「コスパ」と「タイパ」
私が「タイパ」という言葉を聞くようになったのは、コロナ禍である。「タイム・パフォーマンス」の略で、「時間対効果」、つまり、かかった時間に対する効果や満足度をあらわす言葉とされる。少ない時間で満足度の高い経験が得られたと感じられるとき、その行動は「タイパがいい」とされる。「Z世代」と呼ばれる10代~20代は、「タイパ」をかなり意識して、映画などの動画コンテンツを1.25~2倍速で視聴するそうだ。動画を見ながらスマートフォンで調べ物をするなど、並行視聴の「ながら見」など、「コンテンツの並行消費」を好む傾向もあるという。
コロナ真っ只中の2020年の春学期と秋学期、オンライン授業のため、私も必死に毎時間の動画をつくってアップしていたが、学生のなかにはこれを倍速で見る者もいたようで、感想コーナーに、「先生の声ははっきりしているので、倍速視聴でも聞きやすいです」と書かれたときは脱力した。横になってポテトチップを食べながら、1.3倍速で視聴して「受講完了」のチェック(出席確認)を受ける。どんなに真剣に映画をつくっても、映画館の大スクリーンで見てもらえなくなり、自宅の動画配信サービスで「倍速視聴」をされている映画人の痛みがよくわかる。
ここで脱線して音楽の話をすれば、私が好むアントン・ブルックナーの世界は「タイパ」の正反対である。最近の指揮者は、ブルックナーのスコアにある「無駄」と「冗長」の世界(これこそ意味がある! )をきれいに削ぎ落として、わかりやすくメリハリを効かせた演奏をする傾きにある。昨年、外国の一流指揮者と一流オケで、開演前から「タイパ」を感じさせるような演奏に出会った。音楽については好みの問題なので一般化はしないが、近年のコンサートで満足できるものが少なくなってきた背景には、「無駄」は「無だ」という発想が有力になってきているからかもしれない。
※末尾の「付記」に、本日(10月9日)付の『北海道新聞』コラム「卓上四季」の「コスパとタイパとファイターズ」の紹介があります。
民主主義にとって「コスパ」と「タイパ」は?
先月、高橋純子・朝日新聞編集委員の「現場へ! 民主主義とコスパ」という5回連載を読んだ(同紙9月25~29日付夕刊)。コスパ(費用対効果)とタイパ(時間対効果)。「そんな物差しで民主主義をはかられてたまるか。コスパやタイパがお求めならば独裁がいちばんですわよ、おほほ」といった彼女らしい筆致で、愛知県の小さな町の町長リコール運動の現場などを取材しながら、「民主主義は面倒くさいことの繰り返しで良くなるんです」という言葉を引き出す。「取引や妥協や忖度で成り立つ政治の世界に、限度を知らず、取引もしない市民がむき身でぶつかっていくからおもしろい。ぶつかって生じた『ひび』から新しい風が吹き込み、新しい芽も出てくる。コストも時間もかかる。でもだからこそ、民主主義は豊かになるのです」。リコール運動に関わった人のこの言葉には共感できる。
すべてを損得の問題で考え、時間的効率ばかり重視していくと、大事なものを失っていく。もっといえば、失ったことに気づかない状態に慣れてしまう。実はこれが一番怖い。「省略」や「省力化」をしてはならいものがあること、そのことをしっかり自覚する必要がある。
「プロパ」ということ――手続や説明を「丁寧に」スルーする
さて、「コスパ」「タイパ」と来れば、さらに一声、「プロパ」というのがあるのではないか。そう思って検索してみると、「プロセス・パフォーマンス」 (Process Performance)がヒットした。プロセス内で実行される業務の品質と納期を保証するための監視・監督を行うことだそうである。そこで、思いつき的に「プロパ」という造語を考えてみた。「プロセデュア・パフォーマンス」(Prosedure Performance)である。必要な手続や段取りを省略して、「スピード感」あふれる政治を行う。安倍晋三政権以来「定着」している「プロパ」は、岸田文雄政権になって、より深化してきているように思われる。
国会におけるさまざまな手続の軽視や予備費制度のザル運用など、憲法や法律の問題における「プロパ」については改めて論ずることにして、この間の出来事で「プロパ」との関連で気になった例として、事故原発「処理水」の海洋放出問題を挙げておこう。
事故原発「処理水」の海洋放出問題
冒頭右の写真は、『南ドイツ新聞』2021年4月14日付である。デジタル版は4月13日でより強い見出しを付けている。すなわち、「極めて無責任―日本は破壊された福島原子力発電所から放射性物質を含む処理水を海に放出しようとしている-近隣諸国と敵対しているだけではない」と。この記事は、4月13日に菅義偉首相(当時)が、海洋放出を行なう最終決定をしたことを報じたものである。デジタル版の見出しは、中国外務省の直後の反応を受けたもの。国際原子力機関(IAEA)事務局長や米国政府の肯定的な評価も伝えている。だが、記事は結びで、「東電と日本政府は、2年後に許された量を太平洋に放出し始める前に、近隣諸国だけでなく、地元漁師たちにも、多くのことを説明しなければならないだろう」と書いている。
その2年が経過した。その間、政府はきちんとした「説明」をしただろうか。政府と東京電力は2015年8月、福島県漁業協同組合連合会(福島県漁連)に対して、「関係者の理解なしには(処理水の)いかなる処分も行わない」と約束していた(『朝日新聞』2023年7月20日)。
2023年8月20日、岸田首相は福島を訪問し、県漁連の会長らと会ったが、いかにもアリバイ的な動き方という感じだった。22日の関係閣僚会議で処理水の海洋放出を決定し、24日から放出が始まった。
8月26日のTBS『報道特集』は、この問題について詳しく伝えていた。冒頭左の写真は、県漁連との「約束」について岸田首相が語る場面の写真であり、上記は県漁連と約束をした文書の写しである(いずれも「報道特集」より)。地元漁師たちからすれば、「関係者の理解なしには」という言葉から、自分たちが納得していない以上、まだ理解はされていないという理解だろう。だが、官僚用語としての「ご理解をいただく」というのは、「納得する」ことを意味しない。岸田首相は、「約束は現時点で果たされていないが、破られたとは考えていない」といい、西村康稔経産相は、「約束を果たし終わったわけではなくて、守り続けている」という意味不明な言葉を使っていた。「報道特集」の取材に応じた地元漁師は不信感を募らせ、「無力感しかない」と語っていた。首相は「丁寧に」説明するといいながら、2年の間、きちんとした説明がなされたと漁師たちは感じていない。この必要な説明やそういう場を設けるという事前の段取りをきれいにスルーする手法も「プロパ」といえる。
周辺諸国に対する事前の説明も十分であったとはいえず、中国は「日本の海産物全面禁輸」という、当時の農水大臣が「全く想定していなかった」措置に踏み切った。中国も自らの原発の冷却水を日常的に海に放流しており、人のことがいえるのかという反発も出ているが、福島の場合は、原発事故のデブリ(溶融核燃料)に直に触れてできた汚染水である点を看過してはならない。それをALPS(多核種除去設備)で十分処理してあるから安全だという「説明」では足りない。仮に初期の放流は基準値以下になったとしても、未処理分と今後増加分の水について、30年どころではなく、見通しのつかない廃炉が終わるまで忘却せずに、隠蔽体質の東電と国に懐疑の眼差しを注ぐことが求められるのである。IAEA事務局長の言葉を都合よく使って、国際的にも承認されているという、胸を張りすぎた態度も問題である(「IAEA報告書は「処理水の海洋放出」を承認していない。中国を「非科学的」と切り捨てる日本の傲慢」参照)。
中国だけではない。
9月22日の国連総会で、ソロモン諸島のソガバレ首相が一般討論演説のなかで、福島の「処理水」海洋放出について、「がく然としている」と批判し、放出の停止を求めている。上記リンクのNHKニュース解説が、「ソロモン諸島は、…中国との関係を深めています」などと「中国寄りの発言」として低く印象づけているが妥当ではない。重大な原発事故を起こして地球に迷惑をかけている日本の一挙手一投足が、世界から見つめられていることを忘れてはならないだろう。この問題でも「プロパ」は許されないのである。
岸田流の「プロパ」
岸田首相の場合、安倍晋三のように喜怒哀楽が激しく、敵意むきだしの態度が表に出てしまうということはまずない。まさに「岸田フェイス」である。バイデンに肩を抱かれたときの、形容しがたい表情(右の写真)、「天真爛漫」という好みの言葉の掛け軸を贈られて満足げな顔。その一方で、影のある『タイム』誌に使われた顔。しゃべりにも表情にも、何が本音なのかよく見えないところがある。少し前の「直言」で指摘したように、「岸田首相が、「憲法蔑視」の安倍晋三よりも危険なのは、重大な憲法違反や危険な政策に対する指摘や批判を「丁寧に、適切に」スルーしていくその手法にある。最近わかってきたのだが、岸田首相のすごさは「聞く力」ではおよそなく、すぐに反論・反応してしまう安倍にはおよそできない、「馬耳東風に聞き流す力」をもっているところにあるのではないか」。岸田首相は「プロパ」をうまく利用しているということだろう。しかし、これはまともな民主政治のありようではない。
「熟議」なき日本の民主主義
書棚にあった「熟議」関係の訳書を、トランプの2024年大統領選挙用キャップと並べてみた。ここからいろいろなことが想像できよう。キャス・サンスティン=那須耕介訳『熟議が壊れるとき』(勁草書房、2012年)を再読してみると、10年前に読んだときに線を引いてもいない箇所に膝を打つ叙述を見つけた。やはり「積ん読」に加えて、「再読」(書物との再会) も重要だと改めて感じた。
米国はトランプ政権により民主主義は危機に陥るが、しかし、SNSなどのテクノロジーがもたらす危うさも注目されてきた(デイヴィッド・ランシマン=若林茂樹訳『民主主義の壊れ方』(白水社、2020年)。だからこそ、「民主主義のガードレール」としての規範の存在が重要なのである(スティーブン・レビツキー/ダニエル・ジブラット=濱野大道訳『民主主義の死に方』(新潮社、2018年)参照)。
それにしても、日本のいまのように、「プロパ」が多用・定着するような政治運営では、「熟議」は成り立たない。「熟議」とは、議論を行なうときに、他の参加者の意見をきちんと聞きながら、自らの立場を修正しようとする構えや態度をもって議論をすることをいう。岸田首相が「聞く耳」を強調していたのは最初の頃だけで(「ブルーノート」はどこへいった?)、岸田政権は「プロパ」のオンパレードである。「処理水」海洋放出問題では、漁師たちに対して、「多数者の横暴」を見せつけたように思う。「処理水」の問題では、「集団極化」(group polarization)が起きている。「日本の魚を食べよう」という同調圧力は、問題の本質から大きく離れるグループシンク(集団浅慮)を引き起こしているように思う。「日本の魚を食べて中国に勝とう」などというのは幾重もの問題のすり替え、完全なるミスリーディングである。
最後に、故・増田れい子さんの言葉を紹介した17年前の「直言」から引用しておきたい。
…増田さんはいう。「民主制、民主主義というのは、自転車みたいなもので、乗る人が自分の両足をせっせと動かしていないと前に進まないし、たおれてしまう。自転車操業という言葉は、もっぱら商売や事業にだけ使われてきたが、民主主義を保つためには自転車に乗る要領が必要だとしたら、これは市民の政治用語としても流通させたい」と。そして、「無関心のコートを脱ごうではないか」と呼びかけている。 民主主義のシステムが崩壊しないためにも、私たちは足を動かしていなければならない。憲法12条は、自由や権利は、私たちが「不断の努力」で守り続けなければならないといっている。これには日常的で地道な努力、「普段の努力」も必要である。…
【文中一部敬称略】
《付記》
『北海道新聞』本日(10月9日)付の1面コラム「卓上四季」は「コスパとタイパとファイターズ」である。映像作品の倍速視聴する若者たちは、「分かりにくい過程を飛ばし、心地よい結末だけを追い求める」。スポーツ観戦でも「ファインプレーや点が入った“かっこよくて気持ちいい”シーンだけを見る」という。だが、北海道日本ハムは2年連続最下位でも、188万人が新球場にやってくる。「コスパもタイパも最悪」だが、「列に並ぶ若い人たちは存外満足した様子だった」。地元エールのコラムではあるが、新球場の近く(北広島市(当時は札幌郡広島町)松葉町5丁目)に住んでいた元北海道民としては共感できる。