雑談(139) 今時の学生について(4)――1年導入講義(法学入門)を終えて
2023年7月24日

「今時の学生について」のこと

学部1年生のための「導入講義」(法学入門)が終わった。412日(水)から春学期の5限(17時~1840分)の時間帯に13回の講義を行い、先週、試験を実施した。定年退職を控えた教員が、この半期1コマを担当するのが学部の慣例とされ、私も最後の年度を、専門科目(「憲法」と「法政策論」)に加えて担当することになった。答案の枚数は半端ではない。コロナ前までは、八ヶ岳南麓の仕事場にこもり、「夏の祭典」(BGMがストラビンスキー「春の祭典」ではなく)をやっていたが、今年は自宅で1000枚の答案と格闘することになる。というわけで、この最初にして最後の法学部「法学入門」講義について、雑談シリーズの139回目として書いておくことにしよう(138回は「音楽よもやま話」(33)。この雑談は、「今時の学生について」シリーズの4回目でもある。

ちなみに、このシリーズの第1回は、10年前、水島ゼミ15期生が1年間休学して「シルクロードを地上から一人旅した記録」である。第2回は、早大法学部学生自治会が、名称から「自治」の2文字を削ることを、学部投票(投票率54%)の賛成88%で決定したことについて書いた「大学に生徒会?、第3回は、1997年から22年間担当した政治経済学部の教養科目「法学A/Bの終了について記した16021人の「法学」受講生」である。


2004年生まれの学生たち

今年度入学の1年生の多くは、2004年生まれである(早生まれは2005年)。私の孫と6歳しか違わない。彼らが生まれてから見てきたこと、聞いてきたこと、好きなアニメやテレビ番組等々、私が「じいじ」として孫と付き合ってきた風景と重なる。彼らは、小学校入学の年に東日本大震災が起き、コロナ禍で入学式なしで始まる高校時代を過ごし、大学に入ってきた。高校3年間、完全コロナの世代である。大教室でやる対面の授業は、彼らにとっては別世界に感じられたようだ。

講義概要(2004年頃から「シラバス」というには、2018年度までやった政治経済学部の「法学A/B」のものを一部使って、次のように書いた。

授業概要: 今日から「法学1年生」。法学部に入学したからといって、法律を好きになれとは言わないが、少なくとも「大切な隣人」として長く付き合っていけるようになってほしい。そのためのお手伝いをします。法律学は体系的学習が期待されます。でも、この講義では法律の条文や体系を満遍なく教えることはしません。半期14回参加すれば、この授業の「見えざる体系」が見えてくるでしょう。あれこれの法的知識よりも(もちろん、これは大切ですが)、法的な問題意識や法的思考を重視します。食わず嫌いが一番いけません。「旬のネタ」の鮮度を保ちつつ素早く調理し、意外な「皿」にもりつけて、教室で皆さんの前に盛りつけます。
    「なぜこれが?」と思われるものも、ちゃんと法律や法学に関係していることがやがて分かります。私はとことん「ネタ」にこだわるので、何が出てくるかは講義が始まってからのお楽しみ。だから、講義案は仮のもので、予告なしに変更されます。時代の呼吸を感じながら、法学の面白さを体験することができるでしょう。毎回、ホォーッという「驚きと発見」の瞬間が一回はあるはずです。だから「ホォーッ学」。
   それと、この講義では新聞が必須アイテムです。毎回の講義の冒頭の10分間を使い、その週に起きた「事件」の法的解説をやるので、必ず新聞を読んで授業に臨むこと。紙の新聞を1紙確保して、ネットで他紙の報道と比較して、自分なりの「事件」を用意して授業に臨んでください。私の新聞解説は、各紙の比較やベタ記事にもこだわります。
   私のホームページ(https://www.asaho.com/)の「直言」は、毎週月曜日に更新されるので、講義前に必ず読んでおいてください。

業の到達目標:日々の生活のなかで法的な問題を発見し、キャッチするとともに、それを少しでも法的に考えることができるようにする。六法を活用できるようにする。新聞の批判的、比較的な読み方を身につける。

とにかく対面の授業に参加して、ライブ感覚で問題を考え、それを自分自身で調べて確認してみる。これが大切です。すべてを疑え。教員はそうとう挑発的な問題提起をするので、それをそのまま信じるのでなく、自分で「裏をとる」ことが肝要です。高校までの勉強は「教えてもらう」「習う」ということが中心でした。これからは法を学ぶという観点から主体的に問題と向き合ってください。法の解釈のおもしろさも見えてくるでしょう。同時に、法の現場を診ることも大事です。裁判の傍聴などもおすすめです。授業で紹介する法の「現場」に自ら足を運ぶことも大切です。

驚きと発見の授業に――新聞の活用

1回のイントロダクションでは、どのように授業を進めていくかについて説明するが、その際、この授業の必須アイテムとして、「紙の新聞」をあげる。1週間新聞を読んで、自分が関心をもった切り抜きを少なくとも1枚持参する。新聞代が高額のため、一人暮らしをしている学生には、新聞を入手するコツを伝授する。私のアドバイスを守って、近所のラーメン屋さんのご主人から、汁のついた前日の新聞を毎日もらって読んでいると、「感想」に書き込んだ学生がいたのはうれしかった。私はこれを、ネットワークならぬ「ネタワーク」と呼んでいる。ネットしか見ない世代の人たちに、あえてアナログ的ネタ選びをやってもらうのが私の狙いである。「1年生から新聞の切り抜きをやっていると、専門ゼミでも、将来の就活の面接などでも、圧倒的な差が出るよ」という一言で、学生たちの多くがこの方法をとるようになる。

講義では、冒頭の10分間を、その週に起きた「事件」の法的解説にあてるので、学生は切り抜きを準備して授業に臨む。私は各紙の見出しの違いを大画面に出す。例えば、袴田事件再審開始を認めた東京高裁決定について、検察が最高裁への特別抗告を断念したと発表した翌日の各紙の一面トップを並べ、『読売』だけが自社スクープ記事により検察が起訴に持ち込んだと誇る記事を一面トップにもってきたことを際立たせる。学生たちは日々の新聞の扱いがこうも違うのかということに気づく(上の左の写真参照)。

2回は、警察官職務執行法7条(武器の使用)のケースとして、19844月「久留米駅前警官発砲事件」について、新聞3(『朝日新聞』、『読売新聞』、『北海道新聞』(共同通信配信)1984421日付)のコピーを配って読ませる(右がプリント)。その上で、大教室だが、特別に私がフロアにマイクをもって降りて、学生たち数人に、気づいた点を語ってもらう。詳しいことは省くが、記事にはたくさんの違いが見つかる。学生が最も驚くのは、次の記述である。

「○○(実名)巡査部長は○○(呼び捨て実名)の車に駆け寄り、窓越しに「抵抗するな降りてこい、凶器を捨てろ」と声を掛けると、ナイフで抵抗してきたので右腕目がけて発砲。○○が倒れた。久留米署は…聖マリア病院に運んだが死亡したと発表した。聖マリア病院では、○○は既に死んでいたといっている。」(『北海道新聞』)

「○○はドアを開けるなり、ナイフを手にして飛びかかろうとしたため、○○巡査部長は約一㍍離れた車内の○○に対し、ほぼ正面から右上腕めがけてとっさに一発発砲。弾丸は腕を貫通して肺に達した。…発砲から約十分後の午後六時半ごろ死んだ。」(『朝日新聞』)

「○○はナイフを突き出し、車外へ出てきたため、一㍍の至近距離から一発発射、弾は右上腕部から右肺を突き抜け心臓に達しており即死。」(『読売新聞』)

 車内にいたのか、車外に出てきたのか、弾は肺でとまったのか、心臓まで達したのか。これはかなり重要な違いである。私はNHKラジオ第一放送「新聞を読んで」のレギュラー14年やり、それを『時代を読む』(柘植書房新社、2009年)という本にしている人間なので、新聞の生理と病理については知り抜いている。学生には、夕方6時頃に起きた事件を翌日朝刊の早版に間に合うように記事にする時間的リミットなどを示して、記事に違いが出てくる背景を語った。また、2紙が「刃物男」という見出しを使ったことで、射殺に対する抵抗感が下がる問題にも触れた(配布しなかったが、『毎日新聞』も「刃物男射殺」の見出し)。近年でも、のこぎりで警官に抵抗した74歳男性を射殺した匝瑳市の事件については、『読売新聞』が「刃物男」という見出しを付けた。

続いて講義では、法執行にあたり、市民に対して武器を使用することがいかに重大なことか。警察官職務執行法7条の条文を細かく解説して、武器使用、とりわけ拳銃の使用の法的根拠について解説する。教材として、警察学校初任科用教科書(拳銃)の警職法7条チャート(これを所持していた警察官の書き込みあり)を配布して、必要性や相当性についての高いハードル、「必要最小限度」の意味などを詳しく述べる。

その上で、久留米市のケースがこの要件に合致するかどうかについて、一人の学生に壇上にあがってもらい検証する。90年代の刑事もの映画の撮影で実際に使ったニューナンブM60(私服警官用)のモデルガンを使って、記事に書かれている警察の動きを再現していく。

 車内にいる人間の右肩を狙って撃った場合、1メートルの至近距離ならば弾は肩甲骨を砕いて背後に抜ける。肺や心臓にまで弾が入るのは不自然であることに気づく。いろいろと疑問を出して、学生たちに考えさせた上で、最終的に、本件の付審判請求訴訟抗告審の福岡高裁決定の記事(『朝日新聞』1991314日付)を示して、この拳銃使用が違法と認定されたことを説明する。福岡高裁は、ドアから外に足は出ていない(車内にいた)、「弾は胸まで貫通」「警棒を使用しない」「威嚇発砲していない」などとして、「正当な職務の執行とはいえず、発砲は違法」と断じた。学生たちは新聞がいかに違ったことを書くのか驚いたと、Moodleの「感想コーナー」に123人も書き込んできた。

これが私の狙いで、ここから学生たちは新聞を読み、ネットの情報と比較しながら考えることのおもしろさを知る。私は複数の新聞や情報を「手を使って比べろ」という。「てへん」に比べるという漢字は、批判の「批」である、と。私の講義では、「比較」と「批判」の視点が重要だということを理解してもらう。

 

13回の授業を通じて――学生たちへの期待

かくして、第3回から「法と道徳」、「法と正義」、「法の解釈」、「法の体系」、「国家と法」、「裁判と法」、「裁判員制度」、「家族と法」、「宗教と法」、「国際社会と法」(上の写真参照)と続く。1回だけ、特別回として67日に、NHKスペシャル「新・映像の世紀」第3集『時代は独裁者を求めた』を教室の大スクリーンでみてもらった。「ナチスはよいこともたくさん行った」と思わせる映像も出てくる。ヒトラーを権力の座に押し上げたのは何だったのかを考えてもらう。民主主義の壊れ方についてリアルに知ることで 今も危険性がなくなっていないことに気づく。独ソ戦についてのNHKスペシャルの視聴もすすめた。

1500通近い感想が、Moodleの「感想コーナー」に寄せられている。かなりの長文も少なくない。そのなかにコロナ禍の一斉休講要請のことがあった。安倍晋三首相(当時)が、2020227日(木)、東京の感染者1名という日に、政治的思惑から、全国の小中学校、高校に対して一斉休校要請という大愚策を行い、教育現場が大混乱に陥った(32()から春休み! )。私は直言「安倍首相に「緊急事態」対処を委ねる危うさ――「水際」と「瀬戸際」の迷走」で批判した。そして、講義でもこの例をあげ、日本の政治家は「責任を感じる」が、「責任をとる」ことをしないと話し、この国のコロナ対策についての検証が不十分であることを指摘した。感想には、その時、中学3年生で卒業式がなくなったことなどが書いてあった。

これで知ったのだが、コロナはさまざまな世代に、さまざまな形で深い傷を残している。2004年生まれは、高校3年すべてがコロナ禍だった世代である。Moodleの感想を見ていても、高校時代に教えられたことだけが基準で、視野が著しく狭い。教員がいうこと、メディアが流すこと、インターネットの記事など、その都度触れた資料や情報を無批判に肯定し、あるいは拒否する。「正解」、結論、オチだけをすぐに欲しがり、そこにたどり着くまでの(時には苦痛を伴う)さまざまな営みが抜け落ちているようにも思える。対面での議論の体験が十分でないこともあろう。私が担当した「導入講義」は大講義であり、今年はゼミを持たないので確認しようがないが、同僚の一人に数日前に話を聞くと、担当する導入ゼミで意見がほとんど出ないのでショックだったという。おそらく、他の同僚たちも感じている、今年の1年ゼミの困難な課題なのだろう。

近年の傾向として、ゼミでの議論も、当たり障りのない「正当で正統」な論を展開し、予定調和的に議論が終わることも少なくないように思う。でも、私の授業を半期受けた1年生の反応を見ていると、彼らはこれから、自分で批判的に資料を分析し、自分の頭で考え、その成果として自分の意見をしっかり述べて、みんなで議論するおもしろさを知っていくと確信する。私は悲観していないし、私が教えた最後の1年生に期待している。


昨年度で終了した導入演習(水島1年ゼミ)

私は1996年から1年ゼミ(当初は基礎演習といった)をもち、2022年まで26年にわたって担当してきた。2004年から「導入演習」に名称変更され、半期制になったが、通年でやるということを通した。今年の1年生の多くが生まれた2004年度の1年ゼミ生の感想文が残っている。直言1年ゼミと裁判官弾劾裁判所」をリンクまでたどっていくと、ゼミの風景や感想なども見ることができる。その10年後の2014年の「ベルリンの壁」崩壊25周年の直言「「ベルリンの壁」崩壊から4分の1世紀――1年ゼミ生の視点 」には、1年ゼミ生の意見を紹介するものだった。

2003年度の1年ゼミの学生の感想文には、象徴的な一文がある。「この一年間大教室でマイクを使った先生方から学んだことも大切ですが、法学演習で発表し 90 分持たせることの難しさを知れたことも大切な財産です。聞く 90分より、話す 90分のほうがどれだけ長いことか」。厳密にいうと75分で、残りの時間が私の講評である。ともあれ、班員で議論して、テーマを決め、取材をして、しっかり発表する。ゼミの全員と私を90分間拘束するわけだから、相当な準備をしないともたない。1年生の時にこの苦労を前期・後期2回した私の1年ゼミ生は、専門ゼミでも十分にその力を発揮してくれたし、社会に出ても、人前で発表する能力を活かした分野で活躍している。

  テーマ的に1年ゼミ生の関心が強いのは夫婦別姓問題だった。コロナ禍でようやく対面で始まった1年ゼミの様子はここから見られる。なお、コロナ禍での専門ゼミの活動は、直言「コロナ禍の大学の授業――水島ゼミ2324期生の活動から」参照。

  導入講義でも、「深く学べ、広く学べ、濃く学べ」といってきた。「濃く」の意味は、大胆に、冒険心をもって、あえていえば、偏っていいということである。いまは過度にバランスを考えて、学びが薄くなっているのではないか。大学生はもっと自由であってほしい。

   1年前、オープンキャンパスの「最終模擬講義」をやり、今年1月に最後の水島ゼミをやって、今回は「最初で最後の導入講義」の終了について述べた。次は、半年後の2024122日(月)、直言「雑談(○○)最終講義を終えて――大学教員41年」をアップする予定である。

トップページへ