判していない。これは、「時」(8月6日)、「場所」(広島)、「内容」(核共有)の3つから、私自身、外在的批判にとどめたという事情がある。なお、田母神の「歴史観・国家観」については、直言「田母神統幕学校長の20カ月」参照されたい。
13年前においては、田母神の「核共有」(ニュークリアシェアリング)の議論について、メディアのほとんどが批判的に取り上げていたのだが、いまは、日中対立やウクライナの戦争が起きて、「核共有」についても1つの選択肢として扱う向きも生まれている。これは共同通信配信の記事であり、私のコメントも、かなり短くされて使われている(ここでは『山陽新聞』3月16日付を掲げておく)。
エマニュエル・トッドの議論──日本核武装への誘導?
4月8日発売の『文藝春秋』5月号の特集は「日本核武装のすすめ」。早速入手して関連する論稿をすべて読んだが、巻頭にあるエマニュエル・トッド(フランスの人口統計学者、歴史学者)の、ロシア侵攻後の初インタビュー記事は読み応えがあった。これを「日本核武装のすすめ」というタイトルで売り出す編集部の商魂を感じた。日本核武装への言及は1頁半にすぎない。全体として、この戦争の責任の所在、背景、本質、そして今後の予測を、トッドの視点で明快に論じている。ここで立ち入って紹介する余裕はないが、「戦争の責任は米国とNATOにある」と断定し、ロシア非難の大合唱とは距離をとった冷静な分析が続く。ウクライナは「NATOの“事実上”の加盟国」になっており、米英が高性能兵器や軍事顧問団まで派遣して強化したため、「日増しに強くなるウクライナ軍を手遅れになる前に破壊すること」にロシアの侵攻の目的があったと喝破する。マリウポリが「見せしめ」のように攻撃されるのは、ネオナチの極右勢力「アゾフ大隊」(注・連隊)の発祥地だからと指摘し、プーチンのいう「非ナチ化」の意味を、アゾフをたたきつぶすことにあるとして、メディアが沈黙するウクライナの「不都合な真実」にも踏み込む。
トッドは、すでに第三次世界大戦は始まっており、「ウクライナ軍は米英によってつくられ、米国の軍事衛星に支えられた軍隊で、その意味で、ロシアと米国はすでに軍事的に衝突している」「米国は、自国民の死者を出したくないだけ」と指摘する。トッドによれば、侵攻が始まると米英の軍事顧問団はポーランドに逃げてしまい、「米国はウクライナ人を“人間の楯”にしてロシアと戦っている」のであり、「今後、この裏切りに対して、ウクライナ人の反米感情が高まるかも」と述べる。ただ、市民の「大量虐殺」とその戦争犯罪性についての言及がないのは、インタビューが侵攻から間もない時期に行われたからだろう。
なお、トッドは家族人類学の専門家でもあり、そこからロシアの共同体家族とウクライナの核家族の社会分析から、ロシアとウクライナのさまざまな違いに立ち入って論じているところも興味深く、戦争の背景を知る手がかりになる。
今後の予測では、ロシアは「合理的」かつ「暴力的」に動いており、予測可能であるという。中国の行動もある程度予測可能である。予測不能なのがウクライナとポーランドであり、この両者が協働する動きを見せたら「危険あり」と注意すべきであるとして、プーチンの「核発言」はポーランド向けメッセージであるという指摘は意外だった。
そして、トッドの表題にもかかわる「日本は核を持つべきだ」という点については1頁半もなく、言わんとすることは、米国の行動の「危うさ」が、日本にとっての最大リスクであり、「米国に頼りきってよいのか。米国の行動はどこまで信頼できるのか。こうした疑いが拭えない以上、日本は核を持つべきだと私は考えます」ということである。核を持つことは、国家として「自律すること」という下りからは、ドゴールが推進したフランスの核武装が、ソ連に対して向けられたものではなく、米国に対してのものであったことが想起される。フランスの核兵器は、「ヨーロッパにおけるフランスの指導的立場を再確立するための『意志の力』の象徴であった」(内閣調査室『日本の核政策に関する基礎的研究』1967年)。
“「核共有」の議論から逃げるな”?
このトッドの興味深いインタビューに続く、安倍晋三「「核共有」の議論から逃げるな」は、編集部が注記を入れたインタビュー構成だが、ほとんどライターの文章ではないか(なお、『週刊ダイヤモンド』については、安倍側による圧力の疑いも出ている )。ただ、安倍流の常として、「議論から逃げるな」「国家の独立、そして国民の命を守ることは政治家の使命」といった威勢のいい言葉が並ぶ。
内容としては、トッドによって「完全にナンセンス」と断じられた「核共有」と、「幻想」と切って捨てられた「核の傘」について、「これしかない」という安倍流の単純明快さで語るものとなっている。「核共有」は、1950年代にNATOで始まり、ドイツやオランダなど5カ国に米国の核兵器を「置き配」しただけで、その国の戦闘機に積載して投下する仕組みである。使用の判断権は一義的に米国にあり、配備国にはない。「核共有」において、配備国はどこまで意思決定にコミットできるか。結局、米大統領の判断がすべてで、配備国に発射の拒否権も要請権もないから、核爆弾の運び屋という肉体労働だけを担わされるのである。
中距離核戦力(戦域核)が全廃されたので、現在は戦略核と非戦略核があり、この非戦略核、つまり核爆弾、核砲弾、核地雷などの戦術核が「核共有」の対象となる。米軍が非戦略核(戦術核)として保有しているのはB61核爆弾(自由落下型)である。ドイツの場合、西南ドイツのラインラント=プファルツ州のビューヘル(Büchel)空軍基地に20発ほど貯蔵されている。トルネード戦闘機に搭載して出撃するのだが、航続距離との関係で運用範囲は広くはない。核爆弾は撤去すべきだという議論がドイツ国内でも出ていた。運動団体は持続的に反対集会を開いている。そもそも核爆弾を戦闘機に搭載して発進するのには時間がかかる。大陸間弾道ミサイル(ICBM)や潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)の発射までの時間とは比較にならない。本当に使うとなれば、米国は面倒で時間のかかる戦術核の運び屋は使わないのではないか。
なお、ロシア軍の場合、152ミリ榴弾砲が核砲弾に対応可能だが、ウクライナ侵攻の際、2S19ムスタ152ミリ自走榴弾砲が結構目についた。
時代錯誤の勘違い
安倍晋三は、欧州における1950年代の「核共有」という冷戦の遺物を、21世紀の日本でやろうと本気で考えているのか。「核共有」について安倍が最初に口にしたのは、2月27日のフジテレビの番組だった。その後も機会あるごとに発言していたが、時代錯誤の勘違いではないか。岸田文雄首相は2月28日の参院予算委員会で、「核共有」について質問されると、「非核三原則を堅持するわが国の立場から認められない」と明確に答弁した。岸田の場合、憲法改正については安倍に忖度するような態度や対応が目立つが、こと「核共有」については非常にきっぱりとした態度でこれを否定している。
2年ほど前から「敵基地(策源地)攻撃能力」の保有について、自民党内がかまびすしい(直言「「敵基地攻撃能力=抑止力」という妄想(その2)――法的、軍事技術的視点から」参照)。安倍は、「敵基地攻撃能力」では満足せず、4月3日、地元の山口県連主催の改憲大会で、「基地に限定する必要はない。向こうの中枢を攻撃することも含めるべきだ。少しは日本独自の打撃力を持つべきだと確信している」と語ったという(『朝日新聞』4月3日デジタル版)。軍事基地ではなく、「向こうの中枢を攻撃」とは、プーチンがキエフ(キーウ)を狙うのと同じで、もはや自衛権では説明がつかない。
安倍は、首相としての責任を最後までまっとうしたことがない。その重さに耐えかねて、いつも途中で逃亡する政治家として知られる。二度目は、「政治的仮病」によって政権を投げ出した。「敵前逃亡」ならぬ「コロナ前逃亡」である。その一方で、プーチンと27回会談したことを自画自賛して、「個人的信頼関係を築いた」と悦に入っている(直言「「外交の安倍」は「国難」──プーチンとトランプの玩具」参照)。
冒頭左の写真は、2019年9月、ウラジオストックで開催された東方経済フォーラムでの安倍の挨拶である(内閣広報室の動画で19分30秒あたりから)。歯が浮くような言葉を並べて、プーチンを持ち上げていた。「ウラジーミル。君と僕は同じ未来を見ていた」「2人の力で、駆けて、駆け、駆け抜けようではありませんか」と。まさかその2年半後に、「国際秩序の破壊者」として侵略戦争を始めることになろうとは。安倍は、ウクライナについて、「ウラジーミル」と同じ未来を見ているのだろうか。
「核共有」には「維新」のサポート
最新の「松尾貴史のちょっと違和感」の「火事場泥棒的発言」(『毎日新聞』2022年4月10日付「日曜くらぶ」)は秀逸だった。このコーナーは一度紹介したことがあるが、私が書こうと思っていたことが端的に記されている。プーチンの似顔絵にロシア語を付けて、「シンゾーも同じ夢を見ているのか?」には笑わされた。
最後に、「核共有」については、野党ではない「癒党」の「日本維新の会」が政府に対して、「ロシアによるウクライナ侵略に関する緊急提言」(2022年3月3日)を出している。そのなかで、「核共有(ニュークリア・シェアリング)の議論の開始」を盛り込んでいるのが注目される。「維新」については、どんな問題で要注意である。
《付記》 Web日本評論に、拙稿「集団的自衛権の「無力」と危うさ:「プーチンの戦争」から見えるもの」(2022年4月6日)が掲載されているので参照されたい。
《2022年4月10日脱稿》
《文中敬称略》