「「無知の無知」の突破力」考――第2次安倍政権発足10年を前に(その2)
2022年10月31日

SNSと距離をとる

SNSとの関わりを最小限にとどめている。2015年からサイト管理人の更新案内を週1度だけ行い、フォローやリツイートはしていない。当然、「フォロワー」というものも少ない。指先一つで瞬時に自分の見解を発信できるツイッター機能は使わず、毎週5000字前後の原稿を執筆してhtml文書の形に整え、「今週の直言」として更新する営みを、259カ月 続けている(直言「雑談(123)「140字の世界」との距離」参照)。今の時代に合わせて、平易で容易なツイッターにすれば、私の言論発信も「140字」の連射という簡易で安易なものになることを危惧するからである。指が滑って、いらぬトラブルに巻き込まれることもあるだろう。16年前に「ブログ」が普及し始めたときにもそれに乗らず(直言「雑談(70)ブログをやらないわけ)参照)、手間のかかるホームページの週1更新にこだわり続けてきた。「ブログをやらないわけ」の上記の4つの理由は、私がSNSと距離をとることにも当てはまる。

  私は、ツイッターを経由することなく直接この「直言」を読んでくださる読者(12万人前後)を大事にしている。「直言ニュース」というメルマガを週1回、16年以上、プロバイダーの「メール送信制限」をかいくぐって続けている。SNSのこの時代に、手工業的でアナログなことをやっているわけである。2015年から当時の管理人のアドバイスで始めた「週1回のツイート」(ホームページの更新案内のみ)に対して、ごくたまにものすごい数のリツイートがなされることがある。最近では、直言「ユルゲン・ハーバーマス「戦争と憤激」)の更新案内へのツイートに、通常の20倍を超えるリツイートと「いいね」がきたのには驚いた。でも、「ツイートアナリティクス」でチェックしてみたところ、「リンクのクリック数」はいたって少ない。「140字」だけ見て瞬時にリツイートし、「直言」の本文にたどり着く人は多くはないようだ。

   そこで思い出したのだが、14年間レギュラーをやったNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」が2011年春の番組改編で終了となったときNHKの経営側が終了の理由にしたのが「接触率」だった。地味な番組だったが、長年のファンや常連もいる。確かに高齢者が多い。若者が訪れるのには早朝の時間帯だし、紙の新聞を読んでラジオでコメントする番組では、確かに若者の関心は高くはないだろう。だが、世の中、アナログでスローな生き方をする人々も一定数確実にいるわけで、瞬間的価値に重きを置きすぎるのはいかがなものだろうか。私がSNSと距離をとるもう一つの理由がここにある。


「無知の突破力」?――困ったリツイートの拡散

  ところで、1010日、下記のツイートがたくさんのリツイートを生み出した。「乱発される閣議決定を、憲法学者の水島朝穂早稲田大学法学学術院教授は、「安倍晋三という『無知の突破力』をもつ首相が長期在職していることによって引き起こされた異常事態」と厳しく批判。実にしっくりくる言葉」10月中旬過ぎまで、これをそのままリツイートするのがけっこうな人数になった。そこに貼られたリンク先は、202021日の「news post セブン」であった(タイトルは、「安倍首相が乱発する閣議決定、無知の突破力がもたらす異常事態)。手帳を確認すると、2020121日に『週刊ポスト』誌の記者に電話取材を受けていたことがわかった。アップされた「news post セブン」を見ると、上記のように「無知の突破力」となっていた。私は、安倍晋三の「無知の無知の突破力」について書いてきたが、「無知の突破力」という言葉を使ったことはない。間違った言葉がアップされてから29カ月以上も経過して、「実にしっくりくる言葉」と誰かにツイートされ、それがたくさんリツイートされて広まっているのは「実にしっくりしない」。

「無知の突破力」というのでは、単に安倍晋三は「馬鹿の力」があるということだろう。私はそのようなことは決していっていない。適菜収「それでも馬鹿と戦え」という『日刊ゲンダイ』の連載は私も読んでいるが、私がいいたかったことは安倍が「真正のバカ」 ということではない。「無知の無知」の勢いとパワーが、他の政治家よりも格段に強いことに着目した指摘である。

安倍晋三の「「無知の無知」の突破力」とは

   「無知の無知」こそ、安倍晋三の強みと凄味と危うさの源泉である、と私は考えている。16年前に初めてこの言葉を使った(直言「雑談(494つの無知)。そこでは、「無知の無知」について、一般的にこう書いている。「…おのれの無知に気づかないという悲しくも情けない状態をいう。無知であることを知った瞬間、知への発展が始まるが、「無知の無知」の状態が続く限り、知の世界では、それは現状維持か、あるいは知的退歩につながる。」と。

   安倍晋三的「無知の無知」のパワーの強度と粘度について最初に書いたのは、直言「「無知の無知」の突破力――安倍流ダブルスピークである。ここでいう「突破力」とは、『突破(もん)』という、「思い込んだら、一途で、がむしゃらな、無茶者」のことを指す、特定の界隈の言葉を念頭に置いている。安倍の場合、従来の首相には見られなかった言葉づかいやパフォーマンスを特徴としていた。そうした人物がトップに座った結果、誰もそれをたしなめたり、改めさせたりすることができず、逆に、「アベノコトバの方に現実を合わせることになった。その悲劇的事例のひとつが、2017217日の衆議院予算委員会における、森友学園問題に関連した答弁である。「私も妻も一切、この認可にもあるいは国有地の払い下げにも関係ないわけでありまして(中略)私や妻が関係していたということになれば、まさに私は、それはもう間違いなく総理大臣も国会議員もやめるということははっきりと申し上げておきたい。」と。自らの進退について、ここまであっけらかんと国会答弁で語った例は、日本政治史上かつてなかったのではないか。自らが確実に安全圏にいて、首相や国会議員を辞めるような事態になることは絶対にないという強烈な自信と確信があって、議員辞職まで口に出してしまったのだろう。その後、森友学園への国有地払い下げ問題に昭恵夫人が深く関わっていた事実が次々に明らかとなり、そのことに関連する財務省の公文書が隠蔽・改ざんされるという重大問題に発展していったことは周知の通りである。野党の追及に腹をたて、異様なまでに居直った強がりから出た言葉は、この改ざんに直接関わることになった財務省近畿財務局職員の赤木俊夫さんの命を奪う悲劇へとつながった。「1度口から出しちまった言葉は、もう元には戻せねーんだぞ」というのは、孫も大好きな名探偵コナンの言葉だが、安倍にとっては、自分が安易に発した言葉の重大な結果についての自覚がまったくないのが驚きだった。この恐るべき鈍感さもまた「無知の無知」のパワーといえるかもしれない。


「最高責任者は私だ」「立法府の長」…

  安倍の場合、国民から選ばれた国会議員に向かって、首相の座席から野次を飛ばすという信じられない行為をたびたび行ったことで議会史に残った。首相は、国会(衆参両院)から出席を求められれば、答弁・説明する義務がある(憲法63条)。委員会室の首相の座席はそのためにあり、まともに答弁せず、説明をさぼって、議員に向かって野次を飛ばすなどということは、議院内閣制の本質からいって許されないことなのである(直言「議会におけるヤジ――日本とドイツの比較参照)。この「首相の野次」というのも、自らの地位と職責に対する無知を自覚しない、「無知の無知の突破力」のなせる技といえよう。

   権力分立に対する「無知の無知」は、議員の質問に対して、「最高責任者は私だ」といって胸をはったところにも見られる。すでに一度紹介したが、これについて水林章氏はこう指摘した。「自分を法(憲法)よりも上位に置く、確信犯的、あるいは無知・無教養のゆえの「反近代性」を暴露している。いずれにせよ、この国は、こういう人物を「政治家」として許容するばかりか、首相にしてしまうほどに近代的成熟を欠いていると言わざるを得ない」(『思想としての〈共和国〉―日本のデモクラシーのために〔増補新版〕』(みすず書房、2016年)14頁注3)と。

 権力分立への「無知の無知」は、「私は立法府の長です」と国会答弁で、少なくとも4述べていることに示される。2018112日の衆議院予算委員会の議事録には、「発言する者あり」と、直後の委員会の騒然とした雰囲気が記録されている。直言「「私は立法府の長」――権力分立なき日本の「悪夢」」ではこう指摘している。

「…安倍首相は「無知の無知の突破力」を強みとする。自分が無知であることを自覚していないからこそ、顔色一つ変えず、ときに笑顔さえ浮かべて相手を罵ることが可能となる。少しでも知識があれば、心の内と外に出る言葉との間の矛盾が生まれ、口調や表情にそれが反映するものである。安倍首相の「根拠のない自信と確信」はどこからくるのか。それは「無知の無知の突破力」のなせる技であると私は考えている。…」

 普通なら首相が自らを「立法府の長」などと一度でもいったら、それが単なる言い間違いでも、ものすごく恥じてしまうはずである。安倍のすごさは、4回もそれを繰り返し、それを野党議員に指摘されてもケロッとしている。自らの無知への自覚がないことが最強の居直りになる。周囲がたじろぐ。その独善・独行の傾きと勢いが安倍政権の特徴だった。なお、第一次政権の時にも、2007511日の参議院憲法調査会で、「私が立法府の長として何か物を申し上げるのは、むしろそれは介入になるのではないかと、このように思います。」と答弁して、弁護士出身の野党議員から、「三権分立というものがあります。国権の最高機関として定められているのは国会である。そして、その国権の最高機関と分立する形で立法府のほかに内閣があり司法があって三権が成り立っているんです。あなたはそういう意味では行政府の長であります。」と丁寧に(さと)されているが、議事録には、「そう何回も指を指さないでくださいよ。指を指されなくても私に話していると分かっていますから。よろしいですか。そこで、私は圧力なんか掛けていませんよ。」と、言い間違いを恥じて、これを訂正する姿勢が皆無だったことが記録されている。


「日銀は政府の子会社」

首相在任中の「無知の無知の突破力」を発揮した例は枚挙のいとまがない。政権発足当初の「憲法96条改正先行論」はさすがにすぐに引っ込めて、二度といわなくなったが、在任中、改憲に前のめりだった。冒頭左の写真には、背番号96番の巨人のユニフォームを着てイベントに参加する安倍の姿が残っている。それに重ねたオレンジ色のプラスチック製記念カードは、読売新聞社がプレミア(非売品)で提供したものである。冒頭左の写真にあるマグネットシートもレアもので、自民党大会で代議員に配布したお土産である。人を介して代議員から入手した。公文書改ざんが世間の話題になっている時に、「書いて消せる! 」という笑顔のイラストはすごい。

 冒頭右の写真は、2022511日のnews23で放映された安倍晋三である。「政治的仮病を使って「コロナ前逃亡」をして政権を投げ出したにもかかわらず妙に元気で、あちこちに出没して、好きなことをいっていた。政権を投げ出しておいて、何とも無責任なことであった。この写真は59日に大分県での講演で、「日本銀行というのは政府の子会社ですから、(返済を)返さないで借り換えていく。何回だって借り換えたって構わない」と述べているところである。「何回だって」というところで、前傾姿勢で指をクルクルと何度もまわす。そのホーズが実に不思議だった。

日銀が市場を通じて政府の国債を買い入れていることについて、「日銀は政府の子会社だ」として、日銀法3条の「日本銀行の通貨及び金融の調節における自主性は、尊重されなければならない。」からくる日銀の独立性など、屁とも思わぬという勢いである。もちろん、日銀の現状は、高い見識をもって、自主性をもって通貨・金融政策を展開しているとはいえないが(アベノミクスをまだ推進しているつもりの黒田日銀)、その当事者の安倍が「子会社」と軽くいってしまうところに、「「無知の無知」の突破力」のなせる技がある。

 安倍は「1000兆円の借金の半分は日銀に(国債を)買ってもらっている」「日銀は政府の子会社なので60年で(返済)満期が来たら、返さないで借り換えて構わない。心配する必要はない」とおおらかに語った。日銀は500兆円の国債を資産として保有しているが、日銀が政府との密接な関係をもつものだとすれば、両者のバランスのなかで政府の負債と日銀の資産は、日銀が保有する国債分と相殺されるという。自主性、独立性をもつ機関の人事に介入して、内閣法制局長官を「子分」(アベ友)にしたのを皮切りに、NHK経営委員会にも「子分」を送り込み、政府(親分)のいう通りにさせてきた。この「憲法突破・壊憲内閣」の安倍政権がまもなく発足10年になる。それが憲政史上最長の政権になったことについては、直言「安倍政権か史上最長となる「秘訣」――飴と鞭を参照されたい。


 今回は、SNS上で「無知の突破力」(水島朝穂)という誤った言説が飛び交ったのを訂正する意味を込めて、安倍政権発足10年のその2を論じた(その1はこちらから)。「安倍国葬も終わり、これもまた「忘却力」の彼方に追いやらないよう、この10年の検証を断続的に続けていきたい。

【文中敬称略】

《付記》1029日、30日、日本公法学会第86回総会が早稲田大学を会場に行われる予定だったが、コロナ禍のため、オンライン方式となり、早稲田大学が「送信拠点」となった。総会幹事として、この間、終日、開催校として、学会の後方支援の責任者を務めた。そのため「直言」の更新が遅れたことをお詫びしたい。

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