さようなら、早稲田大学――大学入学から52年
2024年3月25日




最後の卒業式

回の「直言」が早稲田大学教授としてアップする最後のものになる。199641日に42歳で教授として採用され、71歳の誕生日を迎える3日前に定年退職をする。ジャスト28年。長いような短いような、何ともいえない気分である。

私が早稲田の法学部に入学したのは19724月。沖縄返還(本土復帰)1カ月前である。入学して7カ月後に「川口君事件」が起きて、1年生の時は授業もほとんど出ないで終わった。学部・大学院に計11年半在学して、19839月に札幌商科大学助教授として初就職した。30歳だった。844月に学部新設(校名変更)により札幌学院大学法学部助教授となり、計6年勤めて、899月、広島大学総合科学部助教授となった。36歳だった。赴任した2カ月後に「ベルリンの壁」が崩壊19912月から半年間、ドイツ統一直後の東ベルリン中心部に住んで、統一過程をつぶさに取材した。

19964月から早稲田大学法学部教授となった。ボン大学での2回の在外研究の期間を除いて28年間、このキャンパスで学生・院生を教えてきた。北海道と広島の12年半を含めて、41年近く、大学という世界で研究・教育にたずさわってきたことになる。早稲田大学との関係は半世紀を超える。119日に「最終講義」を行い、試験の採点も終え、研究室の撤収も完了した。今日、大隈講堂で行われる学部卒業式で学生たちを送り、博士学位授与式のあとの歓談会にDoktorvaterとして出席すれば、早大教授としての私のすべての仕事は終わり、本当に大学を去ることになる。

 

卒業生はコロナ世代

  今日卒業する学部学生は、完全コロナ世代といえる。高校3年の227日夕方、安倍晋三首相(当時)「全国一斉休校要請」という非科学的な方針を唐突に打ち出し、卒業式までの行事がすべてなくなった悲しい体験をもつ。大学の入学式もなくなり、新歓行事も全面中止になり、4月の授業も行われなかった。教員側のオンライン授業の準備が整ってから、511日の週から初めて大学の授業を体験することになる。私の場合、大講義は動画配信で、その日の新聞を使った冒頭の解説の事前収録には手がかかった昨年やった導入講義のような対面風景は想像だにできず、学生たちは、パソコン画面で私の動画を見るだけだった。1年ゼミ(導入演習)は514日からZoomで実施し、顔出しする学生は少なくて、結局、この学年(今回の卒業生)は、顔と名前を覚えるのには時間がかかった(34年ゼミもZoomで実施留学先でコロナにまきこまれたゼミ生もいた)。秋学期から対面的な要素を取り入れる授業も可能になったが、教員の判断で完全オンラインも少なくなかった。私はできる限り体面的要素をとり入れていった(ハイブリッド方式〈対面+オンライン〉の1年ゼミ風景はここから)。

 

『そして紺碧の空へ』(20206)

 普通の早大生が体験できるイベントにほとんど参加できず、パソコン画面を眺める時間が長かった2020年入学生が2年生になった時、「大学2年生 対策急ぎ「危機」回避を」という社説まで出された(『朝日新聞』2021818日付 )。「「意欲がわかず無気力に感じる」「友人とつながれていない」などの不安を訴えた割合が2年生に特に多かった。不眠、だるさといった体調の異変に関する質問への答えも同様だった」「十分に人間関係を築けていない学生の姿が浮かび上がる」「大学はこうした切実な声に耳を傾け、ケア体制の充実に急ぎ取りかかってもらいたい。行政による支援も必要だ」等々。この年代が3年生になると、今度は「就活」が待っていた。「ガクチカ」(大学時代に力を入れたことの略語)を面接で聞かれても、いったい何をやったのか、熱く語れる体験が少ない。

 朝日社説が「「2年生の危機」の回避に力を尽くしてほしい」と呼びかけた前年、20206月下旬に、早稲田の学生たちがプロジェクトをつくって、この2020年入学の1年生を励ました。それが、『そして紺碧の空へ 』である。制作の中心になったのは遠藤伶君(当時・社会科学部4年)である(『早稲田ウィークリー』2020113参照)。「コロナウイルスの影響を受け、オンライン授業、キャンパス封鎖、課外活動の自粛など早稲田の街はいつもの活気を失っています。この状況下で、行き場のない怒りに苦しめられる一方で、早稲田で過ごす日々の大切さに気づけたのも事実です。湧き上がってきた様々な想いを、一時的なものにするのではなく未来へつなげたい。早稲田全体で一つとなり、早稲田の街の未来を明るくしたい。そんな想いからこの作品は生まれました」と語る。

   まず、「“僕は不安でいます” やりたかったことは 叶わないままで 季節だけが 足早に過ぎるからです」と、コロナ禍の不満と不安な気分が歌に乗せて語られる。やがて、コロナ前の大学生活のさまざまな場面や場所がリフレインされながら、「思い返せば 行きたかった場所は ただの大学じゃなかった だから君と出逢えた」というピークへ。そして、「仰ぎ見れば 紺碧の空 離れても変わらないんだ 歩き出して 夢を描こう ひとり ひとつ 早稲田の空へ 進もう そして紺碧の空へ」という全員合唱で終わる。何年かぶりで聞いたが、当時の学生たちのことが思い出されて、涙がにじんだ。653秒あるので、エンドロールまで見ていただきたい(意外な人たちが協力しています)

  

2020年入学生の卒業へのはなむけ

 今日、卒業式の会場で配布されるであろう法学部報『テーミス』(20243)に、「永きにわたり」という定年退職者の別れの言葉が掲載されている。下記がそれである。 

「好奇心」を失うなかれ

教 授  水島 朝穂

 

幼いときから特別の存在だったのは、植物分類学者の叔父だった。小学校の理科で押し花の宿題が出たとき、図鑑を調べても分からない草花を、隣家の叔父の書斎に持っていき、「これ、なんという名前?」と聞くと、叔父は標本ラベルに、和名と科名、それに学名を書き、「ここに採集地と今日の日付、君の名前を書きなさい」といってくれた。担任の先生は、学名まで記した本格的な標本ラベルに目を丸くしていた。叔父は東京都立大学の牧野標本館の責任者をしていたが、私が法学部に入学した1972年、47歳で急逝した。私の早大入学をとても喜んでくれた。NHK連続テレビ小説「らんまん」は植物学者の牧野富太郎をモデルにしていたが、その第126話で、膨大な植物標本を大泉の牧野邸から都立大学に移すという話が出てくる。実際にその受け入れと同定をしたのが叔父だった。ゼミの教え子によると、叔父の口癖は「好奇心」だったそうだ。新種の植物を求めて日本各地や台湾に植物採集に出かけた。そこに植物がある限り、叔父はその「現場」に足を向けたという。

  大学教員生活40年のなかで、私が学生たちに求めたのも「好奇心」だった。「奇」という字は「大」の下に「可」がつく 。「大きな可能性を好む心」と勝手に解釈している。「どうせ」、「しょせん」、「結局は」といった「あきらめの副詞」は禁句である。

法学部水島ゼミは、隔年で12回の沖縄取材合宿を実施し、北海道や広島、九州、関西にも足を運んだ。ゼミの取材班が向かうところ、それが問題の「現場」だった。25期生まで400人近くが多分野かつ多方面に進出している。とにかく多士済々、好奇心旺盛で、個性豊かな(時に豊かすぎる)面々である。本学着任直後の本誌15号(19973月)に私は、「法学部に沈澱する「こだわりの人材」の発掘と輩出にも努力していきたい」と書いた。わがゼミは、社会のさまざまな分野に求められる「こだわりの人材」を補給する「ミネラル・ウォーター・ゼミ」であり続けたと自負している

学生の皆さんには、自分で自分にレッテルを貼ることなく、常に自らの「現場」を求めて、「好奇心」を忘れずにチャレンジを続けてほしいと思う。

  

 私が切り取った「早稲田」の風景

 最後に、私がこの28年間に、構内を歩いている時などに思わず「ガラケー」で撮った写真を並べておこう。

 まず、この写真は、2004年の秋、8号館が壊されて、新8号館の建設が始まったとき、大隈銅像と工事現場を重ねて撮ったものである。右の白い建物が9号館で、私が大学院生時代を過ごした場所であり、かつ法学部の教授会などの会議を行う研究棟だった。20054月から8号館に移ったその右は、政経学部の3号館の建て替え工事の写真(20119月撮影)である。

 

   下の右の写真は、2006年7月4日に大隈講堂の外装工事が始まった時に撮ったもの。左は、大隈講堂が完全にパックされたのを、8号館11階から撮影したものである。1995年6月のドイツ議会議事堂がパックされた「クリストの芸術」を思い出しながら撮影した(直言「国会議事堂を覆う―日本とドイツ」参照)。

 

   上の左の写真は2020215日(土)1715分に、研究室の窓から夕焼けを撮影したもの。一般入試当日、担当する科目の採点作業が18時から行われるため、研究室で待機しているときに思わず撮ったものである。新型コロナウイルス感染症により47日に緊急事態宣言が出されることにより、大学がロックアウトに入ることが決まった。その情報を前夜遅くメールで受取り、翌朝すぐに車で研究室に向かい、必要なグッズを持ち帰った。そこから始まるコロナ対策により研究室には行けなくなった。コロナによる大学の激変前の平和な風景である。

もう一つの意味は、現在、この窓から見える風景が変わりつつあることである。私の早大時代に研究・教育・学内行政のすべての面で重要な場となった9号館がなくなる。「新9号館」ができると、この窓の前に巨大な建物が出来て、この風景は見えなくなる。その意味で、「歴史的」な写真なのである。右の写真は、研究室からすべての「歴史グッズ」を搬出した2024年3月11日に窓から撮影した9号館の工事風景である。

   というわけで、最後は、「ガラケー」の写真の紹介しつつ、入学から52年で早稲田を去る個人的な思い出のシーンを「直言」に残すことにした。

   卒業生の諸君。コロナに翻弄された学生生活だったが、4年間を全体として見たとき、充実した学生生活だったと言えるかを振り返って欲しい。『そして紺碧の空へ』に出てくる、「思い返せば 行きたかった場所は ただの大学じゃなかった だから君と出逢えた」という思いを胸に、さまざまな分野でがんばってほしいと思う。卒業、おめでとう。

  そして、入学から52年、早稲田の地を離れるにあたって一言。

さようなら、早稲田大学、そしてありがとう。

 

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