沖縄が問い続けるもの──サンフランシスコ講和条約70年
2022年4月25日

沖縄は「変態的な状態」(岸信介)

週の木曜日は「4.28」の70年である。1970年前後に学生時代を過ごした人ならば、「ヨン・ニッ・パー」という響きを思い出すだろう。そして、来月15日は「5.15」の50年である。
  1952428日(月)、サンフランシスコ講和条約が発効した。その3条によって、沖縄は米国の施政権下に入った。しかし、それは国際法上、例のない異様な状態であった。3条は、沖縄を米国の信託統治制度の下におくとする米国の提案が国連で可決されるまでの間、米国が沖縄に対する行政、立法、司法の権力を行使する権利を有すると定めていた。だが、これほどふざけた条文はなかった。旧植民地制度の名残である信託統治制度は、主権平等の原則から国連加盟国となった地域には適用されない(国連憲章78条)。日本の国連加盟は1956年である。米国の「提案」がなされるまでの間、「暫定的に」施政権をもつという形で、沖縄を実質的に統治しようという見え透いた条文だった。米国は、国際法上認められない「暫定支配」を20年もの長きにわたって沖縄に対して行ってきたのである。これは米国による沖縄「併合」であった。

 この点をめぐり、1958730日の衆議院外務委員会で、40歳の若き中曽根康弘議員が、沖縄視察から戻ったばかりの、興奮さめやらぬ口調で、岸信介首相を追及している。岸首相の答弁は次のようなものだった

「沖縄の問題に関して中曽根委員がきわめて理解のある同情のお気持ち――これはおそらく9000日本民族も同様に考えるところであろうと思うのであります。従来この根本は、この変態的な状態を早くなくする意味において、施政権の返還というようなことをかねてからも強く要望しておるゆえんも、そこにあるのであります。しかしそのことはいろいろな関係上、国際関係その他も手伝いまして、なかなか一挙に実現することは困難である事情も御承知の通りであります。……」(ゴシック、引用者)

 サンフランシスコ講和条約で独立を達成したといわれる。だが、岸首相までもが「変態的な状態」という言葉を使うほど、異様かつ異常なものだった。なお、同条約2C項では、北方領土についての「すべての権利、権原及び請求権を放棄する」として、領土不拡大原則(カイロ宣言(1943年))に反してソ連(→ロシア)の支配が続いている。今週、そのサンフランシスコ講和条約の発効から70年になるわけである。

 

「主権回復」ではなく主権制限

 ちょうど10年前、直言「わが歴史グッズの話(32)――講和条約発効60年と沖縄本土復帰40年」をアップした。その翌年の428日、岸首相の孫の安倍晋三は、十分な説明もなく、唐突に「主権回復の日」式典を開催したのである。天皇(現・上皇)は参加をしぶった節がある。なぜなら、沖縄では、毎年428日を「屈辱の日」として、主権が奪われたことへの抗議の集会が開かれてきたからである。「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であ」る(憲法1条)天皇は、「47都道府県」をすべからく象徴する。そのうちの1つの県である沖縄県で抗議集会が開かれるような式典に出席することに、ためらいがないとは思えない。実際、当日の参加姿勢は冷やかだった(『朝日新聞』2013430日付・沖縄「屈辱」再び)。終わり際、安倍晋三は「天皇陛下万歳」とやって天皇・皇后を固まらせてしまった(『朝日新聞』430日付夕刊・官房長官、万歳三唱「論評せず」)。

 

踏みにじられ続ける沖縄

 沖縄本島最北端の国頭村の辺戸岬には、「祖国復帰闘争碑」が立っている。何度か行ったが、晴れた日には奄美大島などが見える。「平和のおとずれを信じた沖縄県民は、米軍占領に引き続き、1952428日サンフランシスコ『平和』条約第3条により、屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた。米国の支配は傲慢で県民の自由と人権を蹂躪した。祖国日本は海の彼方に遠く、沖縄県民の声は空しく消えた。」。碑文には怒りがこもっている。私は日本国憲法施行50年の時に、奄美と沖縄を隔てる北緯27度線について述べながら、サンフランシスコ講和条約3条の問題性について指摘した(拙稿「沖縄が問うこの国の平和」『朝日新聞』199751日付夕刊)。憲法施行63年の際にも、日本の中央政府の、米国に対する「迎合と忖度」について次のように指摘した。

 …日本の中央政府の政策選択の幅は著しく狭い。ジャンケンに例えれば、米国がパーを出し、政府がグーを出す。 そして政府は、交付金や補助金をちらつかせながらパーを出し、地方自治体はグーを出す。だが、沖縄の基地問題では、政府がパーを出したけれども、沖縄(当初は名護市民)はチョキを出した。ほかの国の中央政府なら、自国の自治体の言い分を代弁して、「同盟国」に対してもチョキを出す選択肢を捨てることはしない。「自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする」(憲法前文第3 段)ならば、当然のことである。ところが、この国の中央政府は、米国に対してチョキを出すことを初めから放棄し、沖縄にグーを出せと執拗に求めている。これでは問題は解決しない。…

  冒頭右の写真は、『沖縄タイムス』2013428日付特集面である。この碑の写真に、1952年当時の小学生の作文、「海に線が引かれた」が紹介されている。直言「「記念日」の思想――KM(空気が見えない)首相の危うさ」で引用した。10年近く経過したが、沖縄と本土を隔てていた「海に引かれた線」は、いまだに完全には消えていないのではないか。そうでなければ、中央政府の沖縄に対する数々の仕打ちは説明がつかない。例えば、厚木基地を拡張して、米軍機の活動を活発化させるという方針を国が提示したら、神奈川県民も神奈川県知事も反対して実現は困難だろう。だが、沖縄では県民や知事が激しく反対しても、国は辺野古新基地建設をやめることはしない。この違いは何なのか。

 

水島ゼミ最後の沖縄合宿

昨年1220日から23日まで、水島ゼミ(法学部34年「主専攻法学演習」)の12回目の沖縄取材合宿を実施した(冒頭左の写真は『沖縄タイムス』202224日付)。1998年の第1回から隔年で連続11実施してきた。台風とぶつかったこともあったし県知事選挙真っ只中ということもあった。しかし、2020年はコロナ禍で中止せざるを得なかった。このままいくと、24期生は一度も合宿を経験しないで卒業することになる。そこで、学部と相談して、感染対策を徹底して行うことを条件に許可された。

 ゼミ合宿といっても、ゼミ生がテーマ設定から取材対象まで自主的に決め5つの班(遺骨収集班、日米地位協定班、宮古島班、離島教育班(石垣島)、沖縄子どもの貧困班)に分かれて、集合・解散から取材活動もすべて少人数で行動する。私は取材には同行せず、那覇のホテルに陣取って、携帯(いまはスマホ)で報告を受け、指示を出す。文字通りの指導、「指」で「導」く、である。

 水島ゼミの沖縄滞在中、米軍のコロナ対策の問題が表面化した。キャンプ・ハンセンで集団感染も発生し、そのことは、昨年12月の直言「コロナ対策に「思いやり」はあり得ない――オミクロン株と日米地位協定」で指摘した。沖縄戦の問題については、昨年の8月に直言「8.15」、沖縄からの視点をアップした。学生たちの沖縄取材については、A4183頁の報告書にまとめられている。さまざまな取材関係者から直接話を聞いてまとめているため、ゼミ内での共有にとどめる約束がある。ここでは、25期ゼミ長の報告書「はしがき」と表紙を掲げておく。なお、水島ゼミについては、「#ゼミを語ろう」(『法学セミナー』2020年7月号2-3頁も参照のこと。

                              

はしがき
  そこに「ある」問題から、直ちに何かを「すべきだ」という言説は導かれない。逆に、規範的な問題を指摘したからと言って地に足のついた議論ができなければ、それは「現実性がない」と言われる。我々は常に、実在と規範とを往来し、悩むのである。本報告書は、そんなゼミ生一人一人の往来の記録である。

2021年度水島ゼミ夏合宿は、20211220日から23日にかけて行われた。新型コロナウィルス感染症の拡大を受け、冬に延期しての実施である。2020年度は合宿を中止していた。今回は、子どもの貧困班、離島教育班、宮古島班、遺骨収集班、日米地位協定班、の5班で活動を行ったが、現地での全体会は断念。1月にゼミの時間を使って、合宿報告会を開いた。合宿中はコロナ感染者を一人も出さないよう、マスクの着用、日々の健康チェック、換気の徹底、シングルルームでの宿泊、さらには取材時のフェイスシールド着用まで行うなど、感染対策を徹底した。その結果、一人の感染者も出さずに合宿を終えることができたが、これはゼミ指導教授水島朝穂先生、早稲田大学法学部関係者の皆さん、そしてゼミ生一人一人の協力があったからである。

沖縄を考える、沖縄と考えるにあたり、24期、25期ゼミ生は悩みに悩んだ。合宿延期に伴い、秋学期に入念な事前調査と事前発表を行ったが、いずれの班も、全国スタンダード中心の議論に疑問を感じ、その「問」とどう向き合うべきか悩んでいたようである。自分達の目線を押し付けてはいないか、沖縄にとって何が重要なのか、自分には何ができるのか。そんな疑問を解決しきれないまま、むしろだからこそ、実際に行って話を聞き、互いに議論を重ねてきた。そういう意味で、あの4日間は単なる取材の連続なのではなく、紛れもない「合宿」であった。

目の前の問題に直感的で「常識的」な答えを出すのではなく、あらゆる観点から分析し尽くし、話を聞く。しかしそれでも答えはわからない。そこに「ある」問題に直感的な答えを出しても、当事者にとって本当に意味のある答えとは限らない。だから、考え続ける必要があるのである。従って、この合宿を単なる大学時代の思い出として終わらせてはならない。平和を念願する市民であるなら、コロナ禍であっても、崇高な理想と現実との狭間で悩むことを絶ってはならない。我々の4日間は、人と人とを切り離すコロナ禍における、新たなつながりの一つの形を提示したと言ってもいい。本報告書が、10年、20年後読み返したとき、長き往来の旅路の出発点となっていることを願う。

これ以上、「法的真空」(最上敏樹)を拡大させないような憲法実践を。

2022228

小崎瑶太(25期ゼミ長)

   最後に、古関彰一・豊下楢彦『沖縄 憲法なき戦後――講和条約三条と日本の安全保障』(みすず書房、2018を、沖縄をめぐる節目となる日々(4.28と5.15)が続き、憲法記念日を含むこの「ゴールデンウィーク」中に熟読されることをおすすめしたい。

【文中一部敬称略】

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