小澤征爾の訃報の扱い
雑談シリーズの「音楽よもやま話」をアップする。前回は「「チェコ事件」とチェコフィル――非暴力抵抗を続けた『わが祖国』」だった。今回は朝比奈隆が93歳で死去したことについて書いた「雑談(16)指揮者と教師」からちょうど22年で、指揮者の死について書く。
世界的に知られた小澤征爾が亡くなった。偶然だが、先週の「直言」で書いたドイツの憲法学者と同じ88歳だった。2月10日付の『毎日新聞』と『東京新聞』が1面トップ(頭)、『読売新聞』は1面ハラ(中ほど)、『朝日新聞』が1面肩(カタ)の扱いだった。黒ベタ白抜き見出しで『毎日』が目立った。だが、中身では『朝日』だった。11日付が第2総合面すべてを使って、作家・村上春樹の寄稿を掲載した。村上しか知り得ない個人的な関係や思い出が綴られ、圧巻である。「小澤マジック」といわれるリハーサルについての見立ても興味深い。『朝日』は同日付文化欄に、「サイトウ・キネン・オーケストラ」を「二人三脚」で創設した指揮者・秋山和慶のインタビューを掲載している。小澤は朝5時に起きて総譜(スコア)を徹底して読み込むという。村上が「夜明け前の同僚」と小澤を呼んだのと重なる。『朝日』10日付第1社会面の評伝は、「愛すべき無鉄砲」「壁つくらぬ「目力」」という見出しで、小澤の特徴や本質を生き生きと伝えている。評伝も秋山インタビューも、同紙夕刊の演奏会評を執筆している東京芸大出身の吉田純子編集委員の筆が光る。小澤の死に関連する各紙報道では『朝日』が群を抜いていた。
なお、『朝日』2月13日付夕刊に、指揮者・山田和樹が演奏会本番において訃報に接してどんな対応をしたか、また「2月9日午後7時」という発表時間の「配慮」について興味深い記事がある(演奏した2曲も)。
ドイツメディアはどう伝えたか
「世界のオザワ」だけあって、外国のメディアも文化欄を中心に大きく扱った。北ドイツ放送(NDR)は異例の長さで小澤の死を伝えた。「黄金のハートをもつエネルギーの塊」という表現が熱い。ヘルベルト・フォン・カラヤンの「身振り」(Gestik)と、レナード・バーンスタインの「ハート」が小澤を頂点に導いたとある。「冴えわたる音色で幅広いレパートリー」とも。
高級週刊誌Die Zeitの2月9日付は「100万ボルトの指揮者」(Hunderttausend-Volt-Dirigent)として、2002年から2010年までウィーン国立歌劇場の音楽監督を務めたことを特に重視する。何よりも念願のオペラに打ち込み、モーツァルトからエルンスト・クルシェネク(クレネク)まで幅広いレパートリーを披露したことに注目する。
保守系紙Die Weltの2月12日付 文化欄は、「アジアが生んだクラシック音楽のスター」「オーケストラの指揮台で最も多忙な世界的スターの一人の訃報」を、ビートルズの真似をしたヘアスタイルと、「仏教ファッション」と思われた独特のジャケットが「椎間板ヘルニアの後、サポートコルセットを隠すためだったのが着心地がよくなって、トレードマークになった」という逸話とともに伝えている。カラヤンとのエピソードは、ベルリンの新聞らしく、やたら詳しい。「カラヤンがおしゃべりに夢中になっているときは、逃げ場がなかった。彼は私をポルシェでドライブに連れて行き、話し続けた。…夜中の3時、彼は私を追い出し、私は車なしでドアの外に立っていた。タクシー代もなかった」という小澤が語るエピソードをまじえて「帝王」カラヤンを描写する。彼の死後はクラウディオ・アバドがベルリンフィルを指揮することになり、小澤は「カラヤンの皇太子となる運命にあった」と書く。カラヤン嫌いの私としては、この評論はあまり愉快ではない。
小澤は1976年から2002年まで26年間、ボストン交響楽団の常任となる。だが、Die Weltの評論は、「小澤の時代は長すぎた。そしてそれは、当時次第に高齢化し、元気のない演奏が多くなっていたオーケストラにとっても、停滞していた指揮者にとっても、結局は無駄な期間となってしまった」と、結構きつい評価である。小澤は「1990年代までが最盛期で、19世紀と現代の両方のレパートリーにおいて、感動的で、魔法のように魅惑的な指揮者だった。抑制が効いていて心をつかみ、正確で官能的、そして常に目の奥のどこかに隠れているようなミステリアスな雰囲気を漂わせていた。哲学者ではなく、癒し手として」。
他方、定期購読している『南ドイツ新聞』2月9日デジタル版 (紙媒体は2月10日付、冒頭の写真参照)は、「常にロッカーでもあった」という見出しで、「好奇心あふれる音の魔術師」「何でもこなし、至る所で指揮をした」と書く。「印象的な顔立ちと流れるようなたてがみが特徴の小澤は、いつも白い服を着て指揮台に立ち、決して自分を誇示することはなかった」「小澤は、難解になったり印象主義的になったりすることもなく、ヨーロッパの音楽を魅了することができた」などと、彼が賞賛を浴びた背景を説明していく。
デジタル版にはない、2月10日付紙面(冒頭の写真)の唯一の小見出しは、「ラグビーでの事故がピアニストとしてのキャリアを不可能にした」である。「小澤は東京でピアノを学んだが、ラグビーの練習中に事故にあい(彼は生涯スポーツ愛好家だった)、4本の指を骨折したため、ヴィルトゥオーゾとしてのキャリアは不可能となった。そこで彼は指揮者になった」として、周知のスクーターで各地をまわって指揮者修行をしたことが紹介されている。そこから、この評伝のトップ見出し、「この指揮者は常にロッカーでもあった」という表現が続く。クラシック音楽の頂点を極めてもなお、ロック的な感性と親和性を保ち続ける意味では、レナード・バーンスタインの影響が大きいといえるだろう。
同紙の評者は、「音響の放射と息吹、意味の探究と充足感としての音楽」を、彼が得意とした作曲家たちのなかに求め続け、そして、「熱血でありながらも柔和で、常に好奇心を欠かさなかった巨匠は、東京の自宅で88歳の生涯を閉じた」と結ぶ。
指揮者と教師
私が生演奏で体験した指揮者について、直言「音楽よもやま話(12)私の音楽遍歴」のなかで、「往年の指揮者たちの一瞬の輝きを耳と目に焼きつける体験は、私の貴重な財産である」と書いている。生の演奏会の価値はその一回性の「出会いの最大瞬間風速」にある。ドイツでもオーストリアでも。だが、日本人指揮者については、私は朝比奈隆しか書いていない。小澤を含むたくさんの日本人指揮者の演奏会を聴いてきたが、この「直言」で書くことはなかった(早稲フィル会長としては別)。
小澤に影響を与えたレナード・バーンスタインが晩年、「残された時間を教育に捧げる」と明言して、病で弱った体に鞭打って、若い音楽家によるPMF(パシフィック・ミュージック・フェスティヴァル)を指導した。その映像を、非常勤講師をしていたエリザベト音楽大学(広島市)の「法学」の授業(講義表の中ほど参照)で使ってきた。その関係から、テレビなどで見る小澤の教え方、伝え方、演奏者を引きつけるすさまじい魅力(『朝日』吉田編集委員のいう「目力」も)がバーンスタインと重なったのである(直言「指揮者と教師」参照)。私自身、1970年の高校生の時の「バーンスタインのマーラー」体験も大きい。だから、バーンスタインについて語ったのに続いて、小澤について書くことをしないできたわけである。いま、小澤を失って、改めて小澤のすごさにいろいろと気づき始めている。
小澤のブルックナー
もう一つは小澤のブルックナーである。『南ドイツ新聞』も書いているように、彼のレパートリーは古典から現代ものまで確かに広い。だが、ブルックナーだけは小澤はあまり演奏していない。少なくとも日本で公演があれば、ブルックナー派の私は参加していたはずである。小澤は第9番ニ短調をウィーンフィルとザルツブルクで1999年に、第1番ハ短調をベルリンフィルと2009年にやっているが、日本では2003年に初めてブルックナーの収録をやっている。サイトウ・キネンで、第7番ホ長調である。そのCD(小澤征爾名盤UHQCD)は持っているが、一度聴いたきりで、山の仕事場に置いてある。海外からも名手を多く集めたスーパーオケだから、とりわけ弦の芳醇で艶やかな響きは耳を「見張る」ほどだ。だが、私には艶やか過ぎるのである。第2楽章終結部のワーグナー・チューバのソロ(ベルリンフィルの首席奏者)は当然ながら舌をまく演奏だ。しかし、全体として、私の体に染み込んだブルックナーの音とは距離があった。
前掲の指揮者・秋山和慶インタビューにこうある。「小澤さんのブラームスって、すごく濃厚でしょ。日本人にはさっぱりした薄味にしがちなんだけど、小澤さんを見ていると、もっと深く突っ込んで濃いソースをつくらなきゃ…と言われているような気持ちになります」と。カレーライスに特濃ソースをかけて食べることはしない私としても、この機会に、サイトウ・キネンのブルックナー第7番のCDを久しぶりに聴いてみようと思っている。
米軍戦闘機の機銃掃射の体験
この「直言」で小澤について触れたのは3回ある。最初は、直言「「第九のふるさと」訪問」だった。徳島県鳴門市の板東捕虜収容所での第9の初演が行われたことを記念して、「毎年6月の第一日曜には、鳴門で「第九」のコンサートも開かれている(小沢征爾氏も指揮)」。これだけである。「なると第九」は今ではかなり知られるようになった。
次に小澤について触れたのは、立川での空襲体験についてである。直言「平和における「顔の見える関係」で、『朝日新聞』2013年9月19日付のインタビューを紹介している。
《平和を願う原点としての体験は、(満州からの)引き揚げ後、終戦まで過ごした東京・立川で遇った空襲にある。45年春ごろ、自宅近くの桑畑で弟と遊んでいた。空襲警報が鳴り、戦闘機が向かってくる。「機銃掃射って言うの? ダカダカダカダカーッて撃つのよ。向こうはね、恐らくふざけてやっていた気がするな。桑畑なんて撃つ必要がないんだから」。防空壕に逃げたいのに、恐怖で体が動かない。「操縦士の顔が見えたような気がしたの。それくらい低く降りてきたの。ぴゃーって」。同級生の自宅は直撃弾に襲われ、一家3人が即死した。…》
実は、私の父の従兄弟も同じような体験をしている。小澤の体験を紹介したあと、私はこう続けている。「相手は子どもだ。殺すつもりで機銃掃射をしていない。旋回して再度銃撃しても、弾はあてない。優越感と余裕。基地に戻る前に、残弾処理をしておく。小澤氏も言うように「ふざけてやっていた」としか思えない」と。
父の従兄弟を狙ったP-51ムスタング戦闘機の12.7ミリ機関銃弾の貫通痕が拙宅の塀に残っている。実は私の母も戦争末期、学徒勤労令により、立川の東亜航空機で特攻機キ-115(「剣」)の製造に関わっていた際、P-51戦闘機の機銃掃射を体験している(直言「身近な戦争体験から考える」参照)。そのなかで、小澤のことについて触れている。「米軍P-51は、軍事的必要性もないのに、子どもや一般市民にまで無差別に機銃掃射を行っていた。「恐らくふざけてやっていた気がするな。桑畑なんて撃つ必要がないんだから」という指揮者・小澤征爾氏の実体験は、私の父の従兄弟のそれと重なる(直言「平和における「顔の見える関係」」参照)」。そこには、P-51のガンカメラによる記録を付けている(YouTubeのリンクをクリック!)。この12.7ミリ機関銃弾が小澤に命中していたら、「世界のオザワ」は存在しなかっただろう。母に命中していたら、私も。
研究室の撤収作業が終わって時間ができたら、小澤征爾のレコードやCDを聴き直してみようと思っている。
【文中敬称略】