ドイツの「憲法記念日」(その1)――フランクフルト憲法175年とボン基本法75年
2024年5月20日

ドイツの「憲法記念日」

週の木曜日(523日)は、ドイツの「憲法記念日」である。75年前のこの日、旧西ドイツでドイツ連邦共和国基本法(ボン基本法)が公布された(翌24日施行)。冷戦による東西分断のため、ソ連占領地区の旧東ドイツでは「ドイツ民主共和国憲法」が制定されたが、旧西ドイツでは、「憲法」(Verfassung)は、ドイツが統一した時に制定されるとされ、それまでは暫定的に「基本法」(Grundgesetz)と呼ばれることになった(旧146条)。1990年の統一に際しては、旧東ドイツの5つの州(Land)が旧西ドイツに「加入」するという形をとった(旧23条)。「この基本法は、ドイツの統一と自由の達成後は、全ドイツ国民に適用される」となって、「憲法」にするかどうかは将来のドイツ国民に委ねられた(新146条)。かくて「ボン基本法」という暫定憲法が、実質的に統一ドイツの憲法となったわけである。「永遠の暫定性」といえようか(直言「ドイツ基本法60周年に寄せて」参照)。

  ボン基本法とボン民主制の50年(4010

   この写真は、国会図書館調査立法考査局と内閣と両院の3法制局が共同で翻訳・編纂した各国憲法集(1955)から抽出した合本である。「分裂政権国家 憲法集」と手書きされ、東西ドイツ、韓国と北朝鮮、南北ベトナム、中華民国と中華人民共和国の各憲法の全訳のほか、西ベルリン憲法(原文のまま)まで付録にある。「研究室の転進」の際、古い各国憲法集の束のなかにあるのを偶然見つけたものである。書き込みやドイツ語の訂正まである。これを、1991年にベルリンで入手した東西分裂地図を背景にして撮影してみた。

  ところで、19993月から20003月までのボンでの在外研究の際、基本法50周年のさまざまな行事に参加した。ボンからベルリンへの首都移転(「ライン川からシュプレー川へ」(Vom Rhein an die Spree)の年でもあった。712日の「ドイツの民主主義50年・ボン祭り」に妻と娘を連れて参加した。冒頭左の写真は、ボンの旧市庁舎前広場で行われた政府主催の式典である。「連邦議会と連邦参議院がボン市民に感謝の意を表する」(Bundestag und Bundesrat sagen Danke für Bonner)というタイトルで、当時の大統領、連邦議会議長、参議院議長、首相、連邦憲法裁判所長官らが並んで挨拶するというすごい催しだった。広場いっぱいに市民が詰めかけた。私は前の方に陣取って、演説をビデオに録画した。冒頭の写真はG.シュレーダー首相が演説している場面である。この式典で一番印象に残った言葉は、W.ティールゼ連邦議会議長(旧東ドイツ出身)の演説の一節、「ボンなくしてベルリンなし」(Ohne Bonn wäre kein Berlin.)だった。「ベルリンの壁」崩壊からまだ10年しかたっていない頃の話である。統一はしたものの東西の格差や矛盾が深刻になっていたこともあり、統一ドイツは「ボン民主制」の40年によって支えられていることを強調したかったのだろう。私がボンで立ち会うことになったこの「基本法50周年」では、旧西ドイツ時代の40年と東西ドイツ統一後の10年を合わせた「401050」(写真の50センチ定規は1年を1センチで刻む憲法年表になっている)という視点が打ち出されていた。

   首都時代のボンを知り、ベルリンへの首都移転をボンで見送り17年後に「元首都」となったボンで生活した体験的感想を8年前に書いた(直言「「大後悔」の一票にしないために―参議院「国権の再考機関」の選挙」)。そこから一部引用しよう。

…ボンのすべての議会・政府機関の建物は地味である(写真は1987年のもの。高いビルは議員会館(Lange Eugen)、手前の白い建物が連邦議会)。東西ドイツが統一したらベルリンに立派なものを作るという意志を示すため、「仮の姿」(Vorläufigkeitを維持し続けたわけである。小さな首都での半世紀は、ボン民主制として世に知られた。その暫定的で一時的なものという姿勢によって、議事堂・官邸から政府部局の建物までが、よくいって簡素・質素、悪くいえば貧相である。だが、この「暫定性」(Provisorium)こそ、それ以外のさまざまな要素と響きあって、ボン民主制を象徴するものだった。暫定首都の50年を通じて、ドイツはヨーロッパのなかで信用を回復・確立していった。確かにベルリンの建物はすべて重厚で立派である。しかし、プロイセン時代の権威主義的色彩は否めない。50年間、ボンの簡素な暫定首都(「連邦村」(Bundesdorf)と陰口された)の抑制的なかたちがあったからこそ、いまの首都ベルリンがヨーロッパに受け入れられたのだともいえる。…抑制と均衡の戦後ドイツの「国のかたち」がそこにある。…

     「直言」では、上記の首都ボンで迎えた基本法50周年に続いて、ベルリン首都移転10年後の60周年、中途半端だがたまたま現地にいたということで67周年、そして70周年と、節目ごとに書いてきている。

 「2つの年、2つの時代、2つの憲法、1つの国」

   今週迎える「基本法75周年」には2つの特徴がある。その1つは、先行するフランクフルト憲法との密接な関係性が今までになく強く意識されている点である。もう1つは、基本法や民主主義を防御することの強調である。欧州におけるポピュリズムや極右の台頭が懸念されており、来月のEU議会選挙と9月の3つの州議会選挙でそれは明確になるだろう。この後者の論点については、来週の「直言」で論ずることにしよう。

   さて、議会広報局のメルマガに登録しているので、毎日何本ものメールが届く(多い時には10本も)。その425日送信のもの、連邦議会が「憲法記念日」に特別の展示会を開催することが書かれていた。私はそこにあるキーワードに注目した。48/49:2つの年、2つの時代、2つの憲法―1つの国」(„48/49: Zwei Jahre, zwei Epochen, zwei Verfassungen – Ein Land“。今までにない切り口である。私が199010月のドイツ統一の4カ月後にベルリンに滞在した際には、1つの国にはなったけど、東西間の格差がひどく、西と東の「2つの社会」が存在するというトーンだった(拙稿「一つの国家、二つの社会――ベルリン発緊急レポート⑵」『法学セミナー』19917月号56-60参照)。

    ベルリンとボンでの憲法展示会は、1848/49年のドイツ3月革命とフランクフルト憲法から、1948/49年のドイツ連邦共和国の成立過程まで、ドイツ憲法史における連続と断絶でたどるものである。B.バス連邦議会議長は先のメルマガで、「75年前、基本法の父と母が、聖パウロ教会におけるドイツ議会主義の先駆者たちのアイデアと準備作業をいかに活用し得たかを紹介する」と述べて、1848年の革命は失敗したけれど、政治的自由と共同決定権を求める人々の営みを抑えつけることはできず、それが基本法に活かされており、それゆえに「私たちは基本法を誇りに思うことができる」と述べている。メルマガでは、ベルリンとボンにおける「民主主義フェスティバル」について、連邦議会が参加を呼びかけている。全政党・会派一致の企画である(プログラムの詳細は、連邦議会のウェブサイト参照)。かつての首相が「みっともない憲法」といって蔑視したり、いまの首相もいくつかの野党までもが不要な改憲を主張したりする日本の憲法記念日とは大違いの「愛すべき基本法(憲法)」の風景である。

フランクフルト憲法175周年の意味

    今週の「憲法記念日」は、フランクフルト国民議会(聖パウロ教会)の175周年と、ドイツ連邦議会の75周年という二重の議会記念日にちなんで、75--民主主義は生きている」というトーンで祝われている。冒頭右の写真(2017年)と上の写真(1995年)は、フランクフルトのパウロ教会に掲げられている歴史プレートである。「ここで1848331日から43日までドイツ予備議会が、そして1849518日から530日までドイツ国民議会が開催された」とある。この教会にはドイツ各地から国民議会を選ぶための予備委員が計574人集まった(一番多いのはプロイセンの141人)。保守派からリベラル派、急進左派までの多様な人々が集まり、国民議会の準備のための議論を重ねた。全国的な選挙を経て、翌年、この教会で国民議会が正式に開かれた。

    1789年フランス革命のあと、1792年にフランス軍がライン左岸地域まで進出。そのもとで、「ドイツ・ジャコパン派」主導の「マインツ共和国」が1年間ほど存在した。保守的な「ウィーン体制」の時期が続き、改革の動きは一時停滞する。だが、フランス7月革命(1830年)が起こり、その影響はヨーロッパ各地に広まり、ベルギーは立憲君主制に向かった。西南ドイツではいくつかの憲法が制定され、「ドイツ初期立憲主義」が高まりをみせる。専制君主を退位させて、温和で啓蒙的な君主の体制も生まれた。ドイツ南西部、プファルツ地方のハンバッハで行われた「祭」(Fest)は、検閲の廃止などの要求を掲げた政治運動の実質をもっていた(直言「ハンバッハと天安門」参照)。この「ハンバッハ祭」は、1848年のドイツ三月革命につながる「三月前期」(Vormärz)への前奏曲となり、1848年のフランクフルトの予備議会、翌年の国民議会へとつながり、フランクフルト憲法に結実する(直言「ドイツ国旗はデモ隊の旗だった―「ハンバッハ祭」のこと」参照)。

   1849328日、この教会で開かれた国民議会でフランクフルト憲法が制定された。この憲法は施行されず「未完のプロジェクト」に終わったが、基本権のカタログが非常に充実していて、第6章「ドイツ国民の基本権」は131条から189条まであり、死刑廃止条項(139)やドイツ語を話さない少数民族の保護条項(188)まである。君主の権限を強く制限した立憲君主制の制度設計もすぐれていた。明治憲法のモデルとなったプロイセン憲法(1850年)は、フランクフルト憲法をかなり意識して、立憲主義的な要素を希釈する方向で制定された(直言「戦後最大の住民避難:フランクフルト――中欧の旅(その5)」参照)

    余談だが、植木枝盛の東洋大日本国国憲案は「パウロ憲法」(フランクフルト憲法のこと)を参照した形跡があり、死刑廃止条(45) をもつ。

    75周年を迎えるドイツ基本法102条は、「死刑は廃止されているものとする。」(Die Todesstrafe ist abgeschafft.)と定め、基本法制定によって死刑が廃止されたのではなく、死刑はあってはならないものとして、その存在理由を奪われていることを確認したものである。ナチスが軍法会議や民族裁判所によって万単位の死刑判決を出したことに対する深い反省は当然のこととして、実はヴァイマル憲法も死刑廃止条項を持たなかったのである。つまり175年前のフランクフルト憲法139条が「未完のプロジェクト」として、100年後の1949年5月23日に、ボン基本法102条として「再生」したと考えることもできるだろう。

    1849年と1949年という100年の時を隔てた2つの時代に生まれた2つの憲法の「連続と断絶」という視点は、実に味わい深い。今回は連続面を中心に述べてきたが、来週の「その2(完)」では、断絶面も含めて見ていくことにしよう。                                                                       【この項つづく】

《付記》文中のゴールドのブロンズ像は、英国の芸術家、ヘンリー・ムーアの作品で、「大きな2つのフォーム」(Large Two Forms)。
ボンの旧連邦首相府の庭に1979年、当時のH.シュミット首相の希望で置かれた。現在は連邦経済協力開発省になっている。『ボン:民主主義のトポス』(歴史博物館編)の表紙に使われている。

 
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