国連常任理事国による侵略戦争
20年前の今日、3月20日(木)、「国際の平和及び安全の維持に関する主要な責任」(国連憲章24条)を負う安全保障理事会の常任理事国である米国と英国が、「侵略行為」の主体となるという異様な事態が生まれた。この同じ言葉を、昨年2月の「直言」でロシアに対して使っている。いま、ロシアを糾弾している西側諸国の多く、そして日本もまた、20年前の今日始まったイラク戦争が、国連安保理決議もなく、自衛権の発動要件もクリアしていない、国際法違反の武力行使、その本質において侵略戦争だったことを正面から認めようとしていない。国連のコフィー・アナン事務総長は2003年3月10日、「安保理の支持がない軍事行動は国連憲章に違反する。…もし安保理の合意がないまま米国が武力行使に及んだとしても、正当性は乏しい」と、米国に対して明確な姿勢を崩さなかったことが想起される(『毎日新聞』2003年3月12日付)。
開戦当日の号外――「政権打倒」の見出し
米英は3月20日(日本時間午前11時半過ぎ)にイラクに対する武力行使を開始した(直言「国際法違反の予防戦争が始まった」参照)。アフガン戦争の延長線上にある「対テロ戦争」でもなく、「大量破壊兵器」の脅威でもなく、明らかにイラクのフセイン政権の転覆、「レジーム・チェンジ」(体制転換)を狙った作戦だった。当日の各紙号外のうち、日経と産経の見出しには、「フセイン政権打倒」の文字が踊る(冒頭右の写真参照)。
ボストン大学のA.ベースビッチ教授は、「米国が戦争を起こす時、その目的の説明には常に不誠実さがつきまとってきた」と語る(直言「湾岸戦争20周年と「意図せざる結果」」参照)。フセイン政権を転覆するための戦争の大義名分とされたのが「自由」であった。2003年3月段階で、米国ハワイ大学では、このTシャツが売りに出された。当時留学中のゼミ生が現地で購入して送ってくれたものである。胸に「イラクの自由作戦」と大きく描かれ、「アメリカ人であることを誇れ。我々は派遣部隊を支援する」とある。
「お尋ね者」トランプとイラク伝単
「ウクライナ戦争」でもプーチンは悪の権化にされているが、イラク戦争の時も、フセイン大統領とその息子たちはかなり悪く描かれた。その一つが、トランプのカードである。冒頭左の写真は、『お尋ね者』(Wanted)カードで、フセイン大統領がスペードのエース、無軌道ぶりで知られた長男のウダイはハートのエースといった具合に、政府や軍の最高幹部がトランプのカードにされている。なお、『指名手配される世界的犯罪者』というトランプでは、スペードのエースはビン・ラディンである。ちなみに、ハートのエースはザルカウイ。『悪の枢軸』(Axis of Evil)などもあり、イラク戦争のあとに米国で売り出されていたものを入手した。トランプで「悪者」をランクづけすれば、「敵」をたたく勢いは増す。「敵」の戯画化は歴史上、しばしばとられてきた手法ではある。
では、それぞれのエースは何かというと、ハート(血)はランド研究所やハドソン研究所などのネオコン系研究機関、石油は、もちろんエッソやモービルなど。爆弾はボーイングやロッキードマーチン、目玉はCNNやフォックスニュースである。「作文零点大統領」といわれたブッシュを「血の3」という低いランクにしているのも興味深い。
戦争においては心理戦が重要である。1945年5月以降の中小都市空襲でも、米軍はきめ細かく都市名を指定して伝単をまいた(直言「わが歴史グッズの話(5)伝単」)。沖縄戦における伝単、戦場での「助命伝単」、朝鮮戦争時の米軍と北朝鮮軍の伝単など、これまでさまざまなものを紹介してきた。1999年のNATOによるユーゴ「空爆」時の伝単も生々しい。右の写真はイラク戦争の際にイラク各地にまかれた伝単の一部である。情報戦が重視されていたので、さまざまなメカが登場する。また、化学兵器の使用をにおわせるものもある。
ちなみに、この写真の左側は一列は、2003年ではなく、1991年の湾岸戦争の時にまかれたもの。当時は、イラク兵が戦車に包囲されていて、「降伏せよ」と迫られるシンプルなメッセージである。なお、一番上のものをよく見ると、構図は似ているが、砂漠ではなく椰子の実が見える。ヘルメットのマークから、カリブ海のハイチに対する侵攻作戦(1994年)で使用されたものとわかる。
トイレットペーパーの左横の人形は、フセイン大統領が捉えられ、絞首刑になった姿を描くものである。米国製で、首には縄がまいてあり、目が飛び出していて何ともリアルである。その横のフセイン像のライターは、大群衆を前に銃を片手でもつ姿をモデルにしたようである。レバーを押すと銃口から火が出る。
自衛隊イラク派遣のグッズたち
ここに並べたのは、自衛隊のイラク派遣に関連するグッズである。左上からイラクに派遣された軽装甲機動車(5.56mm機関銃MINIMI搭載)の模型、その下が、イラク復興支援群に参加した隊員がイラクに持参した『隊員必携(陸上幕僚監部)〔第3版〕』である。書き込みもあって生々しい。直言「「復興支援活動」の実態が見えてきた」で詳しく書いたので参照されたい。『週刊金曜日』2009年10月30日号でも検討したのでお読みいただきたいと思う。「不測事態時の行動原則」は「近づかない」が大原則。「自爆テロ」には『近づかない』『射つ』『離れる』、「デモ・暴動」には『頼む』『間を取る』『入れない(宿営地)』『離れる(宿営地外)』」と続く。「武器使用後の説明要領の例」には、「相手の大腿部を狙い単発3発射撃」という記述例もある。
『隊員必携』の上に置いた小さな横長の徽章は、防衛記念章第39号である。自衛官が制服の左胸に、勲章の略綬類似の形状で付けるもので、カラフルな「活動履歴書」になっている。この第39号を付けていれば、イラク派遣の経験ありということが(わかる人には)わかる。その下のパッチは、イラクまでの輸送を担当した海上自衛隊輸送艦「おおすみ」のもの、その横は復興支援群の記念メダルである。
この部隊の空輸活動では、武装した米兵を運んでいたことが後に判明した。「週間空輸実績(報告)」という文書があって、情報公開請求で出された文書は、2008年の浜田靖一防衛大臣の時は完全黒塗りだったが、2009年の民主党・北澤俊美防衛大臣の時にこれが公開された。2008年4月17日、名古屋高等裁判所は、C130Hで武装した米兵を「戦闘地域」であるバッダッド空港に派遣した行為が、「武力行使との一体化」にあたるとして、憲法9条1項に違反するという判決を出した(直言「空自イラク派遣に違憲判断―「そんなの関係ねぇ」?」)。
イラク・ボディ・カウント
イラク戦争開戦とほぼ同時に、「イラク・ボディ・カウント」(Iraq Body Count)というサイトが立ち上がり、刻々と、イラクの民間人の犠牲者数を集計していった。直言「「馬鹿が戦車でやって来る」―イラク・ボディ・カウントは続く」で紹介したので参照されたい。イラク戦争から今日で20年だが、この「イラク・ボディ・カウント」を見ると、あの時、もしイラク戦争がなかったら死なないですんだ人々がたくさんいる。2011年12月18日に米軍は完全撤退した。8年9カ月近くの間に、どこの国でも戦争に関わった政権担当者はみんな入れ代わった。結局、戦争はいつも「大国が勝手に始めて、勝手に終わらせている」。20年前に戦争の舞台にされたイラクの人々の苦しみは続く。
自衛隊「死者ゼロ」の理由、帰国後の自殺
この小見出しのタイトルの「直言」を2013年にアップした。そこでは、自衛隊駐留時、サドル師派の支部長を務めた人物が、 朝日新聞の取材に対して語った言葉が興味深い(『朝日新聞』2013年3月17日付国際面)。サドル師派は「自衛隊は占領軍ではないように装っているが、米軍主導の多国籍軍に(組織上)加わっており、占領軍であることは明白」として、駐留に抵抗する立場をとった。武装闘争を主張する幹部もいたが「州での〔自衛隊の〕活動は我々に敵対的ではない」「(かつて米国と戦争した)日本とは共有すべきものがある」とする意見が大勢を占め、武力攻撃はしないことで合意したという。この元支部長は「武装部門が組織的に攻撃していれば、自衛隊員に死者が出ていただろう」と語った。日本がかつて米国と戦争した事実を踏まえ、「日本とは共有すべきものがある」という指摘は重要である。自衛隊が給水支援や学校の修理など、直接に戦闘加入しなかったことが評価されている。私はこれを「平和憲法の貯金」と呼ぶ。イラク特措法2条2項で武力による威嚇や行使はしないといって派遣されたのは、憲法9条との関係である。岸田政権は、この「貯金」を取り崩し、「敵基地攻撃能力」保有により、他国を「攻める」国になろうとしている。
なお、現地では「死者ゼロ」だったが、帰国後に派遣隊員の自殺者が続いたことはしっかり記憶しておく必要がある(直言「海外出動「本来任務」化の意味」参照)。直言「「駆け付け警護」――ドイツに周回遅れの「戦死のリアル」」も参照されたい。