なぜ「6月17日事件」にこだわるのか
先週の土曜日は、ドイツの「6月17日事件」から70年の日だった。「国家的な恣意と抑圧に対して旧東ドイツ(「ドイツ民主共和国」(DDR))の人々が立ち上がった。当初は労働者の蜂起として、また農村の不安から始まったものが、DDR政権に対する全国的で自然発生的な大規模抗議行動へと発展していった。社会主義統一党(SED) は、ソ連軍の助けを借りてデモを暴力的に鎮圧した。1953年6月17日の民衆蜂起(Volksaufstand)は、ソ連の勢力圏における最初の大衆蜂起だった」(Der 17. Juni 1953 im Überblick,bpb vom 9.6.2023 )。
私は、自分が生まれた2カ月後に起きたこの事件に関心があり、その50周年に初めて直言「6月17日事件から半世紀」をアップした。1991年、ドイツに半年ほど滞在していた際、この事件を再評価する書物と出会い、東ベルリン中心部でこれを読みながら、ソ連軍戦車と対峙する労働者・市民のことを生々しく想像していた。2010年に、早稲田大学比較法研究所の研究会で、「東ドイツ1953年6月17日事件の今日的解読」(レジュメはここから)を報告する機会があった。同僚の故・早川弘道氏の求めに応じたものだった。60周年の当日は、直言「「6月17日事件」60周年――立憲主義の定着に向けて(3)」を出した。
私は研究者になりたての頃から、ソ連や旧東ドイツの国家社会主義(Staatssozialismus)体制に対して一貫して疑問をもってきた。その視点から、「ベルリンの壁」崩壊についても、ライプツィヒの人々の勇気ある「月曜デモ」から始まる動きや、ヴェルニゲローデの人々の「もう一つの壁」の自力解放にも注目してきた(直言「ブロッケン山頂の「壁」開放」参照)。とはいえ、ドイツ統一後、東部地域においてさまざまな矛盾が吹き出し、極右勢力が伸長するなどの複雑な状況は、私も現地で体感している(直言「ペギーダの「月曜デモ」」参照)。
1956年2月の「スターリン批判」後に起きた「ハンガリー事件」(同年10月)は、「6月17日事件」とともに、反ソ・反革命、「ファシスト暴動」などのレッテルを貼られ続けてきた。「チェコ事件」については早々と「ソ連の侵略」と非難した日本共産党も、「ハンガリー事件」については、「社会主義に対する反革命暴動」として、「反革命鎮圧のためのソ連軍の介入」を肯定的に評価し続け、それを変更したのは1988年になってからだった。旧東ドイツの「6月17日事件」についてどんな評価をしているのかは寡聞にして知らないが、少なくともソ連の軍事介入を肯定的に評価することはないと考えたい。70年が経過したこの機会に、「ウクライナ戦争」も踏まえて、もう一度、この事件について書いておくことにする。
自由を求めて労働者・市民が立ち上がった
この問題について一貫して研究しているフーベルトゥス・クナーベが数日前にネットに公表した評論(Hubertus Knabe,DDR Szenen der Befreiung,17.Juni 1953 )が興味深い。「この民衆蜂起の記憶は、ますます忘れ去られようとしている」として、この蜂起の「根源的な力」を今日に引き継ぐという問題意識から写真をふんだんに使って書いている。東ベルリンのポツダム広場で、ソ連軍のT-34戦車に石を投げる若者の姿を描く有名な写真である。西ベルリンのスポーツカメラマンが撮影したこの一枚が、この事件を象徴している。冒頭右のスクリーンショットの左上の写真がそれである。ソ連軍のT-34戦車が道路の舗装をキャタピラーで破壊して威嚇している。車体前方機銃(7.62ミリ)はしっかりと労働者の方に向けられている。この事件をリアルに知ることのできる動画も参照されたい(ここから)。以下、クナーベの評論やDer 17. Juni 1953 im Überblickを参考にして書いておこう。
冒頭左の写真は、ライプツィヒの「6月17日通り」の通路標識である。連邦行政裁判所の荘厳な建物(旧ライヒ大審院、ドイツ統一までディミトロフ博物館。カールスルーエの連邦憲法裁判所よりはるかに立派)の斜め前の通りにある。プレートには、政治犯の解放などを求めたデモ隊に向けて人民警察が発砲し、ここで1人が死亡したとある。なお、ベルリンの「6月17日通り」は、1953年6月22日のベルリン市議会の決議により命名された。
ナチスと戦ったT-34が、労働者・市民に向けられた
ソ連軍のT-34が出動して、労働者や市民の運動を鎮圧した。旧東の人民警察(Volkspolizei) だけでは不十分なだけでなく、一部は労働者・市民の側に立つというおそれもあったわけである。旧東ドイツにはソ連軍16個師団が駐屯しており、ソ連軍政がしかれた。217の農村・都市のうち167地区に非常事態が宣言され、あらゆるデモや集会、3人以上の集まりなどが禁止された(写真は、ボンの「歴史博物館」に展示されているソ連軍コットブス地区司令官による非常事態宣言)。第二次世界大戦後、ソ連の勢力圏で初めて起きたこの大規模な蜂起の鎮圧により、55人が殺された。そのなかには5人の略式処刑の犠牲者も含まれていた。約15000人が逮捕され、そのうち1526人が、1954年1月末までに起訴された。2人が死刑、3人が無期懲役、936人が1年~15年の自由刑を言い渡された。ソ連の軍事法廷でも市民が裁かれた。1954年6月に「見せしめ裁判」が行われ、蜂起が西側の指示による「ファシストのクーデター」であったとされた。この言葉は遅くとも1953年7月には党指導部のもとで定着させられ、1989年まで維持された。
クナーベはいう。「振り返ってみれば、6月17日は、独裁体制のもとで自由選挙を強行しようとした、ドイツ史上最も勇気ある試みであったといえるだろう。なぜなら、1918年の11月革命や1989年秋の平和革命とは異なり、支配者たちは数ヶ月前から、無慈悲な弾圧を用意していることを十分に明らかにしていたからである」と。
私は20年前の直言「6月17日事件から半世紀」でこう書いている。
旧東独の政府首脳は、労働者や民衆の決起に恐れをなし、空港から逃亡する寸前だった。ソ連軍戦車によってのみ維持された政権とは何だったのか。旧東独政権は1953年6月17日の時点で、労働者・民衆から「不信任」されていたのである。「壁」崩壊で消滅するまでのそれは、労働者・民衆を幽閉し、抑圧する「装置」でしかなかった。「6月17日事件」は、そうした「装置」に対する最初の民衆蜂起であり、1956年のハンガリー事件、1968年のチェコ事件、1980年代ポーランドへと続く苦難の歩みの「最初の一突き」といえるだろう。それは、スターリン主義的国家社会主義体制の「終わりのはじまり」でもあった。
連邦議会における「6月17日事件」の追悼式典
6月16日9時から連邦議会の本会議場に全議員が集まり、「1953年6月17日のドイツ民主共和国での民衆蜂起から70周年を記念して」の追悼式典が開かれた(写真はNHKBS1 20230616ZDF)。連邦議会議長は挨拶のなかで、「1953年と1989年は、私たちの国の東部の市民がたたかいとった民主主義の偉大な遺産です」と述べた。続いて、「6月17日」をめぐる4人の証言が行われた。一人は当時17歳の見習い労働者で、この事件で逮捕され、投獄された経験をもつ。そのあと、フランク=ヴァルター・シュタインマイアー連邦大統領の演説が行われた。大統領は、「6月17日の民衆蜂起は、ドイツの自由の歴史において傑出した出来事です。1848年の三月革命や1918年の11月革命と並ぶものであり、平和革命の先駆けです。1989年、ドイツ民主共和国の多くの都市で、女性や男性が自ら民主主義のために戦いました。彼らは、1953年に人々が夢見ることしかできなかったことを実現させました。そして、私たちが今日、自由と多様性で結ばれた国に住むことを可能にしたのです。それが彼らの歴史的な功績であり、今もそうです。そして、私たちは、いや、ドイツ全土でそのことを本当に誇りに思うことができるのです。」と演説した。
大統領は、「独裁政権下でも私的な幸福や美しい瞬間は存在した。その記憶は、誰からも奪うことはできない」と述べ、旧東ドイツで生まれ育った人々にも細かな配慮を示しつつ、しかし、独裁政権がそうした人々の日常生活の隅々にまで入り込み、密告や検閲などの構造的なやり方で私的な幸せを奪ってしまったことを具体的に語りながら、自由と統一を求めて立ち上がった東の人々への連帯を重ねて強調する。そして、大統領は「ウクライナ戦争」を念頭に置いて、プーチンは「ソ連の昔の偉大さ」を取り戻したいというが、その「偉大さ」とは何か。「1953年のヴェルニゲローデ、1956年のブダペスト、1968年のプラハのように、自由を求めるあらゆる努力を残酷に封じ込めたソ連の偉大さとは何か」と鋭く問う。「プーチンが取り戻そうとするいわゆる「偉大さ」は、実際には独裁、専制、そして帝国主義の妄想にほかならない。この妄想が、ヨーロッパの平和と自由の営みを破壊することを許してはならない」と述べて、ウクライナへの連帯を呼びかける。
ハルツ山麓の美しい古都ヴェルニゲローデの電動機工場の労働者の「6月17日」から説き起こし、この工場の労働者への想いを再度語って演説終える。大変考え抜かれた構成だと感じた。女性たちへの言及も複数あった(『民衆蜂起の女性たち』参照)。ヘルムート・リッダー教授のもとで博士号をとった憲法研究者でもあるので、バランス感覚はある(44年前に研究室で挨拶をしているが、ご記憶にないと思う)。
この式典で司会を務めたSED独裁犠牲者担当委員 (SED-Opferbeauftragte) のエフェライン・ツプケが「DDR民衆蜂起70年」(70 Jahre DDR-Volksaufstand)というタイトルで、2023年の年次報告書を発表した。SED独裁の犠牲者の社会状況を改善するための様々な提案をしている。その中には、被害者年金の増額と活性化、迫害による健康被害の認定手続きの再編成、SEDの不正の除去に関する法律における正義の格差の是正などが含まれている。ツプケはいう。「私の考えでは、6月17日は、自由と民主主義を当然と考えることはできないという、現在の私たちにまで届く中心的なメッセージを持っている。イデオロギーの破壊的な力は、私たちの歴史の中で作用した。そして、イデオロギーの破壊的な力は、現在の私たちにも働いている」と。「ソ連占領地域とSED独裁政権における多くの政治的暴力の犠牲者の状況が、今日いかに深刻であるか」を曖昧にしてはならない」として、被害者が困難な状況にあり、それに対するさまざまな施策の改善を訴えている(報告書や活動の詳細は、ここから)。
なお、直言「軍が民衆に発砲するとき——旧東独「6月17日事件」、「5.18光州事件」、「6.4天安門事件」、そして、香港」で紹介したドイツ映画『僕たちは希望という名の列車に乗った』(2018年)は、主人公の父親は「6月17日事件」に参加していた。「反ソ暴動」に加わった者がその後の生活でいかに差別され、子どもたちにも影響を与え続けてきたかを描いているので、おすすめである。