三笠宮崇仁と憲法9条――憲法制定過程における発言から
2023年10 月30 日


三笠宮崇仁の戦争

週の金曜日(1027日)、昭和天皇の末弟、三笠宮崇仁が100歳で死去して7年になった。大学で歴史学の講義を行い、日本オリエント学会の会長も務めた学者だった。『朝日新聞』社説(20161028日付)は、「学究の道を貫いた生涯」というタイトルで三笠宮を位置づけ、学者としての「その姿勢は戦争への深い反省に裏打ちされていた」としている。19431月に支那派遣軍参謀として南京の総司令部に赴任するが、「その間に私は日本軍の残虐行為を知らされました。ここではごくわずかしか例をあげられませんが、それはまさに氷山の一角に過ぎないものとお考え下さい」と具体的な事例を挙げ、叙述はリアルである(三笠宮崇仁『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)1617頁)。
 「わたくしの信念が根底から揺りうごかされたのは、じつにこの一年間であった。いわば「聖戦」というものの実体に驚きはてたのである。罪もない中国の人民にたいして犯したいまわしい暴虐の数かずは、いまさらここにあげるまでもない」と書き、「聖戦という大義名分が、事実とはおよそかけはなれたものであったこと、そして内実が正義の戦いでなかったからこそ、いっそう表面的には聖戦を強調せざるを得なかったのではないか」と喝破する(三笠宮崇仁『帝王と墓と民衆』(光文社、1956年)177-180頁)。兄の名で行なわれた戦争(「聖戦」)への強い反省の念はここから生まれたのだろう。なお、私は、20199月、南京の大学で招聘講演を行なった際、「魚雷栄」を含む南京大虐殺の現場をまわった(詳しくは、直言「「虐殺」の現場を歩く―南京の旅(2)」参照)。三笠宮が「若杉」という少佐参謀として勤務した支那派遣軍総司令部のあった南京城にも行った

 

「紀元節」復活に反対する三笠宮

 戦争への深い反省から歴史学への道に進んだ三笠宮は、1950年代後半、「神武天皇」が即位したとされる西暦紀元前660211日をもって、「日本建国の日」とする動きが始まるや、「神武天皇の即位は神話であり史実ではない」と発言して、歴史学者としてこれに強く反対した(『デイリー新潮』2015129)。1957年の臨時国会に、「建国記念日」として「紀元節」を復活させる法案が議員立法で提出されると、その年の11月、ある歴史学者の還暦祝いの会合で挨拶して、「どうも学者の紀元節に対する態度は低調のようだ」といって、「紀元節反対運動を展開してはどうか」と呼びかけ、「この問題は純粋科学に属することであり、右翼、左翼のイデオロギーとは別である」と主張している(『毎日新聞』19571113日付学芸欄)。翌195811月、三笠宮は日本史学会で「紀元節復活にも反対すべきだ」と主張したが、議題にとりあげられなかったため、その席上で学会からの脱会を表明した(『読売新聞』19581112日付第1社会面、右の写真参照)。抗議の退会という印象が強かった。

 学会を辞めてまで主張を貫く三笠宮に対して、『読売新聞』195924日付1面コラム「編集手帳」は意外に好意的である。「去年の歴史学会での三笠宮さんの紀元節についての発言は勇気のあるものだった。非科学的な紀元節論議に対して、歴史学者がだまっている法はない、というのである。紀元節郷愁論者は、あなた方が崇拝する皇室の御一人であるこの人の発言を深く考えられる必要があろう」と。

 同じく『読売』1959210日付「編集手帳」も、三笠宮の「学問的情熱は、まことにひたむきで純粋である。何が天皇の弟君であるこの学者の宮様をこれほどまでにかり立てたのであろうか」と問い、「紀元節の問題は三笠宮さんにとっては家庭的にも学問的にも他人事ではないのだ。古代史という科学の目で「真実は何か」を日常生活に追究している宮様としては、紀元節問題こそは、皇族としての、学者としての、旧軍人としての三つの立場と責任をすっきりとさせるものであった」「いろいろな圧迫やいやがらせの中に「学者として死ぬ気」になってこの問題と取り組み、その発言に責任をもって信念を吐露する三笠宮さんの立派な態度に敬意を表せざるを得ない」と結ぶ。「紀元節」反対を貫く三笠宮に明らかに共感する筆致である。渡邉恒雄・読売主筆がまだ一介の政治部記者として永田町を取材していた頃である。

  一連の発言により、三笠宮は右翼からは「赤い宮様」という攻撃を受ける。これは『読売新聞』1959212日付第1社会面である。三笠宮邸に50人もの右翼が押しかけるなど、ただならぬ状況が生まれていたことがわかる。右翼の攻撃が続いている頃に出版された編著のはじめに」において、三笠宮はこう書いている。

 「偽りを述べる者が愛国者とたたえられ、真実を語る者が売国奴と罵られた世の中を、私は経験してきた。もっとも、こんなことはかならずしも日本に限られたことではなかったし、また現代にのみ生じた現象ともいえない。それは古今東西の歴史書をひもとけばすぐわかることである。さればといって、それは過去のことだと安心してはおれない。つまり、そのような先例は、将来も同様な事象が起こり得るということを示唆しているとも受け取れるからである。いな、いな、もうすでに、現実の問題として現れ始めているのではないか。紀元節復活論のごときは、その氷山の一角にすぎぬのではあるまいか。そして、こんな動きは、また戦争につながるのではないだろうか。こんなことを昼となく夜となく考えては、日本の前途に取越苦労をしているのは、私ひとりだけであろうか・・・・・。「真実は何か」これが最近における私の日常生活のモットーである。」(『日本のあけぼの―建国と紀元をめぐって』(光文社、1959年)3頁)。

 「建国記念の日」を設ける改正祝日法は1966625日に成立し、翌67211日に施行された。冒頭左の写真は『毎日新聞』196726日付である。法律が施行される直前に、三笠宮は、1956年に書いた「紀元節復活反対」の論文を新しい書物に再録した。新たな原稿を書いたわけでもなく、法律施行について直接反対を表明したわけでもないが、11年前に書いた批判論文に注目を向けることで、間接的に「発言」したわけである。『毎日』だけがこれを記事にした。この一連の言動(言説と行動)を見るならば、戦争への深い反省に裏打ちされた三笠宮の揺るぎない信念を感ずることができるだろう。実は三笠宮は、日本国憲法9条についても特別の思いを抱いていたのである。

憲法9条と三笠宮

三笠宮は、雑誌『改造』1949年8月号に憲法9条についての一文を寄せている。日本国憲法制定過程における1946年6月8日、枢密院本会議で憲法草案の審議があった際の発言である。三笠宮は第2章「戦争の抛棄」の条文を支持して、その理由を5点挙げている(三笠宮崇仁「「こっとう」の書―戦争の抛棄について」『古代オリエント史と私』(学生社、1984年)216-223頁所収)。長文なので、5点を整理して引用しよう。

(1)「満州事変以来日本の表裏言行不一致の侵略的行動については、全世界の人心を極度に不安ならしめ、且全世界の信頼を失っていることは太平洋戦争で日本が全く孤立したことで明瞭である。従って将来国際関係の仲間入りをする為には日本は真に平和を愛し絶対に侵略を行わないという言う表裏一致した誠心のこもった言動をして以て世界の信頼を恢復せねばならない。勿論之には単に憲法の条文だけでは不十分であり、国民の一人一人が徹底した平和主義者にならねばならぬが、とにかく之を憲法に明記することは確にその第一歩であるということが出来る。」

(2)「第一次大戦後警察だけになった独逸が、ヒットラーによって、いつの間にかあれだけの大軍備を作り上げて侵略戦争を始めたことは、今尚世界の人々の脳裡に生々しく刻まれているのであって、正規軍隊は勿論警察と雖も外国人には相当強く神経にひびくであろうことを我々として十分認識する必要があると思う。」

(3)「戦争形態の大変化である。世界のどこからでも原子爆弾を持った飛行機が無着陸で目的地に攻撃を加える時代となった。故に海岸に要塞があれば安心とか満州や海洋を占領していれば本土は安全とかいう時代ではない。従って新憲法前文にある如く「我等の安全と生存をあげて平和を愛する世界の諸国民の公正と信義に委ね」なければならないのである。正義の強みは誰にも分るが「無」の強みということも必ずしも忘れられない。たとえば言えば、深山に衣一枚で座禅をして居る坊さんと、町の大通りを剣術もろくに出来ないくせに大刀をぶち込んで大言壮語しながら歩いている浪人とどちらに切りつけやすいかという問題になる。又一身を挙げて世界の信頼に托することになれば、武力があれば出来る横紙破りも出来なくなり、日本国民の正義に対する敏感性は却って強くなるかも知れぬ。」

(4)「国内的のことであるが、進駐軍撤退後の国内治安維持の問題である。此の問題になるとすぐ先日のデモのことが例に上げられるが、私は先日の「デモ」も共産党は単なる団扇で、火を煽った事は確実だが火をつけたのではないと思う。火は今迄の軍閥なり政治家がつけたのである。政治家が真に国民の為の善政を行ったら共産党でも何でも乗ずる暇はない。此の一例として私が自ら深刻に体験したことを御参考に申し上げたいと思う。」

(5)「日本軍隊は既に解体復員したと雖も中には相当注意すべき人の居ることを敢えて私は本席で申し上げたい。私は二ヶ月位前或る予備の将官から「将来米蘇戦争が起こったら日本は之により再び満州に手を拡げることが出来よう」という話を聞き全く驚愕したのである。之等の一例を以て復員軍人全部が再軍備を企図しているとは思われぬ。しかし将来復員軍人又は軍人遺家族に対する国家としての救護が不十分不遇の境遇に陥る如きことありとせば、再び軍国主義時代の我が世の春の夢忘れがたく如何なる計画を懐くや測り知れないということを考えねばならぬ。」

「以上の五つの理由から新憲法第二章は心配すれば際限ないのであるが、是非必要なら将来改正の機会もあろうし現状に於いては適切なるものとして私は賛成する次第である。」


皇室典範改正への三笠宮の意見書

  三笠宮は憲法9条についてだけでなく、国民主権の憲法のもとで皇室典範をどう改正するかについても、長文の意見書を出している。『日本経済新聞』のサイト(2016113に全文が掲載されている。1万字近いもので、日本国憲法公布の日(1946113日)に発表され、タイトルは「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」である。
   194668日に憲法草案が審議された枢密院本会議で三笠宮は、国民主権への原理的転換を踏まえた皇室典範改正の方向と内容を8点挙げている。(イ)女帝の問題、(ロ)庶子の問題、(ハ)譲位の問題、(ニ)皇位継承及摂政就任承認の問題、(ホ)立后及び皇族の婚姻認許の問題、(ヘ)親王と王(内親王と王女)の区別の問題、(ト)称号、宮号の定義の問題、(チ)皇族の選挙権及び被選挙権の問題、である。ここでは(イ)と(ハ)、(チ)の3点だけ紹介しておこう。いずれも近年焦点となっているものばかりである。

 まず、女帝の問題では、「実際論から一つだけ述べておく」として、婦人代議士も出ており、将来女性大臣も女性総理も出る時代になるから、「その時代になれば今一応女帝の問題も再検討せられて然るべきかと考へられる」と述べている。この論点では立ち入った指摘は見られず、すべて「将来」に委ねられている(なお、2005年に実現可能性が高まったが、その後低迷)。

 「皇位継承の原因」を崩御に限ることについては、「許否権すらもない天皇に更に「死」以外に譲位の道を開かないことは新憲法第十八条の「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」といふ精神に反しはしないか?」と問題を投げかけ、「天皇に残された最後の手段は譲位か自殺である。天皇に譲位といふ最後の道だけはあけておく必要がある。「天皇は皇室会議に対し譲位を発議することが出来る」以上の自由をも認めないならば天皇は全く鉄鎖につながれた内閣の奴隷と化するであらう」と激しい。

 これは、明仁天皇(現・上皇)が201688日にビデオ録画「象徴としてのお務めについての天皇陛下のおことば」で訴えたかったことと重なる(直言「象徴天皇の「務め」とは何か―「生前退位」と憲法尊重擁護義務」参照。ビデオ映像は文中のリンクから読める)。三笠宮が70年前に主張したことを採用しなかったツケといえる。明仁天皇は短い「おことば」のなかで「象徴」という言葉を8回も使い、「象徴天皇の務め」が不断に、かつ安定的に継続することを訴えている(皇室会議については、直言「天皇退位めぐる法と政治―安倍流権力私物化はどこまでも」参照)。なお、現在、女性天皇問題、皇族女子の婚姻問題、女性宮家の創設問題など、三笠宮が「皇室典範改正」の主張のなかで危惧していたことが表に出てきているが、ここでは立ち入られない。

 「皇族には被選挙権及選挙権を認めないこと」についての主張は面白い。「私は終戦後は皇族にも之等の権利が認められるのだとあつさりと考へて居たが最近になつて之等ははつきりと認めてはいけないといふ結論に達した。何故なれば天皇が政治的立場を離れて象徴といふ地位になられ、政治的には全く無色中立たることが(勿論昔からその通りには違ひないが)一層強く要求されたからである。いくら偉くても皇族は生れてから社会の荒波にもまれて居ないお坊ちやん育ちである。断じて皇族を政治界に出してはならない。」と。

  皮肉なことだが、政治家の家に生まれて、「社会の荒波にもまれて居ないお坊ちやん育ち」の世襲政治家が自民党の4割近くを占め、このところの総理大臣の大半が世襲議員だという現実も、別の意味で深刻である。

秋篠宮文仁の「懸念」

 三笠宮には3人の息子がいたが、父親を残してすべて死去した。長男の寛仁は親しみを込めて「ひげの殿下」といわれたが、皇族としての制約に反発して、1982年に「皇籍離脱発言」をして新聞の1面トップを飾った(『毎日新聞』1982424日付夕刊)。発言の数日後に入院して闘病生活が続き、66歳で死去。次男の桂宮宜仁も同じく66歳で死去した。三男の高円宮憲仁はスカッシュ練習中に倒れ、47歳で急逝した。

  三笠宮のような歴史学者としてではなく、法学部で憲法を履修した秋篠宮文仁は、201811月、現天皇の即位に伴う大嘗祭への公費支出について、憲法との関係を率直に指摘して、踏み込んだ発言をしている。憲法20条の政教分離原則を念頭において、宗教性の強い大嘗祭については、お手元金としての「内廷費」で賄い、公費(宮廷費など)を支出すべきではないと主張したのである(『朝日新聞』20181130日付)。この発言をめぐってさまざまな議論が出てきたが、私自身は直言「秋篠宮発言をどうみるか―天皇・皇族の憲法尊重擁護義務」をアップしてあるので参照されたい。

  そもそも憲法41項は、天皇が「国政に関する権能を有しない」と定めて、天皇の非政治性を強く求めている。皇族もまた同様である。だとすると、三笠宮の「紀元節復活反対」の主張や、秋篠宮の「(大嘗祭は)内廷費でまかなうべきだ」といった主張も、内閣・国会が関わる国政に関する事項に深くコミットすることになる。皇紀2600年記念行事が行なわれた1940年、三笠宮はこの式典をどう見ていたかは不明だが、軍隊での経験から歴史学への道に進み、その学問的誠実さを貫くなかで、前述のように「紀元節」復活には正面から反対した。これが問題とならなかったのは、ひとえに天皇の弟という立場のなせるわざであって、憲法の観点から見ればかなり問題ということになる。

   明仁天皇についても同様の問題が何度かあった。一つは2013428日の「主権回復の日」列席である。天皇は「国民統合の象徴」(直言「わが歴史グッズの話(41)象徴天皇制を象徴するもの」)であることは、とりもなおさず「47都道府県の象徴」でもあるわけだが、「428日」は1952年以来、沖縄を日本から切り離して米国の統治のもとに置く「分断の象徴の日」であり、沖縄県では「屈辱の日」として知事を先頭に反対集会を開催する日である。それを「主権回復の日」として祝ってしまう感覚は尋常ではないが、その式典に内閣から出席を求められた天皇は、内閣の担当者に、「沖縄の主権はまだ回復されていません」という言葉を伝えたという。「国民統合の象徴」にふさわしくないことを認識しながらも、内閣の「助言と承認」(憲法3条)に従って天皇は出席したわけである(直言「「主権回復の日」?―自衛隊『朝雲』コラムも疑問視」)。これを報ずる新聞各紙の論調は大きく分かれた(直言「「記念日」の思想―KM(空気が見えない)首相の危うさ」参照)。樋口陽一は、この式典について、「天皇の公的行為の非限定的な拡大によって生じた領域で、「ロボット」を入力者の特定の政治的意図に従って動かそうとしたものになった」と評している(樋口陽一『リベラル・デモクラシーの現在』(岩波新書、2019年)149-150頁)。

 2015815日の全国戦没者追悼式における「おことば」(329)をめぐっても、明仁天皇について「ある事情」が働いていたが、ここでは繰り返さない(詳しくは、直言「「8.14閣議決定」による歴史の上書き戦後70年安倍談話」参照) 

 元号についても天皇が関わる余地はない(直言「元号は政権の私物なのか―元号法制定40周年」)。勲章に至っては、天皇の名で授与されるが、時の政権の意向が強く働くことは、もらう人物を見れば明らかだろう(直言「勲章は政治的玩具か―「イラク戦犯」に旭日大綬章」参照)。ちなみに、こういう「直言」を出し続けている私は、授与の提案をされることはないだろうが、70歳をはるかに過ぎても叙勲を受けることはない(断言)

《付記》冒頭右の写真は、『時事新報』194754日付1面である。前日の日本国憲法施行の記念式典(皇居前広場)に登場した昭和天皇である。『時事新報』は1946年に復刊されたのだが、1955年に産業経済新聞社に吸収されている。

【文中敬称略】


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