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今週の木曜日、9月7日は、長沼ナイキ基地訴訟について、札幌地方裁判所で自衛隊違憲判決が出されてから50年(半世紀)という日である。2013年9月に直言「長沼ナイキ基地訴訟一審判決から40年」をアップした。この10年で日本や世界の状況は一変した。判決が出された50年前、私は20歳で、法学部2年生。自衛隊に対して明確な違憲判決が出たので、高田馬場駅の売店で、9月7日付夕刊各紙をすべて買い込んだのを覚えている。いま残っているのは読売と朝日だけ。長年、研究室の目立つところに掲示してきたので、劣化して紙がボロボロになっている(左の写真)。読売の見出しが一番大きく、2面には、「「違憲判決」踏み台に」「問い直そう国防のあり方」として憲法改正への傾きを示す。朝日は2面で、「高い理想と重い既成事実と」「原点に戻った防衛論争」という形で、憲法9条に軸を置いた防衛論議への期待を込める。50年前の新聞紙面を見ても、当時から判決に対する評価や議論の仕方は大きく分かれた。
9条2項違反を認定した唯一の判決
憲法9条を素直に読めば、陸海空軍のみならず、「その他の戦力」という形で、軍隊類似組織を広く不保持の対象にしていることがわかる。自衛隊が「戦力にあたらない」と解釈する方が実はエネルギーを必要としたのである。政府解釈(内閣法制局)の変遷を見てみると、1950年の警察予備隊については「警察力を超える実力」が「戦力」になるので、それに至らなければ合憲、1952年の保安隊(+海上警備隊)については「近代戦争遂行可能な人的・物的組織体」にならない限り合憲、そして1954年の自衛隊については、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」にとどまる限りは合憲という形で、2年おきに解釈が変更されてきた。そして、1956年に憲法改正に踏み出し、「自衛力」合憲論は2年程度の賞味期限となる可能性があった。だが、誤算が生じた。1956年の第4回参議院選挙で、改憲勢力は3分の2の議席を確保することに失敗したからである。明文改憲は当面の課題ではなくなり、「解釈改憲」の方向が前面に出てくる。「自衛力」合憲論を基軸にして、第1次防衛力整備計画(1次防、以下同様)(1958-1960年)、2次防(1962-1966年)、3次防(1967-1971年)と、年々防衛費は増大していった。「自衛力」合憲論を正面から問う長沼ナイキ基地訴訟が起きたのは、まさに4次防(1972-1976年)が始まる前だった。
福島裁判長へのインタビュー
15年前、長沼事件一審の裁判長を務めた福島重雄さんに、長時間にわたってインタビューをする機会があった(写真は2008年4月12日、日本評論社5階会議室)。それをもとに、福島重雄・大出良知・水島朝穂編著『長沼事件 平賀書簡――35年目の証言』(日本評論社、2009年)が出版された(冒頭右の写真)。本書前半は、私がインタビューや資料を使ってまとめた全6章、125頁からなる(後半は「平賀書簡問題」)。これを執筆する際に重要な資料となったのは、福島さんが克明につけておられた日記である。三浦俊章・朝日新聞編集委員が本書出版後に福島さんにインタビューした記事のなかに、その日記の抜粋が紹介されている(『朝日新聞』2009年4月30日付)。
長沼一審判決は生きている―9条2項が「在ること」の意味
さて、控訴審の札幌高裁は、1976年8月5日、代替施設(砂防ダムなど)の完備によって「訴えの利益」は消滅したとした。その上で主文に無関係な「見解」をあえて付加して、「自衛隊は一見極めて明白に侵略的なものであるとはいい得ない」と指摘しつつ、自衛隊の憲法適合性の問題は「統治行為に関する判断」として裁判所は判断すべきでないとした。統治行為にあたるなら「侵略的」かどうかの判断も控えるべきなのに、かなり無理な書きぶりになった。最高裁は1982年9月9日、代替施設の完備という点で控訴審判決を支持しただけで、控訴審判決がかすった憲法問題には一切立ち入らず、訴訟を終結させた。このことで、札幌地裁の長沼一審判決は無意味になったのかといえば、そうではない。直言「長沼ナイキ基地訴訟一審判決から40年」のなかで私はこう書いた。
「「たかが裁判所、されど裁判所」である。一審判決とはいえ、40年前、国家機関である裁判所が明確に「戦力」と認定したことが、その後の自衛隊のあり方に計り知れない影響を与えてきた。長沼一審判決の違憲判断という上限を意識しつつ、「自衛のための必要最小限度の実力は自衛力であって、戦力ではない」という内閣法制局の自衛隊合憲解釈は慎重に構成される必要があった。集団的自衛権行使の違憲解釈も維持されてきた。そのことが、テロ特措法にも、イラク特措法にも「武力の行使」を禁ずる条文を置かざるを得ず、「武力の行使」と区別された「武器の使用」という形をとることを余儀なくさせてきたのである…。ここに憲法9条がなお生きているのであり、それを最も明確に活かした長沼事件一審判決の影響を見て取ることができる。」と。
だが、この「直言」を書いた1年後の2014年「7.1閣議決定」によって、安倍晋三内閣は、集団的自衛権行使の違憲解釈を強引に変更したのである。安全保障関連法(2015年)、「安保(戦略)3文書」改定(2022年「12.16閣議決定」)等々、坂を転げ落ちるように大軍拡に向かっている。とはいっても、「7.1閣議決定」の前提となった「安保法制懇談会報告書」についての記者会見(2014年5月15日)で、安倍首相(当時)が、安保法制懇の「ただ一人の憲法学者」(西修)の説く「自衛戦力合憲論」を採用しないと述べたことは記憶されていい。これまでの政府解釈と整合しないというのが理由である。集団的自衛権行使を合憲と解釈変更しても、「自衛戦力合憲」論をとるところまで安倍首相は踏み込まなかった。
憲法九条規範はこうした「新しい戦前」状況のもとでも、なお存在し続け、まだ鼓動を止めていない。不用意な死亡宣告をする前に、憲法九条が「在ること」の意味を再認識、再確認、そして再吟味する必要があるのではないか(本日(9月4日)発売の水島朝穂『憲法の動態的探究――「規範」の実証』(日本評論社、2023年)序章も参照されたい)。