「ウクライナ戦争」の前史
ロシアによるウクライナ侵攻から1年が経過した。ウクライナ「東部戦線」は、100年以上前の「西部戦線異状なし」に例えられるような「消耗戦」が繰り広げられている。テレビや新聞に登場する学者や「識者」の多くは「長期戦」を予想する。だが、この戦争は、もっと早い時期に停戦になるチャンスが実はあったのである。ドイツの軍事専門家ユルゲン・ヴァーグナーは、先週公表された評論「ウクライナ戦争―前史・経過・諸利益・武器!」のなかで、停戦交渉に介入して、長期戦に持ち込んだ動きについて述べている。その一部を紹介しよう(訳文は簡略化してある)。
《ロシアによるウクライナへの攻撃が、国際法のあからさまな違反であることは間違いない。ロシアはこの悲惨な状況の責任の大部分を負っている。だが、強調されなければならないことは、この戦争には、西側諸国の政策に無視できない共同責任(Mitverantwortung)があることを示す前史があることである。開戦以来、西側諸国は火に油を注ぎ続けてきた。とりわけ、2022年3月末にウクライナとロシアが交渉による解決を目前にしていたイスタンブール協議が打ち切られたことが、その後のエスカレーションに直結したことである。》
《モスクワ(プーチン)は交渉する用意がないということはよく聞くが、これは、少なくとも戦争の初期段階においては間違いである。ロシアとウクライナの代表者は交渉を通じて、2022年3月末に署名する準備ができていた。このイスタンブール交渉のキーポイントは、即時停戦、ウクライナの中立性、ドンバスとクリミアの一部に関する未解決問題の除外、そして今後15年以内に非軍事的解決を目指すという合意であった。このように、この戦争から抜け出す方法は用意されていた。確実に言えることは、西側諸国が、ウクライナ政府に対して、ロシアとの戦いを「うまく」継続できるように、交渉による解決策を拒否するように明確に促したことである。》
《ここで決定的な役割を果たしたのが、当時の英国首相ボリス・ジョンソンである。彼がワシントンからの後ろ盾なしに行動したとは考えられない。『ガーディアン』紙によれば、彼は2022年4月初めにウクライナのゼレンスキー大統領との会談に臨み、「プーチンに一切譲歩しない」ことを要求したという。元連邦軍総監でNATO軍事委員会のハラルト・クヤット議長もこれを認めている。「イスタンブール交渉で、ロシアは明らかに、2月23日のレベル、すなわちウクライナへの攻撃開始前までの軍撤退に合意していた。…信頼できる情報によれば、当時のイギリス首相ボリス・ジョンソンが4月9日にキエフ(キーウ)に介入し、調印を妨げたという。彼の理由は、西側諸国が戦争終結の用意がないということだった」と。》
《ジョンソンが調印を妨げたということは、当時のイスラエル首相ナフタリ・ベネットによっても裏付けられている。「停戦は当時、手の届くところにあり、双方はかなりの譲歩をする用意があった。特に英国と米国はそのプロセスを終了させ、戦争の継続に賭けていた。」》
この1年をどう総括するか。その際、私は、昨年3月から4月初旬にかけてのイスタンブール交渉をめぐる展開に注目する必要があると考えている。「長期戦」になったのはプーチンの誤算もあるが、それだけではないことに目を向けるべきだろう。なお、英国元首相のジョンソンについては、2016年のドイツ在外研究中に起きた英国のEU離脱(Brexit)の際の、無責任な対応と行動が鮮明に記憶にあるので、停戦交渉をぶちこわすことに貢献していたと知って、なるほどと納得した。
こういう事情を含めて、「ウクライナ戦争」をめぐる「不都合な真実」について、メディアはほとんど伝えない。「1周年」の論調もほとんど同じトーンである。先週の直言「「勝利する」と「負けない」の間――ウクライナ侵攻1年とハーバーマス」で、ドイツのなかの冷静な視点について書いた。今回は米国の学者の意見を見ておこう。
ここで、浦田賢治氏(早稲田大学名誉教授)の論文「永続する戦争・地政学的犯罪・市民社会の法廷――国際法学者リチャード・フォークの晩年の仕事」(『政経研究』(政治経済研究所)119号(2022年12月)64-78頁)を紹介したいと思う。浦田氏は今年88歳になったが、意欲的に研究を続けている。長年務めた国際反核法律家協会(IALANA)副会長を今年2月に退任したが、その活動のなかで、米国・プリンストン大学で40年間教鞭をとったリチャード・フォーク(Richard Falk)教授(国際法・国際関係論)とも面識を得て、その著作や主張を研究し、公表してきた。今回紹介する論稿もその一つである。
リチャード・フォーク(1930年生まれ)は、ロシアによるウクライナ侵攻が起きると、自身のブログGlobal Justice in the 21st Century で、「ウクライナに戦争ではなく、平和を」(2022年3月31日)という論稿を発表した(左の写真はこのブログより)。以来、月1回の頻度で興味深い視点と論点を提起している。浦田氏が注目するのは、フォークが、「ウクライナ戦争」に3つのレベルがあること、この戦争が「地政学的戦争」ともいうべきもので、それは「地政学的犯罪」ともかかわり、さらにそれを止めるには「世界市民法廷」が重要なことを説いている点である。以下、浦田氏によるフォークの議論の検討とコメントを、この「直言」のスペースに収めるために、簡略化して紹介することにしたい(注記はすべて省略)。ただ、字数の関係で、本「直言」では、フォークの「ウクライナ戦争」の捉え方と、グローバルな市民社会の役割との関連における「ウクライナ民衆法廷」の提言の2点に注目したい。
ウクライナの「地政学的戦争」――3層構造
フォークは、「ウクライナ戦争」開戦まもない時期に書いた論稿で、ロシア侵攻についてこう述べている。「国際法の最も基本的な規範に明白に違反した侵略行為である。なぜなら主権国家の領土を侵す国際的な力の行使は、敵の先制武力攻撃に対する自衛権の行使を除いては禁止されているからだ。しかしながら、冷戦が終結しソ連の脅威が消滅した後、冷戦時代のNATO同盟を執拗に拡大するなど、西側の一連の無責任な挑発行為は、モスクワに安全保障上の懸念を抱かせるものであった。このような地政学的な行動は、ロシアが歴史的に敵対勢力に囲まれ攻撃されることを懸念していたことを考えると、西側の軽率な国家運営であったと言える」。
フォークは、メディアが「ウクライナ戦争」と呼ぶものには3つのレベルがあるとする。第1のレベルは、2022年2月24日にロシアがウクライナに対して攻撃的な戦争を開始したときに始まったもの、第2レベルは、米国を中心とするNATO諸国が、重火器の安定供給、強力な財政支援、懲罰的制裁、ロシアとその指導者を「公的に」悪魔化して描くことにより行われたもの、第3のレベルは、西ウクライナの反ロシア主義者による、東ウクライナ・ドンバス地方のロシア語を話す人びとに対する迫害である。東部のウクライナ人を保護し、高度の自治を受け入れるために2014年から15年にかけて交渉されたミンスク合意の不履行は、ウクライナ政府による圧政を招き、分離主義者にさらなる力を与えることになったとする。「ウクライナ戦争」の現状からは、「あらゆる手段で殺戮を止める」こと、同時に米国と NATOを主体とする第 2 レベルの「地政学的戦争を無条件に否定する」こと、「この 2つの至上命題が浮かび上がってくる」とする。
「地政学的犯罪」と「勝者の正義」
フォークは、「地政学的犯罪」(Geopolitical Crime)という概念も呈示する。これはフォークが創設したもので、この概念の「目的は、世界や地域の文脈の中で、特に戦争や戦後の『平和外交』の文脈の中で、人々の個人的・集団的福利に深刻な損害を与え、故意または過失でそれを行う指導的政府による意図的な行動パターンを特定することである」とされる。地政学的戦争は「地政学的犯罪」である。
フォークはいう。ウクライナで残虐行為が行われたことは間違いない。一見、ロシアの攻撃部隊によるものだが、それだけではない。しかし、国際犯罪に対する説明責任に関しては、世界は極めて不完全である。2020年に国際刑事裁判所(ICC)が、占領下のパレスチナでイスラエルが犯したとされる犯罪を調査する権限があると認めたとき、その調査が法的専門性の最高水準を満たすことを確認するために苦心の末に、この決定はイスラエルの首相によって「純粋な反ユダヤ主義」と呼ばれ、あらゆる政治的スペクトルのイスラエルの指導者によって反抗的に拒否されたのである。同様に、アフガニスタンでの米国による犯罪を調査する権限がICCから与えられたとき、米国は、ICCの運営を規定するローマ規程の締約国ではないことをあげ、その決定は無効であり、不当であると非難した。
大きな戦争では敗者の指導者に説明責任を課す「勝者の正義」があるが、地政学的勝者の犯罪には、全く説明責任を果たさないのである。法の本質は犯罪を対等に扱うことだが、世界秩序は地政学的勝者の犯罪には全く説明責任を果たさない、と。
市民社会の法廷――ウクライナ民衆法廷への提言
フォークによれば、現在、ウクライナ危機への対応には規範の空白がある。このため、国境を越えた市民社会は、行動する責任を果たすための最後の、そして最善の希望として残されている。実際に、手遅れになる前に平和のシナリオを実現するために、世界舞台の正式な政治主体を激励する機会を掴んでいるのである、と。
この「地政学的戦争」は、世界の安全保障が一極集中か多極化かをめぐる米国、ロシア、中国間の争いに影響を与える。そして「地政学的戦争」におけるバイデン大統領の戦術の扇動性、とりわけウクライナが「勝利のシナリオ」をもつことを是認すること、これはロシアに核兵器を使用させる危険性を高め、危険を増幅させる。
フォークによれば、現在、政府間で作成された国際法は、地政学的な悪事を犯罪として取り締まることができない。近代史を通じて、地政学的行為者は国際法の主要な立役者であり、より一般的には国益とともに自分たちの行動の自由を守ることに警戒心を抱いてきたからである。このような根拠から、米国とロシアの地政学的戦争をウクライナ戦争法廷の権限の範囲内に収めるために、「地政学的犯罪」という概念を市民社会が支持することは正当化されるというのだ。
フォークは、「米国は世界支配の追求を放棄せよ」という命題と、「新しい地政学に向けて」という命題を呈示する。そして、「ウクライナ戦争」にかかわって、「あらゆる手段で殺戮を止める」こと、同時に米国とNATOを主体とする第 2 レベルの「地政学的戦争を無条件に否定する」こと、この2つを求める。米国とNATOを主体とする第2レベルの地政学的戦争は、「地政学的犯罪」であるとして、「米国は世界支配の追求を放棄せよ」という言説を突きつける。フォークは、ウクライナの戦争は進化しており、外交を軽視し勝利を求める、その結果、核時代の戦争を煽る地政学は、種の存続を危うくする。ウクライナに関連するNATOの対応の激しさは、米国がロシアに対して、また間接的に中国に対して行っている無責任で素人的な地政学的戦争と危険なほど密接に絡み合っている。それは冷戦後の世界秩序の構造とプロセスに大きな影響を与える可能性があり、さらに、世界的ライバルとして中国が台頭してきたことによって複雑化している。このような地政学的な戦争は、未知の歴史的条件のもとで進行している、と。
なお、ヨーロッパへのガスパイプライン Nord Stream 1&2 の妨害行為がなされた。これは当初、ロシアに起因すると言われたが、後に「テロ」戦術による戦争拡大の一環であると多少なりとも認められるようになった。この国家テロの最新の表現は、10月 7 日のクリミアとロシアを結ぶ戦略的なケルチ海峡大橋(クリミア大橋)の爆破である。このように戦闘地域と戦術をウクライナ領土外にまで拡大することは、CIAの痕跡を含み、決定的な勝利のために全力を尽くすというウクライナの決意を後押しするように設計されているようで、米国が責任ある妥協の地政学に対して相変わらず無関心であるという紛れもないシグナルを、プーチンに送っているのである。ウクライナと世界の犠牲の上に、ワシントンの地政学的日和見主義が潜んでおり、それが地政学的犯罪であることを、フォークは主張し続けている。
欧米に懐疑的な「グローバルサウス」――G7オンリーの岸田政権
2023年2月24日、国連で緊急特別会合が開かれ、ロシア軍に「即時、完全かつ無条件の撤退」を求め、「ウクライナでの包括的、公正かつ永続的な平和」の必要性を強調する決議(米国や日本など75カ国の共同提案)が「圧倒的多数」で採択された。だが、細かく見ると変化も生まれている。賛成は141カ国で、反対7カ国。昨年よりもマリとニカラグアが加わって反対が2カ国増えた。中国、インド、南アフリカなど32カ国が棄権。13カ国が態度を表明しなかった。昨年3月24日の侵攻後の総会決議と比べても、賛成は増えていない。むしろ、2カ国が棄権から反対にまわった。ちなみに、昨年4月8日の人権理事会におけるロシアの資格停止決議については、賛成93、反対24、棄権58、態度表明せず18で、「賛成しない」が100カ国となった。
記憶に残るのは昨年2月21日の国連安保理におけるケニア大使の発言である。アフリカ諸国(OAU)は、国境線を西側列強諸国に勝手に引かれた歴史的体験をもっている。アフリカ諸国が国連憲章に従うのは、既存の国境に満足しているからではなく、平和のなかで築かれた、より大きなものを求めたからだと。
アジアでは、日本、韓国、シンガポール、台湾だけが米国の対露制裁に全面的に協力しているが、他の国々は微妙に距離をとっている。1月末に、調停者として、ブラジル、インドネシア、インド、中国が「平和クラブ」として機能するようになり、交渉のテーブルをつくる動きを見せている。ノーベル平和賞受賞者で、コスタリカのオスカル・アリアス・サンチェス元大統領は、ロシアへのインセンティヴとして、交渉の可能性に先立って、NATO がヨーロッパとトルコからすべての米国の核弾頭を撤去する準備をするよう提案した。2 月 10 日のホワイトハウス訪問後も、ブラジルのルラ大統領は、ロシアの侵略を非難するが、ブラジルによるロシアに対する武器売却や制裁は行わないというスタンスを維持している。「ロシアとウクライナの戦争に直接的または間接的に関与していない国のグループ」を形成しようとしている(以上の叙述は、Martin Ling参照)。
ひるがえって日本を見れば、岸田文雄首相は、ほとんど「米国の僕」のような言動をしている。その特定の1国の下での「G7議長国」の視点しかない。世界の国々をあまねく、広く見れば、日本はもっと「グローバルサウス」との連携を探るべきではないか。このままいくと、世界における日本の孤立と凋落はさらに進むだろう。「グローバルサウス」からの厚い信頼の貯金は、安倍~岸田政権の対米追随の突出により底をついている。「岸田キーウ訪問か、ゼレンスキー広島招待か」に頭をめぐらす首相官邸に未来はない。
リチャード・フォークが提言する「ウクライナ民衆法廷」が開廷されるまでに、どれだけの血が流されるだろうか。私も昨年9月段階で「武器供与」に批判的な見解を紹介したが、「米国とNATOを主体とする第 2 レベルの「地政学的戦争を無条件に否定する」」というフォークのより徹底した視点は、現段階ではなかなか一般には理解されないだろう。おそらくは相当な反発も予想される。だが、この1年で生まれた「グローバルサウス」における変化は、米国・NATOの「武器供与」強化による戦争の長期化とは異なる動きとして注目される。「武器供与ではなく、適時の交渉を」というユルゲン・ハーバーマスの哲学的方向づけが重要となる所以である。