「次世代」と広島を訪れ、ヒロシマを考える――2024年の抱負
2024年1月1日

年明けましておめでとうございます。今年も「直言」をどうぞよろしくお願いいたします。

119日の最終講義を前に、いささか緊張している年明けである。先週は日本政治の暗部と恥部をこれでもかと見せつける「直言」で気が滅入ったのではないだろうか(「「日本を取り戻す。」自民党のブーメラン?―キックバックも大麻も「文化」か」)。永田町をめぐる激震は、安倍長期政権の「悪業と悪行」の必然的帰結であって、新年に入ってさらなる事実が明らかになり、「アベなるもの」(ドイツ語でDas Abeの克服の道筋が見えてくるかどうかは予断を許さない。これからも執拗に書き続けていきたいと思っている。

今回は、「直言」更新の月曜日が11日の元旦である。ちなみに、11日に更新したのは過去3回ある。2018年の「憲法存亡の年のはじめに―直言更新1110回」2007年の「憲法研究者の「一分」とは(その1)」、そして2001年の21世紀の「ほら話」である。この「近未来予測、ほら~ぁ話」をアップして23年が経過したが、「2つの戦争」(ウクライナとガザ)が今年前半にひとまず「停戦」となる可能性が高いものの、新たな複数の正面(南コーカサス、バルカン、中東から北部アフリカ)で紛争が勃発・拡大する可能性があることだけを示唆して、今回は2024年の個人的抱負を語ることにしたい。

孫たちと広島・ヒロシマへ

先週の1226日から29日まで、中1の渡邉晃樹と小5の実里菜と広島を訪れ、娘夫婦の運転で各地をまわった。6年半勤務した広島大学では、6年勤務した北海道と同様、車を使って移動したので、広島県内の主な道路(県道○号線まで)よく覚えている。「勝手知ったる」の感覚で案内することができた。福山城の近くでレンタカーを借りて、海沿いを竹原市忠海まで行き、フェリーで大久野島に渡って国民休暇村に宿泊した。ここを初めて訪れたのは1993131日だった。前日に広島市内で開かれたシンポジウム「ヒロシマから生物・化学兵器を考える」のコーディネーターをやり、翌日の大久野島フィールドワークに参加した。毒ガス資料館の村上初一館長(当時)の案内で、毒ガス製造施設跡をみてまわった。映画『ゴジラ-1.0』の主人公のような経歴の持ち主である信太正道さんと出会ったのもこの時だった。

桟橋に着くとすぐに毒ガス資料館を訪れた。孫たちの顔は引きつっていた。なぜ広島で原爆ではなく、毒ガスなのか怪訝そうな顔をしていたが、資料館の展示をみるなかで、少しずつ理解してもらえたようだった。それでも、毒ガス被害にあった人々の写真はきつかったようである。化学兵器禁止条約が発効して27年になるが、大久野島で製造し、中国で使用し、戦後遺棄してきた毒ガス弾の問題がまだまだ解決していないことも話した。

部屋に荷物を置いて、自転車で周囲4キロの島を一周した。途中にある発電所の廃墟には驚いていた。私の「毒ガスツアー」を終えると、孫たちは島に900羽以上いるといわれるウサギに夢中になった。朝早くからウサギと遊んでいた。ただ、気になったのは、休暇村や忠海港の売店なども含めて、すべて「ウサギと出会う島」のトーンで一貫していて、お土産もウサギ一色。戦前ここに何があったのかをまったく知らないまま帰る旅行客が少なくないことである。

日清戦争130年と広島大本営

 翌日、国道185線を呉に向かい、安芸津町のかき小屋なども見学した。呉では中1の孫の希望で「大和ミュージアム」を見学した。「歴史の見える丘」から呉の港を一望した。戦艦大和の建造ドックでは新たな護衛艦が建造中だった。

東広島市の広島大学に行き、総合科学部棟の私の研究室があった場所を孫たちに教え、娘(孫たちの母親)が2年間(私は6年間)生活した東広島市の借家周辺に行って、彼女が小学2年生で遊んだ公園の遊具などを見つけて思い出にひたっていた。

 広島市に向かい、広島城の見学をした。孫たちに知ってほしかったのは、ここに130年前に大本営が置かれたことである。直言「カゴシマ・ナガサキと戦後60年」から引用しよう。

「…日清戦争のとき、4個師団もの作戦軍が中国に向けて続々と出発した宇品港。そこにほど近い広島城内に、大本営が置かれた。軍の統帥権をもつ天皇が、現地で戦争指導を行う。後にも先にも歴史的一回性の「広島大本営」である。1894915日午後520分、明治天皇が広島駅に降り立ち、1895427日午前735分に広島駅発の列車で出発するまでの224日間、広島は事実上、日本の「首都」だった。仮議事堂や臨時内閣出張所も作られた。広島の地で第7回臨時帝国議会が召集され、臨時軍事予算案、軍事関係の勅令・法案計6件を成立させている。日本が近代国家となって初の対アジア戦争において、広島が果たした役割は大きい。原爆投下目標を選定する際、東京と京都を除くと、米国が躊躇なく選んだのが広島だった。50余年前の日清戦争の際に大本営が置かれたという歴史的メッセージ性を考慮したことは想像にかたくない。…」

右の写真は、30年前の1994831日に、創価学会広島青年部主催の講演会で「日清戦争100年とヒロシマ」というタイトルで講演した記録である。仏教紙『中外日報』1994104日付が見開き4頁も使って紹介した。同紙は大きな見出しで、広島に大本営が置かれ、そこから最初の対アジア戦争が始まったことを強調していた。「日本の負債、全て背負った広島」という見出しは、私の講演にもない言葉である。30年前の創価学会広島青年部の講演依頼時の問題意識でもあった。隔世の感、である。

原爆ドーム、爆心地、平和記念資料館…

後述するように、晃樹は平和資料館の見学をためらっていた。案内の私としては、ゆっくり、じっくり考えながら見てもらうことにして、広島城の見学のあとは、混雑している平和記念資料館には向かわず、徒歩で原爆ドーム原爆死没者慰霊碑、韓国人原爆犠牲者慰霊碑、爆心地(島外科病院、2017年から島内科医院)、東千田公園(広島大学東千田キャンパス)にある被爆建物の旧理学部1号館などをまわり、歩きながらいろいろな質問に答えたりしていた。スマホの歩数計も見ると、1日で133キロも歩いていた。

市内のホテルに泊まり、朝7時半過ぎに資料館に向かった。開館は830分なので、一番乗りのために入口の前に並んだ。「815分」のチャイム(相生橋南詰の時計塔)も聞くことができた。朝8時半という時間帯だったので入場者はわずかだ。孫たちのテンポに合わせてゆっくり進む。「被爆の実相」に入る手前で晃樹の足が一瞬すくんだが、しっかり歩きながら展示の説明を読んでいる。2019年にリニューアルされてから初めて私も見学したので、私の記憶にある資料館とは展示手法がかなり変わっていることに気づいた。

大火傷で皮膚をぶら下げて歩く被爆再現人形はなくなっていた。晃樹が怖がっていたのはこれだったので、内心ホッとするものがあった。ただ、帽子とベルト、ボロボロの服とゲートルを一つにまとめた3人の中学生の遺品」は、3人のそれぞれの顔写真と人となりが描かれていて、2人ともこれを読みながら涙ぐんでいた。同世代の3人の人生を奪った原爆の残虐さについて衝撃を受けたようだった。帰りの新幹線のなかで、平和記念資料館を見学した感想を書いてもらった。メモとボールペンをわたそうとすると、スマホのラインで書くのが早いというので待っていたところ、大阪を過ぎたあたりで長文の「トーク」が送られてきた。パソコンに転送して、下記に引用する。

資料館見学の前と後で見方が変わった

渡邉晃樹

僕は原爆資料館に行ったことによりこれまでの原爆への考えが大きく変わった。小学2年生の時に図書館で『はだしのゲン』を読んだ。幼かった僕には、死体の目からカニが出てくるシーンなどつらい場面しか頭に入らず、その後、祖父から原爆の話が出たり、原爆の写真を見せてもらったりすることに抵抗があった。だから、今回広島に旅行する日が近づくにつれて、『はだしのゲン』が鮮明に浮かび上がってきて、落ち着かなかった。でも、前の日に原爆ドームや爆心地などをまわりながら、「明日朝、平和資料館に一番のりしてゆっくり見て回ろう。「カニ」についても同じ思いを抱いている人がいるよ」と祖父にいわれて気が楽になった。資料館に入り原爆が落ちて、多くの人達の命が奪われるとても悲惨な場面は、『はだしのゲン』とは違い、現実のものと受け止めることができた。そして、次の写真が僕の気持ちをさらに変えるきっかけとなった。それは、原爆によって1人になってしまった老人の写真だ。そこから伝わってきたのは、1人でいるさみしさだ。そして、また進んでいくと被爆した男の人と女の人が笑って子供が抱えている写真があった。この2つの写真から僕は「1人で生きているんじゃない。支えてくれる人がいるから生きているんだ」ということを改めて感じた。それは家族、知り合いなどの人達の大切さ、どんな状況でも生きることをあきらめてはいけないということだ。また、どんなに苦しくて先が見えないことがあっても何かしらの希望はあるから生きることをやめず努力することの大切さも感じた。これらにより、僕は僕なりに原爆のことを理解したと思う。しかし、一度だけではわからないこともあるのでまた時間が経ったときに考えてみたい。

戦争や原爆をどのように伝えるか――『はだしのゲン』の功罪

孫の晃樹が新幹線の車内でラインに送ってくれた「トーク」を読んで、いろいろと考えさせられた。原爆や戦争をどのように伝え、教えるか。これは大変むずかしく、しかし重要なテーマであり続けている。23年前、つかこうへい作『広島に原爆を落とす日』の広島公演をプロデュースした岡村俊一氏と対談した(「「伝え方」を考える――「広島に原爆を落とす日」をめぐって」『世界』20019月号96-103頁所収)。従来の平和教育への批判なども対談では出てきたが、その際、記憶に鮮明に残っているのが、広島出身の被爆二世だという岡村氏が「カニが食べられない」という人の話をしたことだ。「『はだしのゲン』はとてもいいマンガだと思いますが、細部の描写だけが伝わって、スピリッツ(精神)が伝わっていない。…カニが食べられなくなるような人たちは、学校の上映会か何かで『はだしのゲン』を無理やりみせられて、細部だけが印象に残ってしまったのかもしれない」と。私は、「平和教育はもっと柔軟で、相手の年齢や実情に合わせたものでなければならないと思うのです。…人間がむごたらしく殺されるような非合理性を、怒りをもって考えられるのは、それなりの段取りが必要だと思う。」と応じている(対談の全文をリンクのPDFファイルでお読みください)。『はだしのゲン』を恐れる孫にこの対談の話をすると、「そう、そうなんだ」と、とても共感してくれた。

被爆50周年に発行された一回性の『ヒロシマ新聞』のことも思い出した(直言「わが歴史グッズの話(18)「その時」の新聞を読んで」参照)。「「講義中に倒壊、広島文理科大の南方留学生けが」といった「その時」の「今」を伝える記事がリアルである。「帰らざる水都の夏」は「その時」の直前までの日常生活が描かれる。現在の視点でつくられているが、「その時」の翌日付の新聞ということを念頭においているので、記事の時制はあくまでも「その時」である。だからこそ、読者はまるで「昨日」起きた事件のように原爆の恐ろしさを追体験することができる。…」 孫たちが涙を流した場面は、同じ世代の体験を自分のことのように想像できた瞬間があったからだと思う。その意味で、リニューアルされた平和資料館の展示を、孫たちとともに見学することができたことも、今回の旅の成果だった。

広島大学時代、単編著『新版・ヒロシマと憲法―次世代へのメッセージ』(法律文化社、1994年)を出版した。副題に「次世代へのメッセージ」と入れた。これを出版して30(4版は2005年)。「もう一つのヒロシマ」の章をコピーして、行きの新幹線で読んでもらった。わが家においても、「次世代」に引き継ぐ旅になれたと思っている。核兵器をめぐって、米国追随の日本政府の体たらくは、直言「核兵器禁止条約発効の意義―思考の怠惰を超えて」で批判したが、「次世代」がしっかり学び、考えてくれれば、未来は決して暗くはないと思った。


早朝と夜の宮島・歴史散歩

  今回の旅のもう一つの狙いは、宮島の世界遺産をしっかり見てもらうことだった。年末で外国人客を含めて多くの旅行客が宮島にやってきたが、私たちは一泊して夜と早朝に動くことにした。宿泊した夜は遅くまで、孫たちは大鳥居五重の塔のライトアップを写真におさめていた。朝6時半から入れる厳島神社に早めに入ったので、観光客はほとんどいない。ロープウエイで弥山まで行って瀬戸内の島々の撮影もした。午前中にフェリー乗り場に向かうと、旅行客が続々と宮島に上陸してきた。私が孫たちのために準備した「もう一つの広島案内」も終わった。

 というわけで、2024年の抱負は、定年退職の年ということもあり、「次世代」に引き継いでもらいたいものをしっかり整理していきたいということである。具体的には122日の「直言」で書くことになる。

《付記》今回の写真は、一眼レフカメラを駆使する孫たちにまかせた2人とも、『毎日小学生新聞』「走れ! 毎小特派員」に写真とレポートが採用されている(202149日付と同723日付)。なお、2人の写真は、『水島朝穂先生古稀記念 自由と平和の構想力』(日本評論社、2023) の巻頭写真にも使われている(その撮影シーンはここから)

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