解散権をもてあそぶ首相の「まさか」――議院内閣制の壊れ方
2023年6月26日

 

講演で「まさか」を8回使った岸田首相

週の日曜日(618)午後3時半から岸田文雄首相が、早大の大隈講堂で講演した(首相動静参照)。大学卒業後41年たって、「正に幾つもの「まさか」、まさかこんなことは起こらないと思っていた、こうした幾つもの「まさか」を実感」し続け、「お世辞にも模範的な大学生とはいえなかった自分があれから40年以上たって、こうして母校の大隈講堂で内閣総理大臣として講演をする。正に当時としては想像もできない、正に「まさか」であったわけであります」という形で、「まさか」を、講演(9745字)のなかで計8回も使っている(首相官邸HPより全文)。「母校凱旋講演」で衆院解散の「まさか」を演出したかったのかもしれないが、自分にとっての「まさか」だけの「立身出世物語」になってしまったようである。

   講演の間、学生の多くは2階席、1階席は政治家(最前列は森喜朗元首相)と大学幹部、メディア関係者(校歌斉唱で起立しない)が目立った(news236月19日の映像から)。この映像を見て既視感があった。20085月、大隈講堂で中国の胡錦濤国家主席(当時)が講演した。聴衆は、中国留学の経験のある「身元確かな」早大生と中国から同行した中国共産青年団200人が1階席を固めた。当時、新聞・テレビは「拍手する早大生」と報じたが、多くは早大生ではなく「中国製サクラ」だった(当日出席した学生(軽井沢での警備対策の事前合宿まで参加)から直接取材して書いた直言「胡錦濤主席の早大訪問歓迎せず」参照)。警官隊を大隈銅像手前まで入れて警備する異様な雰囲気のなかでの「大隈講堂講演会」だった(下の写真は2008年5月8日、胡錦濤国家主席(当時)の公用車と警備車両)。


6.18大隈講堂解散」?

   今回は野田佳彦に続く現職の首相の講演である(大学ホームページ参照)。しかも、臨時国会の会期末が近づき、メディアでは衆議院の解散が取り沙汰されていた。61日発売の雑誌『選択』6月号は、6.18「大隈講堂解散」か」と、首相が講演のなかで衆議院解散に言及するのではないかと推測していた(冒頭右の写真参照)。613日の記者会見でも、内閣不信任案提出をきっかけに、「情勢を見極めたい」と衆院解散の可能性に「含みを持たせた」。議員たちは目前の法案や政策よりも、自分の選挙のことで頭がいっぱいになっていたようである。だが、首相は、15日夕方の記者会見で、「今国会での解散は考えていない」と明言した(『毎日新聞』616日付1面)。さんざん「解散風」を吹かせておいて「肩すかし」というトーンの見出しが並んだ。

   「6.18大隈講堂解散」という推測が出てくるほどに、6月の永田町は浮き足だっていた。立憲民主党代表の「内閣不信任案」のカードの使い方も最悪だった。完全に足元を見られ、首相周辺から「不信任案を出せば解散する」という奇妙な論理が流れてきた。これが国会の空気を一変させ、重要法案が次々に成立していった。野党のみならず、与党議員も首相が送る「解散風」の前にたじろいだ。とりわけLGBT法案は党内「保守派」の抵抗が予想されており、衆院と参院でそれぞれ10人程度が賛成しないと見込まれていた。しかし、「解散風」のおかげで、衆院では杉田水脈の欠席、高島某の「トイレ籠城」という2人の消極的抵抗にとどまり、参院では山東昭子前議長と「安倍トモ」の和田政宗青山繁晴3人が退席するにとどまった(彼らは参院幹事長による「厳重注意」となったが)。衆院議員は、解散を前に党議拘束に反すれば、小選挙区の公認や比例順位にダイレクトに影響する。「解散風」は自民党内を引き締め、LGBT法案成立に実に効果的に作用したようである。G7「軍都広島」サミットで、同性婚などにおける後進性を問われていた岸田首相としては、この法案成立により米国に対するメンツを保つことができたわけである。岸田首相は、「解散権という「首相だけの特権」を目いっぱい使わせてもらった」と周囲に語ったという(『朝日新聞』617日付)。与党のベテラン議員は、「首相がこの数日間、解散権をもてあそぶような感じだったのに対して、不信感を持った人も多かったと思う」と述べている。岸田首相は「高揚感」にひたったのかもしれないが、自民党内に不信感を生み、負のオーラとなって沈殿して、いつか身内からの「まさか」を引き出すことになるかもしれない。


解散権は首相の「伝家の宝刀」か?

    「首相の専権事項」とか「伝家の宝刀」とかいうが、そもそもこれが間違いのもとなのであり、権力者の壮大なる勘違いなのである。憲法には首相の解散権など、どこにも書かれていない。内閣に解散権があるとも明示的には定められていないのである。周知のように、日本国憲法69条は、「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、又は信任の決議案を否決したときは、十日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職しなければならない。」と規定する。「解散されない限り」となっていて、首相が「今のうち」だの「念のため」といった勝手な事情で勝手に解散できるような建て付けになっていない。憲法73号には「衆議院を解散すること。」とあるが、これは天皇の国事行為の規定である。憲法3条が、天皇の国事行為について内閣の「助言と承認」を必要とすると定めていることからさかのぼって、「助言と承認」を通じて国事行為の中に内閣の実質的な決定権を読み込もうとするのが「7条内閣説」である。だが、形式的、儀礼的な性格の国事行為から、国政にかかわる重要な効果を引き出そうとするところには無理がある。「7条解散」を長期にわたって繰り返すことで、いつの間にか、首相の「専権事項」みたいな物言いが定着してしまったが、衆議院の解散は議院内閣制の根本から位置づけなおす必要があるように思う。

 14年前に直言「衆議院解散、その耐えがたい軽さ」のなかで、19793月に、保利茂元衆院議長が、解散が行われる場合として、(1)「議院内閣制のもとで立法府と行政府が対立して国政がマヒするようなときに、行政の機能を回復させるための一種の非常手段」、(2)「その直前の総選挙で各党が明らかにした公約や諸政策にもかかわらず、選挙後にそれと全く質の異なる、しかも重大な案件が提起されて、それが争点となるような場合には、改めて国民の判断を求める」の2つを挙げて、「特別の理由もないのに、行政府が一方的に解散しようということであれば、それは憲法上の権利の濫用ということになる。…“7条解散の濫用は許されるべきではない」と主張したことを紹介した。14年前の麻生内閣の解散は、現職の再選だけを考えて解散を引き延ばすことにこだわり、解散から総選挙までの日程が、憲法541項の許容限度である40日間になるという事態になった。

   岸田内閣による衆議院の解散については、20211018日の直言「衆議院解散、その耐えがたい軽さ(その2・完?)で詳しく書いた。解散から投開票日までの期間がわずか17日という史上最速だったことも指摘した

   思えば、衆議院の解散というのは、時の首相が、自らの存在を大きく見せ、権力を強化するのに使われてきた。例えば、2003年の「今のうち解散」などはその例である。首相討論の場で思わず口走ってしまった「近いうちに解散」は、安倍晋三第2次政権をもたらす歴史的な失敗だった。あの場で解散を叫ばなければ、民主党政権がしばらく続いて、安倍の長期政権もなかっただろう。

    その安倍は在任中に2回解散を行っている。一つは2014年の「念のため解散」であり、もう一つが2017年の「国難突破解散」である。「念のため解散」は、政権維持に有利なタイミングを露骨に選んだ解散だった(直言「「念のため解散」は解散権の濫用か」)。「アベノミクス解散」という意味不明のネーミングも付けられているが、「消費税を値上げしない」ということを争点としたので、投票率は劇的に低くなって、与党が圧勝した(直言「二人に一人しか投票しない「民主主義国家」」参照)。

    安倍内閣の2回目の解散は、2017年に行われた「国難突破解散」である。6年前のことだが、いま考えても笑ってしまう。北朝鮮のミサイル問題と少子高齢化を「国難」と位置づけ、これを「突破」するために解散したのである。まったく意味不明だった。私は安倍の無節操な解散について、「憲法蔑視の「暴投解散」」と名づけ、「解散権の悪用、逆用、誤用、私用」と断じた(直言「「自分ファースト」の翼賛政治――保身とエゴの「暴投解散」」参照)


日本の議院内閣制は壊れ始めている

   議院内閣制は、行政権の行使にあたる政府(内閣)が、議会の信任を存立条件として、議会に対して連帯して責任を負う統治形態である。このシステムをどう捉えるかをめぐって、「均衡本質説」と「責任本質説」とに分かれるが、前者に立てば、議会と内閣の均衡(バランス)から、議会の不信任決議に対抗する解散権は不可欠のものとなり、その行使についても後者よりも強く正当化される。ただ、あまりに恣意的な解散をすることは、衆議院議員の任期が4年と定められている趣旨からすれば、それを任期満了前に議員から奪う解散という行為が安易に行われてはならないことは自明である。この間の安倍・岸田による3回の解散は、これまでもそういう傾向はあったとはいえ、あまりにも露骨な形で政権維持の道具とされており、議長経験者からの「7条解散の濫用」という指摘があてはまる事例が続いている。「618大隈講堂解散」という観測記事が出た頃は、岸田首相はG7「軍都広島」サミットの成功を勢いにして解散に向かうつもりでいたのではないか。マイナンバー問題や一連の不祥事などによる支持率低下のなかで、615日に「解散せず」としたが、解散に向けての自らの一挙手一投足(「ニヤリと笑う」まで)がメディアに注目され、与党内部でざわつきが起きてくるのを楽しんでいる節があった。解散権という「麻薬」の魔力に味をしめたわけである。「今回は勉強になった。最大の収穫は解散権をとっておくことができたことだ」(上の写真news23 2023618日放送)という言葉は意味深長である。解散権の恣意的行使により、この国の議院内閣制が壊れ始めている。

 

「岸田君、大隈侯が泣いておるぞ」

   20年ほど前、佐賀市で講演したとき、大隈重信の生家(「大隈記念館」)を訪れたことがある。ちょうどイラク戦争が始まり、日本がイラクに自衛隊を派遣することになっていた。私は、直言「「ノー」と言うことの意味」 をアップした。そのなかで、佐賀の古書店で偶然見つけた五來欣造『人間大隈重信』(早稲田大学出版部、1938年)を、佐賀城跡近くのホテルのラウンジで読んだときのことをこう書いている。

…最初の方に次のような下りがあった。「ある人が、大隈重信に向かって、英雄とは何かという質問を発した。大隈は之に答えて言った。『英雄とは、否(ノー)と言うことの出来る人である。維新の名臣中に於ては、真に否(ノー)と言い得た人は一人も居ない。我輩の如きも否(ノー)と言えなかった人間である』」。著者は、大隈は「ノーと言い通した人間」と高く評価するが、ここでは政治家としての彼の評価には立ち入らない。ただ、大隈が嘆いたように、この国の政治家がより強き者(とりわけ米国)に対して「ノー」と言えないことは、その後も一貫しているだろう。戦争は、武力行使に走ったわけだから、きちんと「ノーと言えなかった」という点では同じである。外交は、相手のことを深く知り、こちらの言い分を相手にきちんと理解してもらうところから始まる。そうした関係をつくった上での「ノー」が大事なのである。この点で、本書の最後の方に出てくる「私設外務省」の下りは興味深い。大隈は「民間に下っても、やはり一種の外交をやっていたのである。彼は之に対して『国民外交』という名をつけた」。欧米やアジア各国の政治家や新聞記者は早稲田の大隈邸を訪れ、大隈との対話を通じて外交問題についての日本の世論の動向を探ろうとしたというのである。…

   昨年12月の「安保三文書」(戦略三文書)の12.16閣議決定」から半年がたち、7月にリトアニアの首都ビルニュスで開催されるNATO首脳会議に出席する「ナトー好き」の岸田首相。国会が閉じてしまってから重要決定を行い、実施していく。「驕れる人も久しからず」である。

    「解散権」を安易に振り回して、自分の首を切ってしまう「まさか」を体験することになるのか。「岸田君、大隈侯が泣いておるぞ」という先人たちの声が聞こえてくるようである。

【文中敬称略】

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