最後のゼミ
1月12日(木)、私の3・4年専門ゼミ(主専攻法学演習)の25期生、その最後のゼミを終えた。20年前に、直言「雑談(25)大学教師20年」 でゼミについて触れた際、「定年前の折り返し地点でもある」と書いた。これをアップしてからちょうど20年後、そのゼミの最終回がやってきたわけである。感慨無量である。
ゼミとは、ラテン語のセミナーリウム(苗床)からきている。19年前、直言「雑談(31)セミナーリウム(苗床)物語」を出した。11年前に直言「雑談(92)ゼミは「苗床」である―14期生を送る」をアップした。そのゼミの最終回について書くので、副題を「セミナーリウム(苗床)物語(その2・完)」とした所以である。
最終回のゼミで発表班が設定した議論のテーマは、「セミナーリウムとは何か―水島ゼミ、民主政、そして立憲主義」であった。水島ゼミそのものを対象化して、客観的に位置づけ、検討しようというものである。25期ゼミ長の小崎瑶太君が、昨年暮れにゼミ生に伝えた問題意識がこれである。14年前にも同じような企画があって、その時、11期生の永里桂太郎君らが作成した「水島ゼミ史」(2009年1月)が添付されていた。
1月12日4限、5限の現役生の議論にOB・OGの参加を呼びかけたところ、平日にもかかわらず、対面やオンラインで参加してくれた。懇親会からの参加を含めると31人になった。1期生は私が彼らを指導した頃の年齢以上になっていて、お子さんは早大生という人もいた。時の流れを感じた。0期生(正規ゼミ開講は1997年。96年に早大に着任して最初にもった「外国文化研究」(「ベルリンの壁崩壊後の世界」)履修者のこと)の猿田佐世さんも対面で参加した。この最終回については、本稿の後半に掲載した小崎瑶太「水島ゼミを考える―25年の不断の努力」をお読みいただければ幸いである。
「こだわりの学生」の発掘・育成の場
水島ゼミ(当時は専門ゼミ)は1997年に開講したが、ゼミ生募集のための「ゼミ要綱」の文章が下記である。その後「シラバス」となり、正式名称も2004年から「主専攻法学演習(憲法)」となったが、基本は変えていない。
私がゼミ運営のモットーとしてきたものは2つある。まずは「3つのA」(Active Academic Alternative)。最後のAが大事で、「もう一つの道」を求める人々の集まりだということを強調した。次にゼミのモットーとしたのは、(1)懐疑的な好奇心、(2)貪欲な探究心、(3)健全なコンプレックスである。コンプレックスのない人はいない。劣等感と訳すとさみしい。感情や思考が複雑に絡み合った複合体を表す心理学の言葉で、ありきたりの人物ではない証である。どの期かは忘れたが、有名な企業に就職を決めた女子学生が、「私はゼミの時、ほとんど発言できませんでした。すごい仲間たちに、私はコンプレックスをもっていました。でも、企業の集団面接のとき、私は無意識のうちにグループを仕切っていました。終わってからびっくりしました」と。水島ゼミのシラバス(主専攻法学演習(憲法))
授業概要:憲法の動態的研究を行う。憲法判例を検討する場合にも、ただ単に判例要旨に簡単なコメントをつけて終わりというのではなく、当該事件の時代的・社会的背景や、訴訟過程などにも分け入り、その判例の憲法社会学的検討にまで踏み込む必要がある。本ゼミでは、「時代の呼吸」をつかむという観点から、情報収集・分析の「センス」を身につけられるように色々と工夫している。
ゼミナールの原語は「セミナーリウム」(苗床)である。種を蒔き、それに水や有機肥料をやり、太陽の光をたっぷり与えて、「問題意識」の果実を育てていく。ゼミは「学問の道場」である。取材能力、文献検索能力、論理的構成力、文章表現能力、プレゼンテーション能力などの錬磨の場である。さらに、ゼミ運営を通じて、教員と学生、学生相互、さらには取材を通じて出会う様々な分野の人々との、まさに「コミュニケーションの道場」である。アポの取り方、相手の意見の聞き方、自分の考えの伝え方、取材後のアフターケアなど。まさに「人間関係の道場」でもある。ゼミを有効に活用できるかどうかは、ひとえに参加者の姿勢にかかっている。
「社会への窓」を大きく開け、社会現象に対するアンテナを延ばしながら、時代の転換点にあるこの国とその憲法の行方について、一緒に考えていこう。「はじめに資格試験や就職ありき」ではない、学問をそれ自体として追求しかつ楽しむことをこのゼミのモットーとしたい。そこで得られたセンスや「眼」は、資格試験にも、また就職後にも必ず役に立つはずである。そうした担当教員の姿勢に共感する、「こだわりの学生」の参加を希望したい。取材等の関係で、自動車免許を持つ者歓迎!
水島ゼミに入ってくる人たちは、「こだわりの人材」だから、社会の多数には決してならないけれど、どんなところでも必ず求められる人材になれと教えてきた。それをある時、こう表現した。「鉄、マグネシム、マンガン、亜鉛など、微量ながら健康のために必要な栄養をミネラルというが、わがゼミは、社会のさまざまな分野に必要なこだわりの人材を補給する「ミネラル・ウォーター・ゼミ」である」と。
コロナ禍でもゼミを続ける
25年間の教室でのゼミ(約650回)については、ここでは省略する(研究室に25年分のレジュメの山がある)。特に思い出深いのは、2020年4月からコロナ禍で大学の教室での授業が全面中止となり、完全オンライン授業になった時のことである。水島ゼミのオンラインゼミについて、その記録が、直言「コロナ禍の大学の授業―水島ゼミ23、24期生の活動から」に残っている。この直言の後ろの方に添付した23期執行部の活動総括を読み直した。教室での報告・討論という、今まで「あたり前」にやってきたことができなくなった。執行部の3人は「ゼミ生誰一人取り残さないゼミ活動」をモットーにしてがんばった。改めて彼らの努力に頭が下がる思いがする。
25回の「取材合宿」
日々のゼミと並んで、水島ゼミの白眉は取材合宿である。問題の「現場」に行って、「現場」を体感して、「現場」で取材して考える。沖縄合宿は隔年で実施し、1期から25期まで、3年次か4年次の時に必ず沖縄に行く。隔年で12回もの沖縄合宿を実施したゼミは、そう多くないのではないか。直言「「語り部の話は退屈だった」か―水島ゼミ沖縄2006夏」は、戦争体験をいかにつないでいくかについて、重要な視点を得ることができたと思っている。また、直言「暴風雨下30時間で考えたこと」の時の合宿委員をやった6期生は、的確な判断でゼミ生を無事にホテルにもどし、その能力を仕事に活かしている。
亡くなった大田昌秀元沖縄県知事には、それぞれの期のゼミ生たちが何度もお世話になった。1時間で次の取材先に向かおうと腰を浮かせて、「話はまだ途中だ。沖縄のことはそんなに簡単にわかったと思うな」と怒られた取材班もあった(後日、大田さんに謝罪の手紙を出した)。「ひろゆき」が冷笑した辺野古の現場には何度も行った。ヘリパッドの高江の現場にも。11回目の2018年夏には、『沖縄タイムス』に取材された。
24期生はオールコロナで最も活動が制限された期だった。彼らは取材合宿を体験しないで卒業する唯一の期になるところだった。そこで、感染状況の関係で大学が活動規制を緩和したのを見計らって、学部の特段の配慮により、2021年12月に、24、25期(一部23期)の沖縄合宿を実施することができた(直言「コロナ対策に「思いやり」はあり得ない―オミクロン株と日米地位協定」)。合宿を終えた後に感染が拡大したので、これは本当に奇跡のようなタイミングだった。ちなみに、この「最後の沖縄合宿」も『沖縄タイムス』の記事になった(直言「沖縄が問い続けるもの─サンフランシスコ講和条約70年」)。写真は、宮古島の陸自保良訓練場(弾薬庫)前で反対派住民に、感染予防をして取材するゼミ生である。
水島ゼミの取材合宿では、3年次に沖縄に行ったゼミ生は、4年次は別のところに行く。どこを選ぶかはゼミ生が投票などで決める。1期生は広島(大久野島を含む)だった。広島は計2回、長崎が3回、北海道が6回、関西圏(阪神・淡路大震災など)が2回、そして沖縄が12回である。ゼミの取材合宿は25年間に25回実施したことになる。
北海道でのゼミ合宿については、直言「「片山事件」と北海道 ― 自衛隊「事業仕分け」へ」を参照されたい。長崎合宿については、直言「台風下のゼミと「九十九島と九+九十九条」のこと」と、直言「鎌田定夫氏との「出会いの最大瞬間風速」」 がある。
八ヶ岳の「おでん会」
水島ゼミのイベントとして2007年から続いてきたのが、八ヶ岳「おでん会」である(直言「雑談(109)「食」のはなし(18)ゼミ「おでん会」の10周年」参照)。2005年、不幸な事情により、私自身、教員を続けるかどうか悩み、体調を崩して大学を1カ月休んだことがある。たまたまその時、早稲フィルの会長就任の依頼がきた。河口湖畔での早稲フィル合宿に参加した帰りに立ち寄った八ヶ岳南麓で、いくつもの偶然が重なり、そこに仕事場をもつことになった。翌年からその仕事場に、正月5日前後に、卒業前の4年生を招いて語り合う企画を始めた。そこで出すメインの料理が「おでん」になった。「信玄棒道」を一緒に歩いて、一人ひとりとじっくり話す。水島ゼミ恒例の、卒業前の最後のイベントである。残念ながら、コロナ禍で会食禁止になり、23期と24期だけは実施していない。最後の25期については、来月、八ヶ岳の仕事場に招き、おでん抜きで黙食したあと、棒道を歩く予定である。このイベントは、水島ゼミの本当の最終回となる。
なお、9期生が千葉県銚子市にある信田缶詰から「缶詰おでん」に関連して、「缶詰おでん憲章」なるものの起草を依頼されたことがある(直言「雑談(55) 「食」のはなし(10) 缶詰おでん憲章」)。おでんをごちそうになりながら議論して、遊び心でゼミ生が起草したものであり、新聞でも紹介された。「直言」の文末には、この憲章の英訳が残っている(笑)。
ゼミ生いろいろ、やることもいろいろ
水島ゼミには自由奔放な学生もいて、ゼミの枠に収まらない人は外に出た。なかでも、1年休学して海外に旅に出た学生もいた。まさに「計画的漂流」である。直言「雑談(95)今時の学生について(1)―シルクロード一人旅」で紹介した15期生は、いま国際協力の機関で働いている。イスラエルとパレスチナをまわった20期生のレポートは、直言「激動のイスラエルとパレスチナを行く―ゼミ生の取材記(1)」と「ゼミ生の取材記(2–完)」で紹介した。
スロヴァキア留学中にコロナ感染が広まり、帰国できなくなった23期生の現地報告は、直言「中欧「コロナ危機」の現場から―ゼミ23期生のスロヴァキア報告」に書いてもらった。コロナの感染が少し下がったときにキューバに留学した学生もいた。この24期生のことは、直言「弾道ミサイル「上空通過」をめぐる日台比較―「キューバ危機」から60年」で紹介した。
2014年に法学部の学生が学部投票をやって、「学生自治会」から「学生会」に名称変更したときのことを書いた直言「雑談(105)今時の学生たち(2)―大学に生徒会?」には、自治会役員をやった女子学生(15期)がゼミ論のテーマに選んだ「大学の自治と学生自治」の一部を掲載した。50年前の私の学生時代とは隔世の感がある。
フランスでテロが立て続けにおき、特に「シャルリー・エブド」事件は衝撃を与えたが、その半年前までフランスに留学していた17期生に事件について書いてもらった。それが直言「フランスの「1.7」は「9.11」なのか―「私はシャルリー」?」である。
論文や書籍で対外的に発信したこともある。例えば、ミャンマーの法曹資格をもつ留学生がゼミに入ってきたとき、彼は軍政が制定した「ミャンマー2008年憲法」を徹底批判したいというので、論文を書いてもらった。水島研究室の院生にも協力してもらって、『法学セミナー』にペンネームで掲載した(直言「ミャンマー2008年憲法をどう診るか」参照)。その後の経過については、直言「軍が民衆に発砲するとき(その2)―ミャンマー国軍と2008年憲法」参照。彼は困難ななかで弁護士として活動している。
16期と17期で特別ゼミをやり、私と学生とのやりとりを軸に新書の形にまとめたのが『はじめての憲法教室―立憲主義の基本から考える』(集英社新書、2013年) である。ゼミ生一人ひとりの発言を活かし、私とゼミ生とのやりとりのなかで「憲法とは何か」が浮かび上がるように工夫した。
私が33歳の時に出版した『戦争とたたかう― 一憲法学者のルソン島戦場体験』(日本評論社、1987年) を、26年後に岩波文庫の形で復活させる案が出てきた。共著者の久田栄正氏は1989年12月に亡くなっていたので、15期副ゼミ長に、いまの若者たちにも通ずるような形にするために削減・修正作業を依頼した。彼女は見事にそれをやってのけた(『戦争とたたかう―憲法学者・久田栄正のルソン戦体験』(岩波現代文庫、2013年))。彼女は大学院に進学し、博士(法学)の学位をとり、母校の教壇に立っている。
400人近くいるゼミ出身者の「その後」
25期生を来月、ゼミから「世間」に送り出す。例年に比べて、コロナと戦争の影響で一段と厳しい状況だが、ゼミ生たちは先輩たちと同様に「こだわり」の人生を送ってくれるものと信ずる。1999年3月に在外研究のためドイツに向かう直前、ゼミ1期生のためにアップした直言「卒業生をおくる言葉」がある。「一人ひとりが、私の宝である」。今回読み直しても、45歳は元気だったなと思う。
その後も、おりにふれて卒業するゼミ生への言葉をアップしている。直言「雑談(53)学生への言葉」は、在外研究中のボンから、1年しか指導できず、それでもゼミ論を書き上げた2期生に向けて書いたものである(6期生のゼミ論集への序文もプラス)。10期生への「卒業生をおくる言葉(その2)」もある。
1期生20人から出発し、最後の25期生まで400人近くがゼミから巣立っていった。とにかく多士済々、個性豊かな(時に豊かすぎる)面々である。進路についても多分野かつ多方面に進出している。卒業時に手帳にメモしたものをまとめると、法曹(裁判官・検察官・弁護士計37)、国家公務員(国会・中央省庁など28)、地方公務員(東京都など27)、独法・旧公社など(11)、大学教員(4)、高校教員(3)、マスコミ(NHK、民放、全国紙、ブロック紙、地方紙、通信社など54)、出版(7)、銀行・保険・損保・商社(53)、メーカー・IT系など(50)、交通・運輸(6)、国際協力(4)、地方議会議員(3)、農業関係(4)、大学院在学中、等々。私のまだ知らない分野で活躍しているゼミ生も多く、また「こだわりの人材」なので転職者も少なくない。とにかく、いろいろなところで頑張っていることだけは毎年の年賀状や風の便りでキャッチしている。また、水島ゼミでは、すでに13組(!)
が結婚している。新郎新婦共通の主賓として結婚式に招かれること8回になる(今年も2組予定)。
【追記・2024年3月15日】 水島ゼミ10期ゼミ長でメディアで活躍していたT君が、心機一転、医学部に入学し、本日、医師国家試験に合格。2024年4月から沖縄の病院で医師として活動を始めるとのことである。「2006年のゼミ沖縄合宿での経験が強烈で、いつか沖縄で働きたいと思っておりました」とメールにある。
法学部の憲法ゼミ出身の医師は珍しいのではないか。活躍に期待したい。
なお、2019年まで動いていた「水島ゼミのホームページ」がネット上に残っている。19期生までの「ゼミ生コラム」も読める。4年ぶりに最近開いて、あの時代のゼミ生と再会して懐かしかった。水島ゼミについて、コロナ前に執筆した「#ゼミを語ろう―社会問題の根底を憲法から探る、自由闊達な言論空間水島ゼミ」(『法学セミナー』2020年7月号2-3頁も参照のこと。
1月12日の25期の最後のゼミの最後の挨拶で私はこう述べた。「これからは同期だけでなく、期を超えて、いろいろな出会いと発見があるでしょう。正規授業としてのゼミはこれで終わりますが、これからは、わが「苗床」を巣立った人々との無限の連携の可能性があり、その意味では、新しい再会の始まりと考えています。」と。
ちなみに、早稲田大学における本当の最終講義は、「最後のオープンキャンパス模擬講義」の末尾で書いた通り、来年、2024年1月19日(金)17時から、8号館106教室で行われる(2023年度より100分授業で5限の開始時間が変更)。
ゼミ長による最終ゼミの総括
最後に、25期ゼミ長の小崎君がこの「直言」のために寄稿してくれた文章をそのまま掲載する。ゼミ担当教員としての私ではなく、ゼミ学生の目から見た水島ゼミがそこにある。お読みいただきたいと思う。なお、小崎君は4月から全国紙の記者となる。
水島ゼミを考える
―25年の不断の努力―
1.はじめに
25年続いた早稲田大学法学部水島ゼミは、2023年1月12日に最終回を迎えた。最終回でやりたかったことは、水島ゼミとはどういう場(環境、機会…)なのか、議論するということである。漠然としていると思われるだろうが、身近過ぎて今まで改めて考えることができていなかったテーマではないかと思い、もうこの機会しかないので挑んでみようと考えたわけだ。本稿では、水島ゼミ最終回を、ゼミ長の私が自分なりに振り返りつつ、私見を述べることにする。
ゼミの語源はseminarium(苗床)。「『苗床』から育つ種はみな個性豊かで、一つとして同じ種はない。」 25代に及ぶゼミ生たちが一つの苗床で学んできた。しかしそんな苗床に、ここ数年は新型コロナウィルスという新たな脅威が立ちはだかった。感染それ自体の危険性もさることながら、人と人とを切り離してしまう〈social↔distancing〉による議論の縮減。コロナ前のゼミを知らない私たちにとって、「水島ゼミにおける議論とは何なのか」という問いがこの2年間における最大の問題であったといってもいい。さらに昨年、世界は安全保障の「危機」に直面し、わかりやすい「答え」に人々は群がった。民主政の中で膨張した「群衆 」 の力は立憲主義や国際法システムの軽視へと向かいつつある(ギュスターヴ・ル・ボン=櫻井成夫訳『群衆心理』(講談社、1993年)参照)。なぜ我々は議論をするのか。どうして自分とは違う意見に出会うことができたときに、熱くなれるのか。この25年間、テロ・震災・戦争など様々な事象を目にしながら、ゼミ生はどのように議論を続けてきたのか。わかりやすい「答え」や自分と同じものばかりを追いかける「社会」にはないものが、このゼミにはあるとしたら、それはどうしてなのか。なぜ議論なのか、なぜ他者と共に考えるのか。このような問題意識を踏まえて、当日は、発表よりも議論を中心にゼミを進めた。
2. 水島ゼミ最終回
2.1 最終回の議論
水島ゼミ最終回は、いつもと同じ教室でいつもと同じ時間に行われたが、ひとつだけ違うところがあった。それは、多くの卒業生の方々がいらっしゃったということだ。現役ゼミ生の出席者はオンラインを含めて15人、卒業生の方々がオンラインを含めて27人。事前に卒業生の方々からメッセージを寄せていただき、それらをまとめたものを題材に、ゼミ生が議論をする。卒業生の皆さんには、ゼミ生の議論を見守っていただいた。議題は大きく、「班発表」「合宿」「飲み会↔コロナ」、そして「セミナーリウムとは、議論とは、何か」の4つ。いつもと同様に、憲法だけに限定されることなく、自由に議論した。私が班長をつとめた「セミナーリウム」班の6人が、これらのテーマについて問題提起を行い、少しずつ議論を深めていったが、全体として問いたかったのは、「なぜ議論するのか、できるのか」という単純な問いである。いつもと少し違った緊張感の中、なかなか意見が出てこなかった。しかし、その難しさこそが肝心なのである。以下、当日の議論を具体的に振り返ってみることにしよう。
2.2 「わからない」を考える
最初の「班発表」に関する議論では、「班発表を通して、自分の思い描いていたのとは違う意見に出会うことができた」という人がいた一方、発表本番では「自分の話したいことを存分に話すことができなかった」という人もいた。班発表に向けては、オンラインミーティングや対面での議論を積み重ねるのだが、2コマ連続最長3時間に及ぶ発表の準備は容易ではない。なぜそのテーマなのか、どうしてその視点なのか、説明できなければ議論は破綻する。煮詰まりながらも準備を突き詰めて初めて、発表当日に予想外の意見や指摘と出会うことができる。ただそれは同時に、自分にはすべてを理解することはできないということでもあるし、自分の想いがすべて伝わるとは限らないということでもあるのだ。こうして自らの限界を知り、それでも「わかろうとしたい」と思うところから、次へのエネルギーが生まれてくる。
そして、水島ゼミを語るうえで大切なのは現場である。取材を通して、自分の問題意識の限界を発見したり、文献からは決して見えてこなかったであろう視点に出会えたりするのは勿論、取材自体の難しさから学ぶことも多い。ゼミ生からは、「取材をさせていただくと、予想していたのと全然違う答えが返ってきた」とか、「そもそも連絡の取り方がわからなかった」などといった声があった。「現場に行かないと『わからない』から現場主義が大切」と言ってしまうのは簡単だが、その内実は、発見、緊張、反省、そして感謝が複雑に絡み合った、それこそ話を聞かせていただかなければわからないことの連続なのである。
そんな取材の連続である合宿についても議論した。24、25期生(一部23期)は2021年12月に沖縄合宿を、24、25期は2022年9月に北海道合宿をし、複数の班に分かれて取材をさせていただいた。あるゼミ生からは、結局自分たちは部外者なのだから「本当の意味では理解できないだろうってことがたくさんあった、だから知ったかぶりをしないようにした」という発言があった。準備をした上で現場に行くのは当然だが、だからと言って本当に理解できているとは限らない。それでも「わかろうとしたい」と思うところに、取材や議論の意味がある。ゼミ生からは他にも、取材にも残せないような生の声を聞いたり、言葉では伝えられない現場の空気を感じたり、ウェブ上で作られている「現実」とは全然違う実態と出会ったりしたという声があった。こうした「出会い」を積み重ね、大学に戻って何が本質なのかを議論する。ここに、オンラインツールにのみ頼るのではなく、実際に会ってお話をさせていただくという取材の意味があるのである。
ここで付言しておきたいのは、我々は現場に行く前1か月以上をかけて準備をし、取材の後も1か月以上をかけて議論をしていたということだ。初めから憲法に限定することなく、純粋に本質を追い求め、図書館で大量の本を調べ、インターネットも活用し、議論する。単に現場に行けばいいというわけではない。なぜ聞くのか、なぜ今行くのか、何が問題なのか。法学の専門書から、他分野の専門書、哲学書にわたるまで読み、議論し、しっかり考えて、しかるべき理由を見出してからでなければ、意味がない。貴重な時間をいただいてお話を伺う以上、絶対に必要な過程である。
2.3 「仲間」とともに考える
以上の議論に続いて、「飲み会↔コロナ」というちょっと変わったテーマについても考えた。コロナ禍でもゼミは続けられてきたし、それは水島先生や先輩方がオンラインゼミを積み重ねてくださったからこそである。しかし、いわゆるコロナ前の水島ゼミを知らないゼミ生にとって、「以前は議論が白熱して飲み会でも熱く議論していた」と聞くと、このテーマについて考えずにはいられない。
まず、「コロナ前は先輩方の姿を見て何の疑いもなくゼミの延長として飲み会をやっていたのだろう」という意見があった。きっとそうなのだろう、私たち現役ゼミ生も先輩方の姿を見ているうちに、自然と議論に参加するようになっていった。また、「コロナも対面も両方あったからこそ、対面や現場の価値に気づくことができたのではないか」という指摘もあった。議論とは何なのかという問題意識を抱くに至ったのも、まさに議論の場を制限されていたからである。こうした視点が、水島ゼミにおける議論のさらなる深化につながったということはとても大切だ。
そして最後に、「セミナーリウムとは、議論とは、何か」について議論した。中でも特に、「何を言っても受け止めてもらえるし、反論が返ってくる」という意見に注目したい。ゼミ以外の場で、真正面から社会問題について論ずるのは難しい。大学の外では勿論、大学内だからと言ってそうした議論をしやすいとは限らない。政治や法といった「センシティブ」な話題をしていると嫌がられることもある。最近では「である」ことを直ちに「すべき」ことに読み替えて時代の流れをそのまま肯定したり、流れに逆らう者に意味不明なレッテルを張ったりすることもしばしばだ。しかしこのゼミでは、分野を問わず自分の興味・関心のあることについて真剣に議論ができる。あるゼミ生はこれを「心理的安全性」と呼んだ。皆が同じ主張をしているわけではないにもかかわらず、である。興味も関心も、ゼミに入った理由も全然違う。現場主義やゼミに対する思いも様々なのだが、それでもそこには「心理的安全性」があると感じる。
それはなぜなのだろうか。ヒントになる意見があった。「すぐ結論を出すことを求められず、持ち帰ったモヤモヤがどこかで繋がる」というものである。ゼミでは、短時間で結論を迫られすぐに評価される訳ではない。議論しているうちに結論がわからなくなってしまったなら、またじっくり考えればいい。卒業してから議論してもいいのである。また、「先輩方や先生が作ってきた土壌」に言及するゼミ生もいた。水島ゼミに限ったことではないが、ゼミには原則として毎年新しい学生が入り、卒業していく学生もいる。そんな入れ替わりの中で、先輩から、先生から、ゼミでの議論を学びとり、自分たちの中でゆっくり消化しながら自分たちらしい議論を作り、また次につなげる。そうして作られてきた水島ゼミの土壌が、まさに以上のような議論を実現するものだったのである。取材と研究と議論の不断の努力が、水島ゼミを作ってきたのだ。
さらに、世の中の議論は仮説ありきだが、「水島ゼミでは実際に現場に行って検証できる」というところに注目する意見もあった。自分の調べたことの限界をしっかり見つめ、だからこそ現場に行かなければ、という想いから現場に行く。しかし、それで終わることはなく、結局自分に何がわかるのかと悩み、そしてまた学ぶ。この繰り返しが、ゼミでの議論を支えているといっていいだろう。
3.法とともに、憲法とともに考える
以上、私なりに最終回の議論を振り返ってきたが、これらを踏まえると、水島ゼミはこの25年間、法学とともに、憲法とともに、この世界を考えてきたといえるだろう。議論の中で、憲法それ自体を疑問視することもあっただろうし、法学の限界を感じることもあっただろう。しかし、卒業生の方々からのメッセージを読む中で、法が初めからないように振る舞ったり、特に憲法の最高法規性を真っ向から否定したりすることはなかったのだろうと感じた。それは、憲法ゼミだからと言って憲法だけに限定されるのではなく、問題意識を大切にして議論を積み重ね、様々な法と向き合いながら考えてきたからであろう。そんなことは当たり前だと思う人もいるかもしれないが、今日その当たり前が壊れてきているのだ。眼前の危機にわかりやすい「危機」を唱えることは簡単である。言論に対して無批判にレッテルを張る行為はもっともらしく、また感情的な「正義」を振りかざすことも同じくらいもっともらしい。しかし、どちらも詭弁的だ。そうした社会にあって、昨年で施行75年を迎えた日本国憲法は「古い」と言われることもあるし、法学それ自体も軽視されることがある。しかしながら、ゼミ最終回に如実に表れているように、25年に渡る学生と先生の議論に照らせば、これほど最先端のものはない。新しいとか古いとか、そのレベルで語る限界は明らかだろう。事物の本質を理解しようと、文献と向き合い、現場でお話を伺い、再び議論をする。我々は憲法を考えるというよりも、法学とともに、憲法とともに考えてきたのである。さて、ゼミ生のみなさんはどう考えるか。それはまたいつか、議論しよう。
そしてこの「憲法とともに考える」ことには、取材に応じてくださった方々のご協力が欠かせなかった。皆様とのご縁はゼミ生皆で、これからもずっと大切にさせていただきたい。改めて感謝申し上げる。また、今までともに水島ゼミで学んできた先輩方や同期の皆さん、さらにこのゼミでの議論を作ってきてくださったご卒業生の皆さんに、感謝をお伝えしたい。そして、四半世紀にわたってゼミを担当してくださった水島朝穂先生に、心から感謝を申し上げたい。
4.むすびにかえて
さて、ここまで25年にわたる水島ゼミの最終回について述べてきたが、私たち現役ゼミ生にとっては、2年間の水島ゼミでの日々が終わりを迎えたということも大切なので、最後に言及しておこう。私にとって、この2年間はただの思い出ではない。これを思い出で終わらせるつもりはない。合宿の報告書でも述べてきたように、規範と現実とを行き来する、長い旅の始まりにすぎないのである。その始まりを、こういう形で仲間と共に迎えられたことは、良かったと思う。
我々は、今後の人生の中で、容易い道と険しい道との選択を、必ず迫られることになるだろう。もうどうでもいいとその時代の流れに身を任せ、時代に責任を押し付けてしまいたくもなるだろう。効率性と「合理性」が一般論のあおりを受けて暴走する中、「憲法とともに考える」ことは、もはや「時代遅れ」だといわれかねない。しかしながら、この2年の日々は、幻想ではなかった。確かにあの教室で、現場で、私たちは時代と向き合ってきた。どれだけ多くのメディアからわかりやすい「危機」が叫ばれる時代になっても、どれだけ多くの人々が「正しい」方向へと同質化しても、あの、本質と向き合おうとして南門の「内」で「外」で悩んだ日々が消えることはない。まだ私はあきらめない。ともに時代と向き合っていくゼミ生たちも、きっとそうであると信じている———まだ、憲法とともに考えられるか。まだ、「あなた」とともに考えられるか。2年間のゼミでの日々は、私たちにそう問いかけ続けている。私たちの不断の努力は、いまここから始まるのだ。
2023年2月11日脱稿
小崎瑶太(水島ゼミ25期ゼミ長)