ビジネスライクな「空爆」――秋田・土崎空襲の現場、再訪
2023年12月11日

「晋ちゃんの野望」の終わり

ょうど10年前に国会の売店で売られていたお菓子「ねじれ解消餅」の副題は、「晋ちゃんの野望」だった。前回の直言「安倍晋三の「野望の階段」の終わり――米ドラマ『ハウス・オブ・カード』を診る」の末尾で、「時間はかかったが、ようやくその「野望」も終わりが近い」と書いた。先週末から永田町に激震が走っている。「忖度」文化に浸っていたメディアも検察もようやく覚醒し、1213日の国会閉幕の翌日から「政変」となるだろう。帝国憲法下で「同輩中の首席」だった首相と異なり、日本国憲法682項は首相に「任意に国務大臣を罷免することができる」という強力な権限を与えている。「辞任」や「事実上の更迭」とメディアに書かれても、この「任意に」が強い根拠となっている。198211月の第1次中曽根康弘内閣発足のときに「田中曽根内閣」と揶揄されたのは、田中角栄の後押しで生まれた弱小派閥の内閣だったからだが、発足後、角栄が脳卒中で倒れ、ロッキード事件で実刑判決を受けるや、中曽根は本性を発揮して長期政権となった。安倍晋三が死に、安倍派が崩壊過程に入ったこの1年半の動きは、これと重なる。だが、岸田文雄には中曽根のような能力はない。今さら、Netflix『ハウス・オブ・カード 』を安倍に学んで見始める時間も度量もないだろう。 

というわけで、政治ネタはまたの機会に譲り、先週の127(日本時間8)の真珠湾攻撃82周年を踏まえながら、早速本題に入ることにしよう。

 

無意味な「消化試合」による殺戮

122日、秋田弁護士会で講演した。12年前の同じ時期にも講演している(直言「雑談(89)なまはげの「正しい暴れ方」?」参照)。コロナ禍以来、遠方の講演でも日帰りにしてきたが、久しぶりに一泊して、40年前に東京・府中市の保育所運動でご一緒した澤木孝直さんの案内で、角館の武家屋敷などを見学した。その前に、土崎港に近い「秋田市土崎みなと伝承館」を訪れ、土崎港被爆市民会議事務局長の小野哲さんにお会いした。名刺には、「日本最後の空襲(秋田)土崎空襲を語り継ぐ」とある。通常爆弾による空襲なのに「被爆」という表現を使っている。

土崎空襲については、21年前に直言「土崎空襲と「誤爆」の論理」をアップして、「米軍は、日本のポツダム宣言受諾が確定したのに、「終戦」前日の14日、「消化試合」あるいは「在庫一掃」よろしく、軍事的に無意味な爆撃を行っていた」と指摘した。

 米軍は、814日の正午前から山口県岩国市(死者517)、大阪市京橋等(200人)、夜10時半頃から翌15日未明にかけて秋田市土崎港周辺(250人)15日深夜0時半頃からは埼玉県熊谷市(266人)群馬県伊勢崎市(40人)を「空爆」して、その帰途に神奈川県小田原市(12人)に残弾を投下して全作戦を終了している。この「終戦」前日から当日にかけての空襲によって、戦争を生き延びたはずの多くの命が失われている。「何ともビジネスライクな殺戮である」と私は書いた。ちなみに、下関海峡などへの機雷投下作戦が14日夜から15日当日の2時過ぎまで行なわれている。まったく無意味な作戦である。余談だが、この時の機雷の後始末を、映画『ゴジラ-1.0のなかで、掃海艇に乗った主人公(神木隆之介)がやっている(まるで彼がモデルのようだ)。


土崎空襲の展示

 土崎みなと歴史伝承館の1階が土崎空襲展示ホールになっている。冒頭左の写真がそれである。空襲で炎上した旧日本石油秋田精油所の倉庫の一部を移築して、高熱で真っ黒に焼けただれた鉄筋コンクリートに触れられるようになっている。投下された250ポンド爆弾も展示されている。ケースに入れられた鋭く尖った破片の数々は、これにより切り刻まれる人体を想像して身震いする(直言「わが歴史グッズの話(34)艦砲と空襲の破片、そして原爆瓦」参照)。焼夷弾の火炎の恐ろしさだけでなく、破砕爆弾による市民の殺戮に思いを馳せる。なお、5年前に中島飛行機武蔵製作所に対する破砕爆弾による攻撃について、直言「武蔵野の空襲と防空法」において、「東京大空襲のように焼け死ぬよりも、ここでは、爆弾の破片で首が飛んだりした死者が多かった」と書いている。爆発で抉られた墓石は鮮烈である。「破片の恐怖」をリアルに感じることができる。

 私が土崎みなと歴史伝承館を訪れたのは123日午前だったが、その日午後1時半から、秋田公立美術大学付属高等学院の3年生10人が制作した土崎空襲と平和についてのポスター展が準備されていた(『秋田魁新報』2023121日付)。生徒たちと空襲体験者との交流も予定されていたが、私は、帰りの新幹線の関係から角館に向かった。

安保関連法をめぐり熱い夏になっていた201587日、東京弁護士会主催の「戦争資料展」に協力した。研究室の「歴史グッズ」のなかから、焼夷弾ガスマスク伝単や防空必携など、空襲・防空法関係のグッズを厳選して貸し出し、弁護士会館2階講堂(クレオ)に展示された。見学にきた中学生のグループに、私が解説をした。左の写真は、『LIBRA(東京弁護士会発行)201510月号のグラビアである。この企画は、当日のNHK首都圏でも放映された。先週の3日も、時間さえあれば、土崎空襲について、秋田の高校生たちと議論してみたかった。ポスターを作った高校生の皆さんには、私のホームページのサイト内検索の窓に「防空法」「空襲」と入力し、関係する「直言」読んでほしいと思う。


「終戦」当日の空襲から見えてくるもの

さて、秋田市土崎をはじめ、814日から15日にかけて行なわれた空襲から見えてくるものは何か。米国の戦争目的、即ち、早く日本を降伏させる、米兵の犠牲を少なくするなど、原爆投下の正当化に使われた理由づけはここでは通用しない。日本政府はポツダム宣言受諾をスイスとスウェーデンの日本公使館経由で連合国側に通告しており、天皇が翌15日正午に国民に対してラジオ放送を通じて発表することになっていた。それは米国政府も知っていた。「空爆」目標にした都市に軍事的意味はない。正式の降伏文書調印が9月2日だとしても、市民の命を奪う「空爆」を続けるのはにもかかわらず、14日から15日にかけて1200人以上を殺害する「空爆」を行なったわけである。

私の問題意識は、米軍の「空爆」(日本側は「空襲」)に対して、「逃げるな、火を消せ」と義務づけた改正防空法(1941)8条の3にあったために、逃げ遅れて焼け死んだ人々の存在が大きい。これは大阪空襲訴訟の原告側の主張を支える理由として強調してきたものである(水島朝穂・大前治共著『検証 防空法』(法律文化社、2014参照)。そういう観点から、松山空襲などの体験者からの聞き取りも行なった(直言「防空法の「逃げるな、火を消せ」に抗して―松山、大垣、八王子の空襲」)。空襲の伝単に真っ先に挙げられている青森。空襲が近いと避難を始めた人々に対して、物資配給を停止すると脅して自宅にもどるように強要した青森県知事。人々が家にもどったところにB29が飛来して126人が死亡した(『朝日新聞』2015729日付参照)。これは「空襲」される側の問題、まさに防空法制の問題である。

  今回再訪した土崎への空襲は、「終戦」直前の「消化試合」だったことである。つまり、こちらは「空爆」する側の問題である。この点については、大阪空襲訴訟の原告側に依頼されて大阪地裁に提出した私の意見書でも指摘している(直言「退去を禁ず―大阪空襲訴訟で問われたこと」

  土崎空襲の地を再訪してみて、改めてここで亡くなった人々のことを思った。秋田県では、この土崎空襲が唯一の大規模空襲とされている(『土崎空襲の記録』土崎みなと街づくり協議会発行より)。旧日本石油秋田製油所があったから狙われたという面もあるが、そもそも戦争が終わる前日と当日に「空爆」を続行する意味はどこにあったのだろうか。この「空爆」に軍事的な合理性も必要性もない。「消化試合」の感覚。新しいM69集束焼夷弾が供給されはじめ、B29の新型も完成したなど、「早く戦争を終わってほしくなかった人々」による、その人々のための「空爆」だったのではないか。そんな「空爆」による土崎空襲で250人の命が失われたのである。あえて米軍側の視線を感ずる「空爆」という言葉を使って、空から襲われる恐怖に震える側の「空襲」という言葉と対比してみた(直言「平和における「顔の見える関係」」も参照)

「空襲」のゲーム化――内なる「空爆」思想

  秋田から帰ってこの原稿を書いている過程で、戦前の日本で「大空襲ゲーム」というものが売られていたことを知った。この写真は、兵庫県赤穂市にある赤穂玩具博物館を訪れた方のブログにあったものである(20191223)。陸軍の96式陸上攻撃機や95式戦闘機の絵が使われているので、重慶爆撃(1938年~)の頃のものと推察される。重慶爆撃は日本が初めて本格的に行なった「戦略爆撃」である。それを子どもたちが「大空襲ゲーム」として遊んでしまう。人々のなかに、上から目線の「空爆」思想が生まれていたことを示す。19424月の「ドーリットル空襲」(早稲田中学4年生が死亡)以来、日本では、米軍による「空爆」を「空襲」として語るようになる。「爆弾を落とされる側」に立ち続けたからである。だが、少なくとも1938年から4年間は「空爆」の思想をメディアも国民も抱いていたことがわかる。

さらに検索をかけてみると、『台北大空襲』(Raid on Taihoku) というコンピューターゲームがあることも知った。2023216日発売で、「終戦2カ月前の日本統治下の台湾・台北市街に対する米軍のB24による激しい空襲」をテーマとする「アクション・アドベンチャーゲーム」だそうである。「第二次世界大戦を題材にした台湾史上初のゲーム」「日本統治下、戦火の台北を精巧なアートで再現し、かつてのリアルな空襲体験ができる」というのが売りである。米軍によるこの無差別爆撃で、死者3000人の犠牲を出していたことをどれだけの人が知っているだろうか。

戦争はいつも同じである。始める側は人々の興奮と熱狂をあおるが、やがて身近で戦死者が出始め、自分の住むところを「空襲」をされるようになると厭戦感情が生まれてくる。重慶爆撃の「戦果」に喜び、「大空襲ゲーム」で遊んでいた子どもたちも、その7年後に東京大空襲や大阪大空襲などで命を奪われていたかもしれない。いま、戦争ゲームを楽しんでいる人が、本当の戦争で命を失うことが起きるのである。人気ゲーム「荒野行動」のハンググライダー作戦も「10月7日」のヒントになったのかもしれない。

【文中敬称略】


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