NHK朝の連続テレビ小説について
朝8時という時間にNHKが連続テレビ小説(朝ドラ)を放送し始めたのは1961年。すでに62年になる。私の性格から、15分という短い世界とは縁がなかった。家族は毎回見ているが、私の場合、横から見て途中参入か、あるいは最後までスルーということを繰り返してきた。初めて第1回から真面目に見たのは、沖縄が舞台となった第65作「ちゅらさん」(2001年)だった。その次の第66作「ほんまもん」(2001年)については、直言「雑談(15)「食」のはなし(3)」で触れた。第82作「ゲゲゲの女房」(2010年)については、直言「ゲゲゲのゲーテ―教員養成に必要なこと」を書いた。東日本大震災を絡めた第88作「あまちゃん」(2013年)も最初から見た作品である。第89作「ごちそうさん」(2013年)は途中参加だったが、大阪空襲に関連して、直言「NHK連続テレビ小説「ごちそうさん」と防空法」をアップした。続く第90作「花子とアン」(2014年)も第1回の冒頭シーンが、部屋に落ちた焼夷弾を布団をかけて消すというシーンだったので、最後までつきあった(直言「NHK連ドラ「花子とアン」と防空法―大阪空襲訴訟最高裁決定にも触れて」)。関連して、第97作「わろてんか」についても、直言「武蔵野の空襲と防空法―「わろてんか」の「建物疎開」にも触れて」を出した。その後は見たり、見なかったりが続いていた。
2023年の第108作「らんまん」については見ていなかったが、途中から「はまった」。東大の植物学研究室での話がメインになってくる第7週あたりからである。植物学の世界におけるさまざまな問題や、大学の人事をめぐる問題など朝からけっこう楽しめたのだが、第25週(ムラサキカタバミ)第123、124話で関東大震災が描かれ、竹槍を持った自警団の鋭い眼光のなかを主人公たちが避難していくシーンや、新聞記者になった長男に「甘粕事件」(憲兵隊の甘粕大尉による大杉栄一家殺害)を語らせる場面などに、脚本家の時代センスが光っていた。
なお、朝の連ドラ2024年春スタートは「虎に翼」。日本初の女性弁護士にして家庭裁判所の初代所長の三淵嘉子がモデル(参考文献は、清永聡編著『三淵嘉子と家庭裁判所』日本評論社、2023年)。法律家を目指す女性に勇気を与えてくれるだろう。ちなみに、ドラマ「らんまん」の主演の神木隆之介と浜辺美波の2人が演じた映画『ゴジラ-1.0』については、いずれこの「雑談」で言及することにしよう。
「らんまん」で叔父と「再会」
それはともかく、個人的には「らんまん」第26週「スエコザサ」第126話が重要となる。昭和33(1958)年夏、練馬・大泉の牧野邸に一人の女性が訪ねてくる。アルバイト募集の広告をみてやってきた藤平紀子(ナレーション担当:宮崎あおい)である。次女の千鶴(二役:松坂慶子)が面接をする。標本の山を見せながら、千鶴はいう。「あなたにお願いしたいのは、父の遺品整理のお手伝いなんです。今度、この標本を都立大学に収めることが決まったんです。ここにあるのは、震災前のもの。こっちは震災後のもの。大学に収めるときは、植物をバラバラにしてここから出す前に、採取地と日付を1点1点に挟んでほしいらしいの。また、全国からたくさんの標本が送られてきているので、牧野と送られてきたものをわけないといけないの」。紀子は逡巡するが、最後はきっぱりとこういう。「戦争中もずっと守りぬいてきたってことですよね。東京大空襲の時も。ご家族が守り抜いてきたものですよね。それを考えたら私帰れません。私も戦争を生き抜きました。次の方に渡すお手伝い。私もしなきゃ」。
その回はそれで終わるが、その年(1958年)に牧野邸から東京都立大学に送られた大量の標本の受け入れ作業をやったのが、私の叔父、水島正美(1925-1972年)だった。当時、都立大学理学部助手。冒頭左の写真はその受け入れ作業の様子である(展示会の写真から)。
牧野標本館「同定」第1号は「イトハコベ」
このドラマを契機として、私は叔父、水島正美のやってきたことをより知りたいと思うようになった。9年前の直言「雑談(104)おじさん、おばさんがいない社会」で叔父のことを書いた。庭や温室で植物を見ているか、原稿を書いている姿しか記憶にない。私の質問に何でも答えてくれるやさしい叔父だった。この「直言」を書いてから9年間、たまに思い出す程度だった。ところが、「らんまん」が始まり事情は変わった。妻が、牧野標本館の企画展「日本の植物分類学の父―牧野富太郎が遺したもの」の開催を新聞広告で見つけ、是非行きましょうということになり、8月19日に企画展を訪れた。叔父からもらった古い植物図鑑と上記「直言」をプリントアウトしたものを持参して。そして、そこから不思議な出会いと再会が始まった。
ドラマの影響は絶大で、駅から標本館まで、学生の姿はあまり見かけないのに、一般の方々が何グループにもなって歩いていく。企画展も盛会だった。私は職員の方に名刺と「直言」を渡したところ、「水島先生の甥御さんがこられた」ということで、標本館の心臓部である標本保存室に案内された。助教の加藤英寿さんから、叔父が生物種の同定(identification)や検出(detection)を行なっていたこと、その標本の数々、そして、牧野標本を同定した「第1号」を見せていただいた。それが冒頭右の写真である。八木貞助という人が1905年に信州戸隠で採取して牧野富太郎に届けた「イトハコベ」で、叔父が学名を付けて学問的に位置づけている。右下にDet.:M.Mizushimaとあり、「1」とある。これが何万点もの標本のなかの「同定」の第1号ということになる。なぜ、叔父はイトハコベを選んだのか。
9月23日、再び都立大学に行き、牧野標本館客員研究員の加藤僖重さん(獨協大学名誉教授)と長時間お話する機会を得た。加藤さんはいわば「都立大学水島ゼミ」のお一人であり、「早大水島ゼミ」を終了した私として、叔父のゼミ生(といっても一回り年上だが)にお会いすることができてとてもうれしかった。加藤さんは、この「同定」第1号のことについて、次のように語っている。
「正美先生がまだ幾年かかるかどうか検討もつかないほど膨大な標本の束を前にして先ず手掛けられたのは、専門とされていたナデシコ科植物でした。八木貞助氏のイトハコベ(Stellaria filicaulis Makino)を標本番号 1番としたのは偶然であったかもしれませんが、先生が特に専門とされていたハコベ属のタイプ標本(新種発表報告に使用された標本)であったからでしょう。ラベルにはTYPE朱印が捺されていませんが、写真に写っております赤色の袋がタイプ標本であることを示しております。Det. M. Mizushimaと印字されていますが、これこそ、水島正美先生が同定されたことの証です。
イトハコベは1901年、牧野富太郎先生が『植物学雑誌』第15巻113ページに新種と発表されたものです。当時はタイプ標本の概念が確立されていなかったのですが、正美先生が数多い本種の標本の中から、この標本をタイプとされたのでしょう。」
右の写真は、叔父が津久井郡で採取して、自ら同定したものである。採取者と同定者が同じ標本である。叔父は1960年に理学部助教授となり、牧野標本館の「同定」の責任者になった。膨大な標本のなかから、ひとつ一つ学名をつける気の遠くなるような作業を続けていたわけである(1972年、東大教授となる前に死去) 。
シーボルトコレクションはどうやって日本に届いたのか
叔父のゼミ生だった加藤さんはシーボルトコレクションの研究で知られ、お会いした当日に頂戴した著書がこれである。真ん中にある『牧野標本館所蔵のシーボルトコレクション』(思文閣、2003年)の扉には「本書を恩師水島正美博士に捧げる」とあり、あとがきには、「学生時代にお世話になった恩師の故水島正美博士が病床から、「君の興味のあることで、他の人がしないことを早く見つけるように」と言われたことが直接の動機である」と、植物学と歴史学を架橋するような著作が生まれた背景をお書きになっている。私もゼミ生や院生に「持続可能な好奇心と探究心」を説いてきたので不思議な気がした。
標本庫の電動式書架を動かすと、「シーボルトコレクション」25巻が並べてあり、圧巻だった。そのなかから一枚を取り出していただき、撮影したのがこれである。
コレクションの大部分は、シーボルト(1796-1866年)が日本に滞在したとき、2回にわたり収集した植物標本である。江戸時代、鎖国中であった日本にやってきたシーボルトが、滞在中に収集した標本で、大変貴重である。
コレクションの解説には、「シーボルトやマキシモビッチ、シーボルトの助手であったビュルガーの採集品とともに、プラントハンターのビセットやアルブレヒトの採集品、さらにはシーボルトと交流のあった水谷助六、大河内存真、伊藤圭介、桂川甫賢、平井海蔵ら日本人の作成した標本も含まれ、植物分類学上の価値はもちろん日欧文化交流の証としての価値も大いにあるものです」とある(「牧野標本館所蔵シーボルトコレクション」はじめに)。
では、どのようにしてこれが日本にもたらされたのか。上記解説には、「1963年12月にコマロフ植物研究所のタクタジャン(Armen Takhtajan)博士より、当時の牧野標本館のキュレター[管理責任者]であった水島正美博士(1921-1972)[ママ]に送られることになり、約100年ぶりに日本に帰ってきたのです」とある。
では、なぜ叔父のところに届いたのか。牧野標本館の加藤英寿さんによると、叔父が、学会で、旧ソ連のロマロフ植物研究所(レニングラード(現・サンクトペテルブルク))のタクタジャン博士と出会って意気投合。シーボルトコレクションについて話題となり、牧野富太郎の標本にもダブリがたくさんあって、叔父はそれを活かして何組ものいわば牧野コレクションをつくっていたので、「標本交換」という方式にのっとり、叔父のもとに送られたようである。そのことについて、叔父のゼミ生だった加藤僖重さんはこう語っている。
「1963年8月、東京大学で「環太平洋学術会議」が開かれました。小生、当時は大学院生でしたが、少し裏方のお手伝いをしました。ソ連の科学アカデミーからも複数人の代表が訪れていました。学術会議では公用語は英語でした。小生は講演会場でスライド係でしたので、一つひとつの講演に使用されるスライドの順番を間違わないようにと気を使いました。あの時、小生は少し離れていましたので、正美先生がソ連の研究者たちと楽しそうに話されていた内容までは聞き取れませんでしたが、大会の後、都立大学での講義の中で、シーボルトの標本を入手できそうだ、と興奮気味に言われていたのをよく憶えています。この年の暮に、2,700余のシーボルトコレクションがDr.Takthajanから送られてきました。25箱のコレクションがその後の小生の人生を大きく変えました。正美先生とソ連科学アカデミーとの交流がなければ、今、小生は何をしていたでしょう、想像もつきません。」
なお、旧ソ連から届いたことがよくわかるのがこの写真である。25巻の標本がこのように梱包されて船便で日本に届けられたわけである。そこには当時のレーニン切手が使われていた。左上にMasami Mizushimaという宛名が見える(牧野標本館は当時、世田谷にあった)。
台湾大学との植物研究
叔父は、台湾でも植物採集や学生への教育を行なっていたことを偶然知った。叔父の名前で検索をかけてみると、台湾の研究者が叔父のことをかなり詳しく紹介している論稿を見つけた(「植物分類學者廖日京的學思歷程(下)」)。叔父は、台湾大学の客員教授もしていたようで、「植物地理学」や「植物学特論」をかの地で講じていたことをこれで初めて知った。この中国語のサイトを下の方にスクロールすると、滝が見える道でカメラをかまえ、あるいは集めた植物をビニール袋に入れているのは間違いなく叔父である。さらに下の方には、同じく植物学者(苔の研究)だった叔母との写真もある。牧野富太郎が台湾に植物採集に行くことが、「らんまん」22週(オーギョーチ)第108、109話で描かれている。叔父も台湾の植物学者との交流を続けていたのだろう。
牧野富太郎の遺訓――「赭鞭一撻」
9年前の「直言」には、「私が研究者を目指したのは、小さい時から書斎にこもって原稿を書いたり、庭の温室をまわって植物の観察をしたりしている正美おじさんの影響があるように思う」とある。膨大な牧野標本を1958年からこつこつ整理・同定する仕事を続けながら、「自分が興味あることを見つけてそれを追い求めよ」という自由な指導方針で学生・院生と向き合っていたことを、「都立大学水島ゼミ」の元ゼミ生から直接うかがって実感した。叔父のモットーは、牧野富太郎のそれに通ずるものがあるように思う。
牧野標本館の展示会には、1881-2年に高知県佐川で、植物学を志すための決意を書き記した文章が展示されていた。植物学のみならず、あらゆる学問分野に通ずる普遍的なメッセージだと思うので、ここに引用しておこう。
赭鞭一撻 (しゃべんいったつ)《追記》 「Web日本評論」の不定期連載「すごい!大学の図書館、博物館」の第3回「植物のありのままを遺す/東京都立大学・牧野標本館」(2024年5月14日)がアップされた。参照されたい。(2024年6月1日追記)
一 忍耐を要す(何事にも忍耐が必要であるが、植物研究には欠くことができない)
二 精密を要す(いい加減に済まさず、細かい点にまで注意を及ぼすべきである)
三 草木の博覧を要す(植物について偏らず観察して知るべきである)
四 書籍の博覧を要す(書籍についても偏らず読み知るべきである)
五 植学に関係ある学科は皆学ぶを要す(植物に関係する学問は、他分野であってもすべて学ぶべきである)
六 洋書を講ずるを要す(和漢書の他に洋書も読み理解し後世に我々が世界の最先端であるべく努めるべきである)
七 当に画図を引くを学ぶべし(植物を表す最も適した図が自分で描けるように努力すべきである)
八 宜く師を要すべし(疑問が生じた場合は、年齢や立場の上下を越えて教えを請うべきである)
九 吝財者は植学者たるを得ず(財を惜しむ者には植物学者である資格はない)
十 跋渉の労を厭う勿れ(方々を歩き回ることを嫌がってはならない)
十一 植物園を有するを要す(自分の植物園を持ち、そこで植物を培養してよく観察すべきである)
十二 博く交を同志に結ぶ可し(ひろく同志と交流を持ち、知識を広げるべきである)
十三 迩言を察するを要す(植物の呼び名や薬効などは、例え専門家の言葉でなくてもかならず記録すべきであり、ちょっとした 何でもない言葉を馬鹿にしてはいけない)
十四 書を家とせずして、友とすべし(書物に書いてあることが全てを鵜呑みにしてはいけない。誤りがある場合には正すべきであり、書物を先生でなく友人とすべきである)
十五 造物主あるを信ずる母れ(真理の追究の妨げになるので、万物を創造した者の存在を信じてはいけない)