最後の新学期
春学期が始まった。学部は、必修の「導入講義」「憲法」と専門の「法政策論」という大講義が3つで、教員生活40年で初めてゼミのない新学期となった。孫と5、6歳しか違わない1年生 に、先週、第1回の授業を行った。今年から100分授業なので、話が途中で横道に脱線しても、余裕をもって本論に戻ってこれるので、私にとっては講義はやりやすくなった。内外ともに重大事件が相次いでいるが、学期始めで多忙なため、それぞれの問題については後日論ずることにして、雑談「音楽よもやま話」のストック原稿をアップすることにしたい。
このシリーズの30回はチャイコフスキーの交響曲第2番ハ短調「小ロシア」(ウクライナ) 、32回は「チャイコフスキーは「敵性音楽」か?」だった。ウクライナの戦争との関連で、今回は、1968年8月20日の「チェコ事件」(ワルシャワ条約機構5カ国軍によるチェコスロバキア侵略)とチェコフィルハーモニー管弦楽団について書くことにしよう。
チェコフィルの「ビロードの弦」
チェコフィルハーモニー管弦楽団は、生演奏で3回聴いたことがある。「ビロードのような艶をもつ弦」として、特に弦セクションが有名である。チェコスロバキア時代の1982年10月29日、東京文化会館での演奏会。ズデニェク・コシュラー指揮で、ブラームスの交響曲第1番ハ短調がメインだった。2009年11月23日(サントリーホール)、ヘルベルト・ブロムシュテットの指揮で、ブルックナーの交響曲第8番ハ短調を聴いた。弦の深みのある躍動がひときわ印象に残っている。特に第3楽章のアダージョは、至極の世界だった。そして、その10年前の1999年11月4日、ドイツ在外研究中にチェコを訪れた際、プラハのヴルタヴァガ川右岸にある音楽公会堂(Rudolfinum)のドヴォルザークホールで聴いた。このホールはドヴォルザーク自身がチェコフィルを指揮して自己の作品を初演した伝統あるホールである。この日の指揮者はヴラディミール・ヴァーレクという、私には初めての指揮者だった。曲目はドヴォルザークの交響曲第8番ト長調。この演奏では、第4楽章冒頭でトランペットが派手に音を外したので驚いたが、アンコールのスラヴ舞曲まで、「ビロードの弦」を、本場で心ゆくまで堪能した。冒頭右の写真は、その時の公演パンフとチケット(日付入り)などである。なお、2016年の3度目の在外研究時には、チェコフィルの演奏会がケルンであったが行かなかった。
1990年「プラハの春」のクーベリック
チェコフィルといえば、ボヘミア出身のラファエル・クーベリック(1914年~1996年)の名前と結びつく。だが、彼は1948年にチェコスロバキアが共産党政権になるや、いち早く英国に亡命してしまった。私が所蔵するレコードやCDは、もっぱらバイエルン放送交響楽団を指揮したものが多い。共産党政権が崩壊し、民主化後の最初の「プラハの春」(第45回)に、クーベリックがロンドンから招聘された。彼はチェコフィルの常任指揮者として、1946年の第1回の「プラハの春」オープニングコンサートで、スメタナの連作交響詩『わが祖国』を指揮しているから、実に44年ぶりの登場ということになる。
「やはり民主化、開放への確かな一歩を踏み出した祖国へのクーベリックの思いが、このような晴朗にして感動的な表現をもたらしたのではないだろうか。そうしたクーベリックの指揮に対する熱くしなやかなチェコフィルの反応と、全員が総立ちになって15分もつづいた聴衆の熱狂的な拍手にも、まさに同じ思いがこめられていたにちがいない。…」と。
「チェコ事件」と市民の非暴力抵抗、「ビロード革命」へ
1953年にスターリンが死去すると、まず旧東ドイツの労働者が蜂起し、「6月17日事件」が起きた(これを背景にしたドイツ映画『沈黙の教室』参照)。そして、1956年の「ハンガリー事件」へと続き、ソ連による「体制の強制」はチェコスロバキアに及んだ(ブレジネフ・ドクトリン(「制限主権論」))。
1968年4月の「プラハの春」(1・65頁以下)は、「自由な新聞」やテレビを求めるたたかいから始まる。「人間の顔をした社会主義」を目指すアレクサンデル・ドプチェク第一書記の演説は今読んでも熱い(163頁以下)。体制内改革のための「創造的実験」は、「二千語宣言」(1・279頁以下)に集中的に表現されているが、これをソ連は許さなかった。
1968年8月20日、ソ連軍を軸とするワルシャワ条約機構5カ国軍が侵攻を開始した。日本では21日付夕刊がこれを伝えた。名古屋にいたので、名古屋駅で入手した新聞の見出しが頭に残っている。チェコスロバキアの党指導部は侵攻を非難すると同時に、「共和国の全市民に対して平静を保ち、進入軍に抵抗しないように訴える」とした(『朝日新聞』1968年8月21日付夕刊)。
市民は多様な抵抗を試みる。プラハ市内の街路の標識をはがして迷路のようにして、ソ連軍を迷わすなどの非暴力抵抗を続けた。地下放送局が市内を転々としながら、訴えを続けた(2・95頁以下)。市民が侵略軍に対しての物理的な抵抗をして、市街戦に発展して人々が死傷するのを極力回避しようとした。写真にあるように、戦車を取り囲み、戦車兵になぜ侵攻したのかと問い詰めた。ソ連軍兵士へのパンフレットの配布なども行われた。士気をくじく心理戦である。戦車の砲塔に赤いバラを差し込むなどの行動も。「笑い話」(アネクドート)(2・35頁以下)は市民の痛烈な体制批判を含む。侵略されたチェコ市民の「世界に訴える声」(62頁以下)はインパクトがある。チェコ事件では「6月17日事件」や「ハンガリー事件」のような戦闘による死者はほとんど出なかった。
外国の軍隊に国土は占領されたが、それは全面的な敗北ではない。武力対立による犠牲を出すことなく、占領目的への疑問を侵攻軍の兵士たちのなかにも広めていく。侵略に対して、何を守るのかという見識と覚悟が指導者に求められる。徹底抗戦を呼びかけ、市民に銃を与え、市街戦に持ち込むことも一つの選択ではある。18歳から60歳までの男子に国外脱出を禁止して、自衛戦闘への参加を強いる指導者もいる。ドプチェク第一書記をはじめ、チェコスロバキアの指導者は、一切の軍事的抵抗を放棄して、自らは逮捕されてモスクワに連行される。結局、ドプチェクらは屈伏させられ、帰国後まもなく失脚する。
国連では安保理が開かれ、ソ連を除くほとんどの国が非難をした(187頁以下)。中国はソ連を「社会帝国主義」として糾弾し、北朝鮮も非難した。各国の共産党もソ連を非難した(195頁以下)。
1977年に劇作家のヴァーツラフ・ハヴェルらの文化人を中心として、反体制運動「憲章77」が発足した。その12年後の1989年11月17日、学生5万人が68年以来なかったような大規模デモを展開した。ドイツで「ベルリンの壁」崩壊に向けて、旧東ドイツの人々が巨大化したデモを展開していたのとほぼ同時期、チェコでは全土でゼネラルストライキ(全産業、全職種の全国スト)に発展した。20日には、20万人の市民で埋まったプラハの街に、かのドプチェクが姿を現わした。大群衆に向かって大きく手を広げ、抱きしめるようなしぐさをした老指導者の姿が目に焼きついている。11月29日には、「77憲章」のハヴェルが大統領に選ばれ、1948年から40年以上続いた共産党政権は崩壊する。この過程は「ビロード革命」と呼ばれる。
元駐スロベニア大使の石榑(いしぐれ)利光氏が、「冷戦終結30周年」に公表した「ビロード革命とチェコの人達(脈々と流れる反骨精神)」(2019年11月15日)という一文が興味深い。石榑氏は、「チェコにおけるビロード革命達成には、チェコ民族特有の国民性が反映している。それは良く言えば「物事を非常に慎重に行う」こと、悪く言えば「憶病」である。」という。
「チェコの人達が非暴力と話し合いで革命を達成したことは、チェコ民族の歴史から伺える。その歴史は、15世紀にまで遡ることが出来る。宗教・社会改革者でありプラハ大学学長でもあったヤン・フスの言葉は、「真実は勝つ!」である。…チェコ民族の非暴力反抗は、それ以降も続く。第一次世界大戦でチェコ軍はオーストリア軍の一部として参戦したが、「誰のために戦うのか?」との大きな疑問を持ち、対露戦線では同じスラブ民族の露軍との戦いを嫌い、続々と投降し捕虜となってしまった。この第一次大戦の参戦経験を書いたのが、風刺作家のヤロスラフ・ハシェックである。ハシェックは、チェコ人の国民性「面従腹背」を良く表している小説『善良なる兵士シュベイクの冒険』で、チェコ民族の反骨精神を面白おかしく書いている。」
興味深いのは、石榑氏によれば、ソ連軍の戦車群がプラハになだれ込んできた時、チェコのラジオ放送が、「国民の皆さん!兵士シュベイクのごとく振舞おう! ! 」と呼びかけたことである。「人々は、侵攻してきたソ連軍戦車の兵士達に身体をはって露語で論戦を挑んだり、道路標識を外したりして抵抗した。決して武器を取らなかった。…チェコの人達は「面従腹背」の精神で政治には無関心を装い、小市民的生活に埋没しているように見えたが、じっと耐えていた」。そして、前述の1989年11月の大規模なゼネストによって共産党政権を崩壊させ、「自由と民主主義を取り返したのである」と。なお、兵士シュヴェイクについては、『兵士シュヴェイクの冒険』1~4(岩波文庫、1996年)参照のこと(その検討はここから)。
1989年の「ビロード革命」の後、1993年1月にチェコとの連邦を解消し、スロバキア共和国が独立した。なお、コロナ禍のスロバキアについては、ゼミ生のレポート(直言「中欧「コロナ危機」の現場から――ゼミ23期生のスロバキア報告」)をお読みいただきたい。