「1.1大震災」
水島ゼミ出身者はメディアに50人以上いる。『北國新聞』にもいることを思い出してメールで依頼したところ、1月3日付以降の紙面が大量に届いた。発災直後に同紙3日付が1面で打った「1.1大震災」という見出しが頭に残っていた。これは他紙のどこも使っていない。同紙7日付から始まった連載「1.1大震災 日本海側からのSOS」を1月31日付まで、22回に渡って読んだ。自宅で講読している全国紙(複数)と『東京新聞』のトーンとはまったく違う。
全国紙は「輪島通信部」(『朝日』は「通信局」、『毎日』は通信部も廃止、『読売』は2月1日付で「支局」に格上げ)をもつ程度だったのに対して、『北國新聞』は七尾市に「支社」、輪島市に「総局」、珠洲市、能登町、穴水町、志賀町などに「支局」と、能登半島全域に少なくとも10の報道拠点をもつ。自らが被災しながら、支局の記者たちが撮影した写真は3日付から使われ、圧倒的な迫力があった。地震名は「令和6年能登半島地震」だが、被害と影響の甚大さから、私は「北陸大震災」と呼んでいる(直言「「北陸大震災」と政治―「危機」における指導者の言葉と所作(その5)」参照)。志賀原発の近くが震源だったことも踏まえて、福島原発事故を含む「複合被災」としての東日本大震災に匹敵する「大震災」という表現を用いたのである。それで、『北國新聞』が「1.1大震災」という見出しを打ったことに共感を覚えたのだった。「令和6年~」という限定的な名称が、東京政府の初動の遅さ(too late)や不十分さ(too little)につながった面があるのは否定できないのではないか。
「日本海側」(「裏日本」)からのSOS
もう一つ、『北國新聞』連載のサブタイトルにも注目したい。「日本海側からのSOS」。私が子どもの頃、「裏日本」という言葉が存在した。東京や名古屋などの「表」に対して、本州の日本海側、特に北陸・山陰地方は「裏日本」といわれた。テレビの天気予報でも確かにこの言葉を聞いた記憶がある。かつて読んだ古厩忠夫『裏日本―近代日本を問いなおす』(岩波新書、1997年)を思い出した。「裏日本」というのは地理的概念ではない。「表日本」に対するヒト・モノ・カネの供給地として成立した「裏日本」。近代日本の差別的構造がこの言葉に集中的に表現されていた。私は、27年前に起きた、日本海におけるロシアタンカー重油流失問題について、開設直後の直言「いま、そこにある危機とは何か?(その1)」で触れ、NHK「視点・論点」(「「危機」の考え方」(1997年2月12日放送))でも、重油被害が一国的な対処では不十分で、周辺諸国との協力態勢が必要であると語った。その際、「環日本海」の自治体間協力にも言及したところ、新潟大学教授の古厩氏からメールが届き、この岩波新書が送られてきたのである。古厩氏は61歳の若さで在職死亡されたが、同書の終章「「裏日本」を超えて」(178-208頁)では、「環日本海」という積極的な構想を展開しておられた。私は、富山県が作った「環日本海地図」にヒントを得て、日本の歴史上(1853年に米国のペリーが浦賀に来るまでは)、「日本海側こそが、大陸との文化、交易の中心的な顔であり、その意味では、日本海側こそが「表日本」だった」と書いたことがある(直言「わが歴史グッズの話(17)3枚の地図」参照)。だが、日本の近代は、北陸・山陰を一貫して「裏」として扱い続けた。なかでも能登半島は「裏」のまた「裏」ということになる。そこで大地震が起きたわけである。
災害対策の中心は自治体の首長―「馳せ参じない馳」
災害対策において知事の役割はきわめて大きい。災害対策基本法上の災害対策本部の基本は地方自治体の首長である。今回の地震では石川県知事の馳浩は、発災時に東京におり、ヘリを使って県庁に着いてもオンライン会議が中心で、地震後初の記者会見は1月10日、能登半島の被災地入りは1月13日という遅さだった。これについて、「馳せ参じない馳」というワードがSNSに広まったという(『フラッシュ』1月12日)。安倍派の裏金問題もあって、森の政治力はかなり弱まっている。『北國新聞』は踏み込んで、馳知事の初動を検証している。「日本海側からのSOS」連載⑬「初動を検証する」(1月22日付)では、「あの揺れを県内で体験していれば、知事も実感を持って怖さを語れる。それでこそ県民の代表、代弁者ではないか」という県民の声を拾いながら、トップが揺れを共有していないことを問うている。そして、馳の口癖の「肌感覚」を発揮できずに、初動が遅れたと批判している。「行って、見て、被災者の声を聞かないと、現地の様子は肌感覚で分からない」と、発災から2週間も県庁にこもった馳に手厳しい(連載⑯(1月25日付))。知事は政治家でもあり、「パフォーマンスを通して強い指導力を発揮することも求められる」として、東京から県庁に入るのではなく、輪島に向かうべきだったとも書いている(連載⑰1月26日付)。
能登半島は想像以上に長大で、先端部の珠洲市役所から石川県庁まで約130キロある(連載③序章・下(1月9日付))。連載㊸(2月22日付)は、地震で崩落した自動車専用道「のと里山海道」の全面復旧が見通せない問題を検証している。地形的にアクセス路の限られた半島で、生活や物流を支える道路の多くが寸断され、人命救助や復旧に悪影響が出ている。「仮に石川県庁が大阪府庁の場所にあるとすると、珠洲は京都府と滋賀県を飛び越え、福井県敦賀市に位置することになる。石川県庁で奥能登の被災地のことを考えるのは、大阪府庁で敦賀のことを考えるのに等しい。それほど奥能登は遠い」。
なお、「ニュース ハンター」2月5日によれば、1月24日のNHKニュースで、「馳知事は避難している人に対し、3月に北陸新幹線の敦賀延伸を控え、観光客の受け入れもあることから旅館での避難に一定の区切りが必要になるという考えを示しました」と報道された。二次避難所はホテルや旅館だから、観光客のために追い出すに等しい。コロナ禍の「Go toキャンペーン」とよく似ているが、コロナの時よりも、二次避難者の状況も気持ちも十分に考えていない馳の罪深さを思う。
安倍晋三に官房機密費を使って五輪招致を勝ち取れと指示され、それをいとも簡単に記者団にばらしてしまう軽薄な知事のもとでは、能登の復旧はおぼつかない。
「3.11」から13年
今日は東日本大震災から13年である。下の写真は、東日本大震災で壊滅した宮城県南三陸町の防災庁舎である。住民に避難を呼びかけるアナウンスをしていた女性職員を含めて、町の職員らが死亡した現場である(直言「大震災と公務員」参照)。上の写真は、輪島朝市の火災現場である(1月28日撮影、輪島市河井町)。現地に入った関係者から送ってもらったものである。東日本大震災は津波の威力を見せつけるが、「1.1大震災」の輪島の写真は、地震によって起こる火災の恐ろしさをまざまざと教えてくれる。今回は、この2枚を並べておきたい。