「ウクライナ戦争」の諸相
ウクライナにおける戦争が3カ月になろうとしている。これをいかに止めるか。これが喫緊の課題である。だが、米国のバイデン政権が先頭に立って始めたのが、ウクライナへの武器供与とGIS利用の砲撃支援システム等のハイテク技術提供による、ロシアとの実質的な代理戦争だった。しかも、旧型兵器の在庫一掃、複数の国が関わった兵器のいわばリユースとリサイクルが行われ、最終的に米国を中心とする兵器産業への新規発注(新規開発へ)につながっているという「不都合な真実」がある。戦場はウクライナに限定され、侵攻したロシア軍と戦うのはウクライナ軍の兵士と市民である。戦場となった地域の市民に多大の犠牲者が出ている。プーチンのおごりと誤算で、ロシア軍の指揮も士気もどん底まで落ち込み、ロシアの若者が少なくとも15000人以上命を落としているとみられている。軍関係者からは「長期戦」がいわれるが、政治の力を駆使して一刻も早い停戦が求められる。
ロシア語は「敵性言語」か
『神戸新聞』4月14日付に、神戸市外国語大学ロシア学科の教員によるメッセージが紹介されている(『東京新聞』5月19日付夕刊(共同通信の配信?)では「声明」)。きっかけは、ロシア語を学ぶ学生が、「敵性言語を学んでいるのか」といわれ、ロシア語学習を「悪いことかもしれない」と考えるようになったことであるという。そうした動きを懸念したロシア学科の教員6人が連名で、「ロシア学科で学ぶ在校生の皆さん、卒業生そして新入生の皆さん」を公表した。
「…ロシアの文学文化芸術を心の糧として、ロシアをはじめ世界各国の友人を得て、日々の暮らしを豊かにされてきた人も大勢おられるでしょう。だからこそ、昨今のロシア政府によるウクライナ侵攻を他人事としてではなく、自分とロシアとの関係の断絶と感じ、国家権力に対する失望と、ウクライナで進行中の惨事にいたたまれぬ思いをし、身を切られるような辛い思いをしている方々が多くおられることと思います。
事実、ウクライナで進行中の悲惨な事態は世界中の人々に大きな怒りと深い悲しみをもたらし、人々の憤りと焦燥感は日増しに強まっています。世界がロシア対ウクライナ、親ロシア対反ロシア、さらには敵か味方か、黒か白かといった二項対立で捉えられるかのような、安易な単純化が見られます。さらに、「ロシア」に関連するすべてが、一方的に否定されたり、非難の的にされたりするといった極端かつ理不尽な言動も日本社会に見受けられます。しかし、ロシアとウクライナを含むスラヴ社会について学んだ私たちは、事態がそのような単純なものではないことを知っています。同一家族内であっても国籍がロシアとウクライナに分かれている人々もあれば、ウクライナに住むロシア人、ロシアに住むウクライナ人が大勢いることも周知の事実です。こうした現実を見れば、自己のアイデンティティ・家族・友人を両国に持つ人々から発せられる「戦争反対」の声がどれだけ切実なものであるか、「二項対立」による分断の思考では到底理解されないでしょう。あらゆる人が情報発信者になりうる今日、世界で様々な角度から語られる経験と言説を自らの良識と教養に照らして注意深く観察し、冷静に判断して、理性的に行動することの大切さを改めて痛感させられます。…」
ロシアとウクライナを含むスラヴ社会に関わる人々が、ロシアとウクライナ、敵と味方という「二項対立」による分断思考に陥ることを戒める視点は重要だと思う。そして、「声明」はロシアについて学ぶ学生たちに次のように呼びかける。
「…戦後長い時間をかけて培われてきた民主主義の価値観そのものが、危機に瀕している今だからこそ、隣国ロシアの言語や文化・社会を学び、相互理解・対話と協働の道を世界の人々とともに模索していくことがこれまで以上に求められているのです。言葉が武器となって憎しみと分断を増長させようとする流れの中でこそ、私たちは人々を結ぶ言葉の力を信じ、多様な背景と考え方を持つ人々との対話を継続し、「国家」を超えた人類普遍の価値観を共に作り上げていく努力を諦めてはなりません。」と続けている。そして、在校生や新入生に対して、「たとえ今回のような紛争や悲劇が起こったとしても、千年以上の歴史と文化を育んできたロシア語を学習することを無益なこと、恥ずべきことと思わないでください。そして国内外にロシアに対する不公正な評価や悪意にもとづく風評被害が起こったとしても、毅然とした態度で前を向いて学習を続けてください。…」
神外大の教員たちの研究と教育への熱い思いを感ずる。ロシアの文化・芸術・学問に情熱を注いできた人たちが、「敵性言語を学び、操る者」として排除され、差別されることがあってはならない。かつて日本でも、「鬼畜米英」の言葉として英語が排斥されたが、「鬼畜ロシア」の言語というような排除の論理が跋扈してくるのか。世界中のロシア人、ロシアの文化や芸術、学問に関わる人々がいま、大変苦しい立場に置かれている。2020年に憲法を改正して権力基盤をかため、国民への統制を強化するなか開始された「プーチンの戦争」の罪深さを思う。
NHKスペシャル『ロシア 小さき人々の記録』
いまから22年前、NHKスペシャル『ロシア 小さき人々の記録』(2000年11月4日放送) を見て、直言「「小さき人々の記録」をみる」をアップした。ベラルーシの作家スベトラーナ・アレクシエービッチの仕事と取材活動を追いながら、「巨大な国家のなかで懸命に生きる「個人」に光をあてた」もので、NHKスペシャルの傑作を輩出している鎌倉英也ディレクター(後にエクゼクティヴ・ディレクター)の作品である。2000年度放送批評懇談会ギャラクシー賞(奨励賞)、2001年度イタリア賞ドキュメンタリー、ポルトガル ファマリカン国際映像賞、国際エミー賞 ドキュメンタリーなどを受賞している。
アレクシエービッチは7年前にノーベル文学賞を受賞している。その時に書いた直言「「賞」と「遺産」の季節に――「小さき人々」のこと」でも、このNHKスペシャルについて触れている。今回、研究室に保存してあったハイビジョンスペシャル版(120分)を7年ぶりくらいにじっくり鑑賞した(冒頭左の写真はそのカバー)。先週の専門ゼミでも、学生たちに見せて議論した。彼らの多くが生まれた頃に放送された作品である。だが、どのエピソードもまったく古くなっていないどころか、すべてが「いまの問題」として響いてくる。
スターリンの「粛清」で父親を銃殺された娘のインタビューから始まり、独ソ戦で生き残ったのに「人民の敵」にされ、その後「英雄」になって名誉回復したが、ソ連邦崩壊ですべてを失い自殺した男の話、アフガニスタン戦争から帰還して、連続殺人犯となった兵士とその母親の悲劇、チェルノブイリ原発事故で現場に真先に飛び込んだ消防士の妻とその息子の話など、どのエピソード一つとっても重く、いまに問題を引きずるテーマばかりである。作品の終盤は、息子をチェチェン紛争に兵士として送るのを阻止する母親たちの活動と、恋人を脱走させた若い女性の話である。
ナレーション:「21世紀を目前にして、国家はまた戦争を始めた。チェチェン戦争[第二次チェチェン紛争(1999年~2009年)]は泥沼化している。チェチェンに対して強硬姿勢をとる現政権への支持率は高く、事態の先は見えない。」
冒頭右の写真は、サンクトペテルブルク「兵士の母の会」の集会の映像である。ナレーション:「国家の徴兵に従わず、戦場に子どもを送ることを拒否する人々が街頭にあらわれはじめた。ソビエト時代には考えられない光景である。アフガン戦争[1979~1989年]の時には徴兵拒否はなかった。かつて国家の政策に反対することなど許されなかった人々が、自らの意志で集まってくる。」
アレクシエービッチの語り:「最近、人々の語り口に変化があらわれています。以前人々は、『我々は勝利した』『我々は建設した』と語ったものです。あたかも国家を代弁するかのように。いまは最初に来るのは、『わたし』という言葉です。『わたしの家』『わたしの生き方』…。ひとりだちする個人があらわれはじめているのです」と。
「我々」から「わたし」へ。「ひとりだちする個人」という言葉に改めて感銘を受けた。作品では、一人の若い女性が顔を出してインタビューに応じている。化粧品店で働くごく普通の女性である。サンクトペテルブルク郊外にあるカメンカ駐屯地。新兵の教育訓練施設だが、ここで上官による暴行事件が多発している。女性は面会をよそおって恋人を連れ出し、草原を一気に駆け、追跡を逃れて「兵士の母の会」に保護を求めた。
女性の言葉:「私たちは国家にいろいろな仕打ちを受けてきました。それに抵抗して何が悪いのですか」。脱走は自分一人でやったのかと聞くアレクシエービッチに対して女性はいう。「チェチェンに行って戦うことに何の意味があるんでしょうか。政府には必要なのかもしれませんが、ロシアという国には全く意味がありません。私はそう確信しています」。
アレクシエービッチの語り:「これは、かつて誰も口にしなかった言葉でした。戦争や兵隊の歴史を超える新しい人々が生まれてきたのかもしれません。私は新しい本を書こうと思っています。それは個人としての幸せ、個人としての生を取り戻そうとする人々の記録です」。
アレクシエービッチは20年以上前の時点でロシアという国に住む人々についてこう問いかける。「私たちは一体何ものなのでしょう。私たちは戦争をするか、戦争の準備をしていました。国家は私たちのすべてでした。私たちは国家が行う偉大なこと、おそろしいこと、すべての共犯者にされてきました。こんなにも多く被害者の声を聞いたのに、加害者はいまだに姿を隠しています。国家がつくる神話に打ち勝つためには、まだまだ歩みが必要です。この神話が最も恐れるのは、生きている人間の声です」。
なお、制作者の鎌倉英也氏には、著書『アレクシエーヴィチとの対話――「小さき人々」の声を求めて』(岩波書店、2021年)があるので参照されたい。
ウクライナ戦争と「兵士の母の会」
エリツィン政権の頃は、街頭におけるプラカードを掲げる行為には、警察の規制はあるものの、質問をしたり、パトカーから監視を続けるくらいで、現在のプーチン政権のように、プラカードをもぎとったり、すぐに逮捕ということはなかった。ロシアにまだ表現の自由が残っていた時代の話である。
ウクライナではたくさんのロシア兵が死んでいる。その一人の母親の悲しみを報じた写真がこれである(Die Welt紙2022年3月28日)。同じような母親がロシア中で日々生まれている。作品に出てきた「兵士の母の会」は、「ウクライナ戦争」に対してどのような活動をしているのか。テレビ朝日が4月3日19時に「兵士の母の会の告発」として伝えている。
会長はいう。「以前は「母の会」が捕虜になった息子たちを連れ戻したこともある。ロシア軍も協力的だった。しかし今は何もかも違っている。この活動を30年やっていて、初めて恐怖を感じている。プーチン大統領が核の使用さえちらつかせて脅しをかけているからだ」。兵士の死者数も不明で、ウクライナ側が提供する死傷者のリストしかない。IDナンバーやデータは正確だという。
「なぜ、兵士の両親らは声を上げないのか」という記者の質問に対して会長は、「ロシア国内でウクライナの戦場の実態が伝えられていないからだ。もし戦場の動画がアップされ、テレビでも流れるようになればはじめて気づくのだろう。…わたしは兵士の親たちが抗議行動を起こしたりすることには期待していない。ロシアでは社会的意識がたいへん弱いのだ」と。最後に、「特別軍事作戦」の行方について聞かれた会長はこういう。「わたしは停戦協議のロシア側、ウクライナ側双方に失望している。双方とも国際法や戦争法[国際人道法]の知識がない。共感力もない。わたしたちは国際社会の支援を望んでいる」「「母の会」が戦争を止めることはできない。一歩一歩できることをやるしかない。わたしたちは本能で活動している」と。
アフガン戦争でのソ連兵の死者は1万5000人、チェチェン紛争では7000人以上のロシア兵が死んだとされている。ウクライナ侵攻では、2万人以上のロシア軍将兵(将官も7人!)が死亡しているといわれる。だが、ロシア政府は1351人(3月25日段階)としか発表していない。おそらく、第二次世界大戦後では最大の死者数になることは確実である。アフガン戦争もチェチェン紛争も10年間の数字である。「ウクライナ戦争」ではわずか3カ月である。
この戦争をいかにして止めるか。決定打はない。ロシア国内で戦争反対の世論が盛り上がることが重要だが、プーチンの強権と懐柔がいまのところ効奏しているように見える。研究者や弁護士の反対声明も、後が続かなかったようである。しかし、ミンスク合意に導いたOSCE(欧州安全保障協力機構)の枠組みが機能することが重要だろう。ロシアもメンバー国である。存在意義を証明するために「敵を求めて3000里」の世界に浸っているNATOという軍事同盟機構がさらに拡大されることは、戦争を止めることにつながらないと私は考える。NATOの東方展開がこの戦争の根底にあるとすれば、「北方展開」(特にフィンランド)は、欧州の安全保障をむしろ不安定にしかねない。非常にねじれた展開だが、トルコのエルドアン大統領が寸止めの役割を果たしているというのは、これまた欧州の「不都合な真実」だろう。これについては回を改めて書くことにしよう。