国葬にふさわしい人物とは誰か――ゲンシャー元独外相の国葬
2022年7月25日

ドイツ元外相の「国葬」

6年前の4月、在外研究中のドイツ・ボンで、外相としてドイツ統一に功績があったとして衆目の一致する人物の国家的追悼儀式が行われた。その時の街の空気を含めて、直言「「政治家の資質」を問う――『職業としての政治』再読の後半で書いた。今回、その時撮影した写真とともに、当該部分を引用する。

ハンス・ディートリヒ・ゲンシャー元外相は…ドイツ統一時の外相であり、1974年から1994年までの間に、シュミット政権(社会民主党〔SPD)とコール政権(キリスト教民主・社会同盟〔CDU/CSU〕)の異種政党との連立政権で外相をつとめたドイツ外交・政治史上、歴史的一回性の人物である。引退後も、「核兵器のない世界のために」という訴えを有力紙で共同提案している(『毎日新聞』200986日付夕刊)。

417日昼12時から、ボンの旧連邦議会議事堂で、ゲンシャー元外相の国葬が行われた。散歩がてら近くまでいこうと思ったが、警備態勢が厳重で接近不可能と考え、家でテレビの中継をみた。拙宅のバルコニーからみえる近隣の小学校には半旗が掲げられていた。12時から第2放送(ZDF)で中継をすべてみたが、その前の週に、ムッフェンドルフという、歩いて30分のところの教会コンサートで聴いたカンマーオーケストラ(Klassische Philharmonie Bonn)と指揮者(Heribert Beisselが議場上段でヘンデルやモーツァルト、エルガーの曲を演奏した。ヨアヒム・ガウク大統領、クラウス・キンケル元外相、ジェームズ・ベーカー元米国務長官、旧東の市民運動の元代表(神学者)が挨拶した。1977年のソマリア・モガジシオ空港事件の時の外務大臣(これは大統領の挨拶のなかで言及)、1989年の「壁」崩壊時とドイツ統一時の外務大臣(東の市民運動代表は、市民がデモで「ゲンシャー、ゲンシャー」と叫んだことを紹介)など、戦後ドイツ外交・政治史の各場面で重要な役割を果たした政治家だった。

ゲンシャーは私の住むところから車で20分のWachtbergの自宅で亡くなった。ベルリンではなく、ボンの元連邦議会議事堂が国葬の場に選ばれたのも、「ボン民主制」を支えた政治家の故である。彼がまた、自由民主党(FDP)というリベラルな小政党に所属していたことも、二大政党の隙間を埋める役回りを果たせた一因だろう。…

 

「国葬」と「追悼国家儀式」

上記の文章では「国葬」としているが、厳密にいえば、ドイツでは、国葬(Staatsbegräbnis)と追悼国家儀式(Trauerstaatsakt)とが区別されている。「国家儀式の二つの稀な形式」である。196662日の「国葬および国家儀式に関する大統領令が法的根拠である。第2条「国葬に加えて、または国葬の代わりに、故人を顕彰するために、国家行事を発令し得る」。「国葬」は国旗をかけた柩を6ないし8人の兵士が担いで行進する。教会での葬儀、儀仗隊によるセレモニー、埋葬、葬儀レセプションといった内容になる。国の追悼儀式の方は、無宗教で、音楽をバックに関係者のスピーチが続き、国歌斉唱で終わる。費用については、原則として国費(連邦)の負担である。

最初の国葬は195411月、元連邦議会議長を務めた政治家に対して行われた。1967年にはコンラート・アデアウアー元首相が国葬の対象となったが、これは日本の吉田茂とも対比されるので理解できるとしても、60-70年代は連邦議会の元副議長や元大臣、政党の党首の国葬まで行われた。1977年4月には、西ドイツ赤軍(RAF)に襲撃され射殺されたジークフリート・ブーバック連邦検事総長と警護SP、公用車の運転手の3人の国葬が行われた。19975月に連邦議会議長をやった政治家に対して行われたのを最後に、28件、計30人で国葬のリストは止まっている(ここから)

 他方、追悼国家儀式は、196312月のテオドール・ホイス元大統領が最初で、20181月の元連邦議会議長まで43件で、国葬の対象になったブーバック連邦検事総長らもこちらのリストに出てくる。リストには、200412月のスマトラ沖地震による大津波の犠牲となったドイツ人旅行者も含まれている。立法、司法、行政のトップをやったからといって、自動的に国葬や国の追悼儀式の対象となるわけではない。国葬や追悼儀式についての権限は、連邦大統領である。国葬という形で葬儀を国が行うというよりも、音楽が流れるなかで関係者がスピーチをして故人を偲び、国歌斉唱で終わる国の追悼儀式の形が主流になってきたようである。私が6年前にボンの自宅で、テレビ中継で「参加」したのはゲンシャー元外相の追悼国家儀式だったわけである。

なお、ゲンシャーに対して弔意を表すべく、連邦政府は、全国の連邦機関の建物で半旗(Trauerbeflaggung)を掲げるようにメールのみの通達を出している(文書はここから読める)。私の住宅のバルコニーから見えるベートーヴェン小学校はボン市立なので、連邦機関ではない。だが、ボン市として半旗を掲げる措置をとったものと推測される。当日は日曜日で、旗竿は道路から見えにくい奥にあるため、この半旗に気づいて撮影したのは私だけかもしれない。子どもたちが遊びにくることもなく、当日は静かだったと記憶している。新聞を買いにいく店のご主人も、私が「今日はゲンシャーの国葬ですね」というと、「立派な人だった」と、いつもより言葉少なだった。ボンは50年間首都だったので、高齢の元政治家も近所に住んでいて、ゲンシャーについても市民は身近に感じているようだった。

   政治家については、在任中の仕事や辞め方などを含めて、評価が分かれるのが常である。すべて立派な人物などまずいない。これは民主主義国家の政治家の宿命だろう。ゲンシャー元外相とコンビでドイツ統一に貢献したヘルムート・コール元首相は、国葬にならなかった。多額の匿名献金についての政治資金収支報告書の不記載や隠し口座などの疑惑のため、名誉党首も辞任して、晩年は惨めだった。それでも、自宅のあるドイツ南西部のシュパイヤー(Speyer)でささやかながら、国の追悼儀式が行われた。リストに残っている

 

55年前は半日休、黙祷、歌舞音曲の自粛

  日本ではどうか。戦後の日本で国葬となったのは、吉田茂だけである。19671020日午前、吉田は89歳で死去した。当日の『毎日新聞』夕刊は1面で死去を伝えつつ、「戦後初の国葬 23日に閣議決定」と早々と見出しを打った

国葬が1031日に日本武道館で行われることが決まると、それに向けてさまざまな動きが始まった。「国葬当日はかけごと中止」の見出しで、当日予定されている競輪、競馬、競艇など30あまりが中止されることになった(同紙1024日付社会面)。また、事務次官会議で、国家公務員法101条の「職務に専念する義務」を免除して、公務員は当日午後から「休日」にすること、民間に対して「半日休」を求め、国公立の大学、高校、小中学校も休校とすることが確認された(同紙24日付2面)。

25日の閣議では、次のことが決まった。①各省庁で弔旗を掲げる、②葬儀が始まる午後2時に一定時間黙祷する、③各省庁の責任者は当日の午後、公務に支障がない範囲内で職員が勤務しないことを認める(半日休)、④当日、公の行事、儀式その他の歌舞音曲を伴う行事は差控える、⑤各公署、学校、会社その他一般も同様の方法で哀悼の意を表するように努力を要請する(同紙1025日付1面)。メディアは極端だった。すべての民放キー局は、娯楽番組の自粛を一斉に決める。かわりにクラシック音楽や吉田の追悼番組を流す。コマーシャルについても、弔文に提供者の名前をそえるだけで画面は自粛。笑いをさそうものは一切やめる。歌謡曲、落語、漫才はだめ、「奥様は魔女」「丹下左膳」「歌のグランプリ」などがおろされ、ベートーヴェンの「荘厳ミサ」などが流されることになった。映画監督の羽仁進のコメントには、「“銭形平次を読んでいる”といった吉田さんは娯楽精神あふれた人だった。吉田さんの国葬に娯楽番組やCMをなくすというのは現象的にみてもおかしいですよ」とある。

 

安倍晋三の国葬はジョーク

  私は3回にわたって「安倍晋三氏は議員辞職すべし(その3――13年前の「直言」からを出してきた。引退していればと悔やまれる。 いかなる理由があるにせよ、人の命を奪うことは許されない。しかし、公人としての安倍晋三の責任を問い続けることは、その死によって「リセット」されてはならないだろう(直言「「7.8事件」は日本の「9.11」か――「ショック・ドクトリン」によるトータル・リセット?」参照)。

  岸田文雄内閣は722日、安倍晋三の国葬を、927日に日本武道館で行うと閣議決定した。名称は「故安倍晋三国葬儀」で、経費の全額を国費でまかなうという。松野博一官房長官は、「安倍氏が憲政史上最長の約8年8カ月間首相の重責を担った実績や、国内外から幅広い哀悼の意が寄せられていること」などを挙げた。歴代首相経験者の葬儀は、内閣と自民党の「合同葬」の形が取られてきた。78カ月の佐藤栄作も、5年近い中曽根康弘も国葬ではなかった。そもそも「憲政史上最長の8年8カ月」は、総裁任期を2期までとする自民党党則80を、自分のために延長して得られた結果である。「総理・総裁」という、政権交代が普通にある先進国では翻訳不能な言葉がまかり通る日本である。自民党総裁の任期延長は、そのまま長期にわたり首相を務めることを可能にした。それは、自作自演の「最長」ではないか(直言「在任期間のみ「日本一の宰相」――「立憲主義からの逃亡」」)。長期政権は、国葬を行う理由にならない。外国からの多数の弔意は、多額の税金を海外にばらまいてきた「お返し」の面もあろう。外交辞令をまともに受けるのはウブすぎる。

  松野官房長官は会見で「国葬を含む国の儀式の執行は行政権に属することが法律上明確になっている」と述べた。内閣府設置法4333号は、「国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)」を所掌事務として挙げている。これは組織法としての同法における分掌の規定である。これを根拠に国葬ができるのならば、安倍よりも適任者はいたはずである。例えば、佐藤栄作は総理府設置法の当該規定を根拠に国葬を検討したが、根拠が弱いとして見送っている。安倍政権は、従来の政府解釈をおおらかに飛び越える傾向があるので、国葬についても強引に解釈を広げたものといえる。ただ、その場合であっても、国会における各会派との協議が必要だったのではないか。多額の国費を支出することもあり、あまりにも国会軽視といわざるを得ない。

 官房長官は、55年前に娯楽番組の放送自粛など、全国的に追悼ムードが演出されたことについては、「儀式として実施されるものであり、国民一人一人に政治的評価や喪に服することを求めるものではない」「国葬の当日を休日とすることは検討していない」と明言したという((『朝日新聞』723日付)。55年前の吉田国葬の時以上に、今日は、メディアにも社会にも「忖度と迎合」の空気が定着してしまっている。政府がそういっても、どこの世界でも「世間の目」を過度に意識する傾向が見られるから社会的強制はより強く作用するだろう。

 岸田首相は、国葬を実施することで「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」としているが、これはさらにジョークである。安倍の劇的な死にざまが国葬の根拠に使えるのなら、病気で死去すれば国葬にはならなかったということだろうか。

 冒頭右の写真は、『南ドイツ新聞』723/24日付政治面トップで、見出しは「宗教の力――安倍晋三元首相は国家神道の熱烈な代表者であった。そして、統一教会との密接な連携をもっていた。このことは、日本の政治がいかに機能しているかについて多くを語っている」である。安倍を殺害した実行犯の家庭は、統一教会によって崩壊させられていた。そのことが毎日のようにメディアを通じて広まりつつある。

  統一教会と政治をめぐる「不都合な真実」がさらに明らかになれば、8月のお盆前あたりまでに、安倍国葬の雰囲気はあるいは徐々に、あるいは急速にしぼんでいくだろう。多額の税金を支出して実施される「国葬」を行うのにどんな人物がふさわしいか。この根本的な問いかけに答えることは不可避である。国会における十分な説明なしの国葬実施は、組織法たる内閣府設置法4333号の想定する範囲を超えた運用の疑いがある

  安倍政権誕生以来のこの10年、国会の軽視・無視は定着してしまった(一部野党の協力も得て)。憲法違反の集団的自衛権行使から「安倍昭恵夫人は私人」に至るまで閣議決定でやってきて、とうの本人の国葬まで閣議決定オンリーということになった。勲章の私物化をやってきた安倍晋三に「4人目の大勲位」もさることながら、「2人目の国葬」まで性急に決めてしまう。これでは国葬の私物化ではないのか。ひょっとして、岸田首相のこの「スピード感」あふれる一連の「安倍死後対応」は、清和会と「保守層」の先手を封じて、統一教会と安倍晋三をめぐる「不都合な真実」がさらに浮き彫りになり、メディアや国民のなかから国葬実施への疑問が広まって、「これでは実施は困難」という「苦渋の決断」をして中止に持ち込む高等戦術ではないのか、というのはあまりにうがった見方である、と現段階では書いておこう。

【文中敬称略】

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