衆議院議長公邸の場所
東京メトロの永田町駅8番出口を出ると、青山通り沿いに広大な敷地をもつ立派な二階建ての邸宅がある。永田町2丁目18の1。衆議院議長公邸である。1996年から担当していた1年ゼミ(導入演習)では、コロナ前まで私が学生を引率して、半日使って「霞が関・永田町取材」をしていた(裁判傍聴や参議院見学、憲政記念館、裁判官弾劾裁判所等々)。まずは「三権分立の時計塔」の前に立つと、学生たちは、立法、司法、行政の主要機関が集中する「場所」を体感する。40代の時に一度だけ、衆参両院議長の公邸まで行ったことがある。学生は中に入りたいといったが、見学は認められていないので、そのまま参院第二別館南棟9階(弾裁)に向かった。なお、2002年に公邸の背後に38階建ての超高層ビルが出来たので、見栄えはいま一つになった。最近、たまたま『山陰中央新報』2023年1月26日付に議長公邸にまつわる記事を見つけた。
「…細田博之衆院議長(島根1区)が日頃の公務を行う東京・永田町内の公邸は、島根県と深いゆかりがある。敷地にはかつて、松江松平藩主が江戸に滞在する際の拠点としていた上屋敷が建っていた。…隣接するのは、徳川御三家の尾張、紀伊など名家の屋敷。江戸城に近いこの場所は親藩や幕府の重臣が屋敷を構え、地位の高さがうかがえる。…現在の衆参両院議長公邸を合わせた敷地に建っていた。…国会議事堂などとは異なり衆参両院議長公邸は一般公開しておらず、警備上の都合からメディアの取材もほとんど入ることはない。衆院議長公邸側は1万9000平方メートル、地上2階、一部地下1階の建物は1961年に完成。公邸、私邸部分に分かれている。松江松平藩ゆかりの井戸枠は私邸の裏庭の一角にある。…細田氏は地元から客が訪れるたび、井戸枠へ案内し、松江藩とのゆかりを解説。…公邸では日頃、各種の陳情を受け付けたり、海外から要人が来日したりした場合の接遇などを行うほか、議長が主催する会議も開いている。」
地元紙の記者が、地元出身の衆議院議長の公邸が地元・松江藩上屋敷跡にあることを書いた、ドメスティックな問題意識しか感じられない記事ではあるが、細田が「地元からの客」(選挙区の有権者を含む)を案内して見学させていることはよくわかった。「警備上の都合からメディアの取材もほとんど入ることはない」という場所なのだが。
衆議院議長は「偉い人」?
憲法41条は「国会は、国権の最高機関」と定める。そして、国会は、衆議院と参議院からなり(42条)、「両議院は、全国民を代表する選挙された議員でこれを構成する」(43条)。衆参両院議長は「その議院の秩序を保持し、議事を整理し、議院の事務を監督し、議院を代表する。」(国会法19条)。衆議院議長は、衆議院についてこの職を行う。この職にある間、議長には「公邸」が「無料で貸与」される(国家公務員宿舎法10条1号)。「公邸には、いす、テーブル等公邸に必要とする備品(もつぱら居住者の私用に供するものを除く。)を備え付け、無料で貸与する。」(同法11条)。税金を使って、ここまで立派な公邸に住むことができるのは、「国権の最高機関」である国会の衆議院を「代表する」存在だからである。一般の人々はほとんど意識しないのだが、衆議院議長というのは、いろいろ「偉い人」がいるなかで、段違いに「偉い人」なのである。その議長が、統一教会(現在は「世界平和統一家庭連合」)との関係を疑われているのである。
統一教会を賛美する挨拶――「安倍総理に早速ご報告」
細田博之が衆議院議長になる2年前の2019年10月、統一教会関連の重要な集会に登壇し、教団を讃える挨拶を行っていた(冒頭左の写真)。最初にこの映像が流れたのは、2022年7月24日の日本テレビ系「真相報道バンキシャ」だった。日曜午後6時のトップ項目で、夕食前にテレビをつけたところだった。この写真の映像にはさすがに驚愕した。1分25秒あたりから細田の挨拶が聞ける。「会の盛会、誠におめでとうございます。今日の盛会、会の内容について安倍総理に早速ご報告したいと思います」という下りでは大きな拍手がわいた。「韓鶴子総裁の提唱によって実現したこの国際指導者会議の場は大変意義が深いわけでございます」と、まさに統一教会を手放しで持ち上げている。この動画のなかで、韓総裁は、はっきりと、「政治と宗教はひとつにならねばなりません」と述べている(1分1秒あたりから)。憲法の政教分離原則など、どこ吹く風である。統一教会問題についても多くの人々はもう忘れかかっているので、この機会に、直言「「反社勢力」に乗っ取られた日本(その2)」をお読みいただければと思う。
この時、細田は総裁派閥である清和会の会長である。「安倍総理に報告する」という一言で、統一教会の信者は大いに喜び、大きな拍手を送っている。翌2021年9月、安倍が「元首相」の肩書で統一教会系の集会にビデオメッセージを寄せ、それを見た山上徹也被告が安倍の殺害を決意したとされている。「安倍総理に早速ご報告したい」という細田の言葉は、統一教会にとっての安倍の存在がいかに大きいかを示すものといえよう。
昨年7月以来、細田衆議院議長は、この統一教会での挨拶について説明することを拒否し、この件を含めて、記者会見すら拒み続けている。今年の1月24日になって、衆議院議長公邸で、「与野党の代表者と面会」するという形で重い口を開いた。記者会見での一問一答ではなく、与野党の代表者と非公開で会うという閉鎖的なやり方である。記者会見を拒否する理由としては、「議長の立場でふさわしくない」というだけ。これで「国民の代表機関」の長といえるのか。議長公邸は引きこもりの場ではない。細田は議長の地位と職をはき違えてはいないか。
議長公邸での与野党議員との「面会」において細田は、統一教会と自身との関係について説明した上で、国政選挙で教団票を差配したことは「一切ない」と否定した。2019年10月の集会での挨拶で「会の内容を安倍総理に早速報告したい」というのは、「(教団が)安倍総理と近い団体と知っていたので、リップサービスとして言った」と述べたという。何とも無責任な物言いである。記者会見ならば、「リップサービス」という言葉について執拗に質問が飛んだことだろう。
教団との関係で、派閥として安倍との間に引き継ぎがあったかどうか問われると「特にない。安倍総理は大昔から関係が深い。こちらは最近だから」と語ったという(『朝日新聞』2023年1月25日付)。朝日は「大昔」という言葉に大きな見出しを付け、取材した国会担当の記者にこう批判させた。
「密室ではなく、記者会見など公開の場で堂々と説明しなければ、実態解明にはつながらない。…「三権の長」である議長は「公平・中立」が求められる。疑惑を解消できなければ細田氏だけでなく、国会の権威もおとしめられかねない。説明から逃げ回る姿からは、国権の最高機関の長としての責任感は感じられない。」と。
『山陰中央新報』が「警備上の都合からメディアの取材もほとんど入ることはない」と書いた議長公邸。天皇ですら、メディア各社の取材に応じ、質問に答えているのに、国民代表の衆議院を「代表する」(国会法19条)衆議院議長が、公邸でメディアの取材を受けない状況は尋常ではない。
翌日の朝日社説はこう書いている。「…今回、野党の求めにようやく応じた形だが、約1時間の「懇談」のうち報道陣に公開されたのは冒頭だけだった。…教団と安倍氏について「大昔から関係が深い。自分は最近だ」と語った。証言通りだとすれば、真相解明には安倍氏の調査が不可欠となるはずだ。…高額献金などがトラブルになっている団体との関係をつまびらかにしなければ、公平な議事運営に疑念を持たれかねない。教団と「やましい付き合いはなかった」と言うのなら、安倍氏と教団の関係を含めて公の場で説明できるはずだ。…「国権の最高機関」の長である議長には、中立性だけでなく高い透明性も求められる。説明を避けて逃げ回るような姿勢では、適格性を疑わざるを得ない。」(『朝日新聞』1月26日付社説)。日本テレビ「バンキシャ」で流れされた衝撃の映像から8カ月。国会議員も有権者も、言論の府の国会の長が、「説明を避けて逃げ回る」「適格性を疑わざるを得ない」人物であることをもう忘れてしまったのだろうか。
「大昔の妖怪」からの深い付き合い
岸信介、福田赳夫、中曽根康弘、安倍晋三と、統一教会と特に深い関係をもつ首相たちがいる。有力な首相候補だった父・安倍晋太郎を含めれば、自民党と統一教会との深い関係は「大昔」から続いている。これは「腐れ縁」である。細田をして「大昔」といわしめた所以であろう。この関係のゆえに、「霊感商法」や詐欺商法についても、長期にわたって警察が捜査権を行使できない異常な状態が続いてきた。祖父は「合同結婚式」にまでお祝いのメッセージを送る関係である。統一教会は、これら有力政治家を通じて、日本の権力構造の一角に深く食い込んできたのである。
憲法の政教分離原則との関係で「「エンドースメント・テスト」(Endorsement test)というのがあるが、これは、一般の人々から見て、政府の行為が、特定の宗教をエンドース(是認または否認)しているとの印象を持つかどうか、これが問われる。政府の行為が、特定の宗教団体を後押しするようなメッセージを発することで、当該団体の信者たちに大きな励みとなり、教団への忠誠を誓う。閣僚が「お墨付き」を与えるということは、まさに積極的な是認の裏付けを与えることを意味する。元首相や閣僚や衆議院議長もやる有力政治家が、特定宗教団体のイベントに参加して、教祖を天まで持ち上げる。一連の行為は、特定宗教との「過度のかかわり合い」どころか、ここまでくると特定宗教団体による政治支配の様相を呈してきた。これは重大問題である。それが安倍晋三に至る「安倍三代」の闇である。」
この4半世紀の間に、国会議事堂を何度も訪れた。1年ゼミの「霞が関・永田町取材」の国会見学として、衆議院の法案審議の参考人として、また参議院の憲法調査会や憲法審査会の参考人として、2015年の安保関連法の際には、デモ隊へのスピーチを依頼されて(直言「55年目の国会前の風景――「民主主義ってなんだ!」)。そのつど思うのは、ここで私たちの生活に影響を及ぼす法律が決まるということの重みである。たかが国会、されど国会、である。その国会の本会議での採決は議長が取り仕切る。かつて、坂田道太という衆議院議長は、閉会を宣言して議長席を動かないでいると、議員が誰も立ち上がらず、じっと自分を見つめている。あれどうしたのかなと思うと、事務総長が、「議長、あなたが立たないと誰も立てません」といわれ、ハッとする。これは参議院議長も同様である。国会ではこの二人の存在が圧倒的に大きい(議院警察権も有する(国会法114条))。
衆議院議長だけが注目される時は、解散詔書の読み上げる時である。議長の一言一句、一挙手一投足に目が注がれる。私が覚えている解散の瞬間は、1969年12月2日の「沖縄解散」が最初だった。以来、17回の解散を「目撃」してきた。もちろんテレビのニュースで。本会議で議長が読み上げなかったのは、1976年の「任期満了」と、1986年の第2次中曽根内閣の「死んだふり解散」時、議長応接室での「万歳三唱」だった。
衆議院議長が議長席に着くと、ややあって背後の扉があいて、官房長官が紫の袱紗に包まれた解散詔書を持って議場に入る。議長が詔書を読み上げるまでの段取り、解散詔書の内容は毎回ほぼ同じだった。だが、詔書朗読の仕方、その内容が異なる解散があった。それが、2014年11月21日の「アベノミクス解散」である。直言「「安倍晋三解散」の異様な風景」でも書いたが、この時の伊吹文明議長は、解散詔書を早くよこせと、事務総長の方に手を出し、あまつさえ手をブラブラ振ったのである。私には猛烈な違和感が残った。読み上げるのは「日本国憲法7条により衆議院を解散する」だけなのに、この時は、「内閣総理大臣 安倍晋三、御名御璽」まで声に出したのにも仰天した。この「直言」はリンクまでご覧ください。
他方で、立派な衆議院議長もいた。直言「衆議院解散、その耐えがたい軽さ(その2・完?)」で紹介した保利茂議長である。保利は在任中、「解散権について」という論稿を残し、「特別の理由もないのに、行政府が一方的に解散しようということであれば、それは憲法上の権利の濫用ということになる」「7条解散の濫用は許されるべきではない」と説いた(『朝日新聞』1979年3月21日付)。死後に公開されたが、まさに正論であった。
衆議院事務局に職員として入り、前尾繁三郎第58代衆議院議長(1973~1976年)に秘書として仕えた平野貞夫(衆議院委員部長から参議院議員)は、「議長の権限は約300あるといわれているが、実際に使える力はほとんどないといっていいだろう。前尾議長も、私が議長秘書になって初めて会ったとき、「自分の判断で行使できる議長の権限とは、議長を辞める権限だけだ」と、笑ってこぼしていた。それほど日本の政治状況は、議長の権限を制限しているといっていい」と述べている。1975年4月、ロッキード事件で三木内閣が「死に体」となったとき、「憲政史上初の衆参両院議長による国会正常化」が行われた。前尾議長が「圧倒的な主導権」を発揮したことによるとされる(平野貞夫『衆議院事務局』(白秋社、2020年)127、147頁)。衆議院議長がそれだけ存在感を示したことがかつてはあったのである。
【文中敬称略】
《追記》細田博之衆議院議長は、2023年10月13日になって辞任を表明する記者会見を開いた。統一教会関連団体での件の挨拶は、統一教会へのリップサービスだったと語った。質問時間を30分に、出席記者も限定した「会見」に対して記者から怒りの声があがった。
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