ベース(基地)の思想――朝日新聞インタビューへの補足
2024年6月17日

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66年タイムスリップしたら

ラマ『不適切にもほどがある』 が、TBS系で1月から3月まで全10話が放送され、話題となった。現代の「令和時代」(2024年)と「昭和時代」(1986年)を舞台とする「タイムスリップもの」である。通信機器の劇的な違い、企業(特に放送局)の法令順守(コンプライアンス)、各種のハラスメント、喫煙のルール(受動喫煙防止の有無)等々、38年間の急激な落差が人々にさまざまな反応をもたらした。若い層にも受けたようである(NHK朝ドラ『虎に翼』も同様)。視聴者の年齢に応じて、同感や共感の場面が異なるのも特徴である。現代における「不適切」な表現に対するイクスキューズのテロップが毎回挿入される。阪神・淡路大震災(1995年)が重要な意味をもつことを除けば、政治や事件絡みのことはほとんど出てこない。1986年は、国鉄・分割民営化が行われるなど、第3次中曽根康弘内閣の絶頂期だった。この作品は、「昭和時代」といっても、基本は中曽根政権の時代である。

    私は、戦争が終わった1945年に始まる「昭和20年代」の生まれである。同じ昭和でも、ドラマのように38年前でなく、66年前の昭和33年にタイムスリップしたら、また違った風景が見られるだろう。当時、私は5歳の幼稚園児で、テレビのヒーロー番組『月光仮面』を興奮して見ていた。母親にもらった古いベビーショールを白マントに見立て、サッとひるがえして月光仮面になりきっていた。ある日、友だち数名で遊んでいると、近くの商店のショーウィンドが割られ、米兵が何か大声で叫んでいる。すぐに駅前の交番まで警官を呼びに走った。だが警官は、米兵とわかるとすぐに帰ってしまった。警察官は「正義の味方」と思い込んでいたから、大いに落胆した。


朝日新聞のインタビュー 

    4月に朝日新聞の牧野愛博記者のインタビューを受けた。19974月に新ガイドラインの問題で取材を受けてから27年ぶりの再会である。朝日のなかでは独特の立ち位置(個人ページ参照)の記者である。自宅近くで会って、基地周辺を歩きながら語り合った。私の幼稚園時代の話が特に印象に残ったようで、記事のタイトルにまでなっていた(記事はここからPDFファイル)。

  この話は、19年前、朝日新聞社の雑誌『論座』(廃刊、web版へ)の「ニッポンの論客」(聞き手・伊藤千尋記者)でも触れられている。そこにはこうある。「五歳のときに月光仮面ごっこをしていたら黒人兵が酔って店を壊すのを見た。呼んで連れてきた警官は米兵を遠くから見てたじろぐだけだ。この瞬間に占領の力関係を悟った。「僕の軍事基地への違和感はこの幼児体験が大きい。沖縄の人々の気持ちもストンと腑に落ちる。平和志向は頭で考えたものでなく体に染みついたものだ」と言う。…」

  インタビューのタイトルが「米兵とわかると警官は帰った。水島朝穂元早大教授が護憲を貫く原点」という、ちょっとわかりにくいものなので、これまで書いた「直言」を使いながら補足をしておきたい。

 

東京競馬場と米第5空軍司令部

   「生まれたときから、私の周囲には馬がいた」(直言「ダービー前日のストライキ」参照)。同時に、私が生まれたときから、そこにベース(米軍基地)があった。米第5空軍司令部。米太平洋軍の傘下にあり、朝鮮戦争やベトナム戦争の航空作戦もここから指揮された。

   1940年に旧陸軍燃料廠が置かれ、私の実家の近くには、戦前、燃料廠職員ための営団住宅もあった。陸軍調布飛行場が近かったため、航空燃料の貯蔵、供給も行っていた。実家の物置には、「燃」と印字されたヘルメットがあった。最終講義の冒頭で、「わが歴史グッズ」第1号として紹介した。米軍は戦後の占領を見越して、府中の燃料廠を接収して司令部にする計画を持っていたようで、府中はB-29による空襲を受けなかった。北東4キロほどにある中島飛行機武蔵製作所は激しい爆撃を受けた。数キロ離れたところで、1トン爆弾の不発弾が、戦後63年たって発見されている。母が勤労動員で特攻機「剣」を作っていた東亜飛行機のある立川や、兵器工廠などがあった八王子も激しい空襲を受けているが、府中はP-51ムスタング戦闘機の単発的な機銃掃射が行われたにとどまる(私の自宅に12.7ミリ機関銃弾の跡がある)

   米軍は占領開始とほぼ同時に、府中の燃料廠を第5空軍司令部として接収した。小さい頃から、甲州街道の向こうの「ベース」には近づくなと母からいわれていたので、「ベース」は私にとって「異物」(Fremdkörper)だった。ベトナム戦争が激しくなる小学校高学年の頃、ヘリコプターの音が家の屋根を揺るがせた。そのあたりのことは、18年前の直言「体験的「米軍再編」私論(その2・完)」に書いたので参照されたい。

   1973年、関東地方の米空軍施設を横田基地に統合する「関東計画」が策定され、府中の米第5空軍司令部も、1975年には横田に移った。府中には、航空自衛隊の総隊司令部と気象群などが残った。米兵が闊歩した「平和通り」の横文字は消え、米兵相手の飲食店もなくなった。

   府中基地は、防衛庁のホームページでは“Fuchu AB”とある。Air Base(空軍基地)の略である(府中基地の変遷については「基地の沿革」参照)。


米軍基地から「平和の森」へ

   1982年に56万平方メートルある米空軍府中基地の3分割方式が打ち出された。北側の3分の1は大蔵省(現・財務省)が、南西の3分の1は東京都、南東の3分の1は防衛庁(現・防衛省)が利用することとなった。南西部分が19916月に「府中の森公園」となり、「府中の森芸術劇場」というコンサートホールのほか、市立美術館や中学校、市民斎場なども建てられた。芸術劇場は、学校などの音楽関係の催しにも使われている。京王線・東府中駅から「平和通り」を通って、参加する子どもたちの長い列が続くのが見られる(ちなみに、早稲田大学フィルハーモニー管絃楽団の定期公演も行われた)。米軍基地があった「昭和」の時代の「平和通り」とは風景が一変した(この写真は20065月に撮影したもの)。

   航空自衛隊の航空総隊司令部も、20123月に横田基地内に移転した。ちなみに、司令部がまだあった2004年~07年まで、第38代・航空総隊司令官は田母神俊雄で、府中基地に在任していた。彼はその後、航空幕僚長となり、20085月、自衛隊イラク派遣違憲判決(名古屋高裁)に対して「そんなの関係ねぇ」とお笑い芸人的発言をして顰蹙をかった「田母神史観」を唱える極右論客ぶりを発揮し20247月の東京都知事選挙に立候補する。

  なお、20219月、長らく放置されていた米軍通信施設跡が全面返還された。半世紀以上にわたり、住宅地のなかに突き出ていたパラボナアンテナは、伸び放題になった樹木の間にいまも、そのさび付いた姿をさらしている(20246月現在の写真がこれ)。東京ドーム3.2個分といわれるが、その跡地利用計画はまだ確定していない。目下、地元府中市で検討中である(『東京新聞』20221022日付)。

   この写真は、府中市生涯学習センター横の通信施設の入口である。左側は18年前の「直言」で使った写真だが、右側は先週撮影したものである。すでに日本に返還されたのに、なぜ刑事特別法2条[施設・区域を侵す罪]を明記した錆び付いた看板をそのままにしてあるのか。住民の一人として、ここを管理する関東財務局東京財務事務所に聞きたいところである。いま、ここに無断で立ち入れば軽犯罪法違反(拘留・科料)に問われ、懲役1年の刑事特別法は適用されないはずである。これは、あの有名な砂川事件で問われた問題だった。

    いま、米第5空軍司令部時代から使われていた正面の建物は解体されており、航空自衛隊の府中基地には、航空支援集団司令部、航空保安管制群本部、航空気象群本部、宇宙作戦群などが所在する。基地司令も女性の一等空佐であり、米軍がいた時代とは風景がまったく変わった。だが、「ベースの思想」は生きている。


「ベースの思想」を象徴するオスプレイ

   私の住む府中の「基地」は姿を変えたが、沖縄の基地問題は変わっていない。直言「「沖縄は日本ではない!?―米軍警告板の「傲慢無知」」でも書いたように、米軍の特権意識はいまも消えない。返還前、米軍車両は「太平洋の要石」“KEYSTONE OF THE PACIFIC”というナンバープレートをつけて沖縄県内を縦横無尽に走り回っていた。25年間で12水島ゼミの沖縄合宿で学生たちは沖縄各地を取材したが、コロナ禍で実施した最後の合宿では、コロナ規制に従わない米兵の姿を目撃している(直言「コロナ対策に「思いやり」はあり得ない―オミクロン株と日米地位協定」参照)。

    この傲慢さ、特権意識を支えているのが「ベースの思想」である。それを象徴するものの一つが、「未亡人製造機」といわれるほどに事故率が高いオスプレイだろう。米国本国で事故が多発して飛行が規制されているのに、これを2012年に沖縄に配備した。さすがの沖縄県民も怒った。沖縄・普天間基地に初めて配備されたときの沖縄の怒りを忘れてはいないだろうか(直言「メディアは沖縄をどう伝えてきたか―普天間のオスプレイ(1)を参照)。本土が沖縄の問題と思っているうちに、オスプレイは首都東京にある横田基地に10機配備されるに至った。直言「欠陥機「オスプレイ」が象徴するこの国の「安全」」をお読みいただきたい。202311月に鹿児島県屋久島沖で、米空軍のオスプレイが墜落して、オスプレイの飛行は全面停止になったが、今年3月になって飛行が再開された。だが、612日、米海軍航空システム司令部のカール・チェビ司令官は、米下院監視・説明責任委員会小委員会の公聴会で、オスプレイの全面的な任務再開が2025年半ば以降になるとの見通しを示し、「安全に影響する可能性がある問題に十分に対処するまで無制限の飛行運用には戻さない」と証言した(『中日新聞』(共同通信配信)613)。ところが、木原稔防衛大臣は14日の記者会見で、「オスプレイの安全性に問題はなく、運用停止を求める考えはない」と述べた(『毎日新聞』615日付)。米軍の専門的な部署の責任者が安全性に問題があると認識して飛行運用を制限するといっているのに、日本の防衛大臣が「安全性に問題はない」と断言してしまう。ここには、「ベースの思想」への迎合・忖度が度を越して、思考停止の域に達していることが見て取れる。


独立主権国家にあるまじき「横田ラプコン」

   オスプレイと並んで、「ベースの思想」を象徴しているのが「横田ラプコン」である。横田管制空域といわれ、東京のほか神奈川、埼玉など9つの県の空が、高度2450メートルから7000メートルまでの空間を6つのランクに仕切られて、米軍横田基地によってコントロールされている。日本の航空機はこの「空の壁」を迂回して、羽田や成田の空港を離発着しなければならない。まもなく戦後80年になろうとしているのに、いまだに東京の空は米軍の占領下にあるようだ。この問題について、中国・南京で開催された「第2回中国航空産業法治フォーラム」で講演した(直言「憲法9条と「日本の空の非常識」を語る」参照)。参加者は、東京の空が米国に占領されている現実を知り驚いていた。航空法特例法という悪法が、占領下から今日まで変わらぬ特権を米軍に与えている。まともな主権国家の政府ならば、かりに外国の軍事基地を国内に設ける場合でも、地位協定の改定を求めたりして、自国民の利益を実現するように努力するだろう。

   なお、かつて韓国の米軍基地(第2師団)所在の自治体を訪れたことがある(直言「在韓米軍地位協定の「現場」へ(2))。「在韓米軍地位協定」(SOFA)は米兵の犯罪について、韓国側に著しく不平等になっている。韓国には、不平等な協定の改定を求める動きがあるが、日本の政府は、地位協定の「運用改善」から一歩も出ようとせず、もっぱら米側の「好意的配慮」に期待している。米軍駐留経費負担率はドイツ約3割、イタリア・韓国約4割に対し、日本は7割超で、1978年度から「思いやり予算」を設けて、この5年間で計1兆円を超える。この違いはなんだろうか。

 
「ベースの思想」とは何か

   朝日インタビューにあるように、私の原点は、「ベース(基地)なるもの」への圧倒的違和感である。言葉の定義をしないで、その象徴的事例としてオスプレイと横田ラプコンについて書いてきたが、ここで私のいう「ベースの思想」について述べておこう。

   そもそもベース(基地)とは、軍事装置の拠点である。戦闘部隊だけでなく、さまざまな後方支援の機能が重層的に配置されている。米国は世界に800以上の基地を置き、45の国と地位協定を締結している。なぜそのような配置にするのか。それは、米本土をあらゆる潜在的な脅威から守るためである。軍を限りなく「前方展開」して、第一義的に米本土を防衛する。これが、米国だけがもつ「絶対的安全」の思想である。U.K.プロイスはその起源を、1814年の米英戦争中の首都ワシントン炎上に求める(水島朝穂『平和の憲法政策論』日本評論社、2017390-391参照)2001年の「9.11は、初めて米国の本土が攻撃されたわけで、「絶対的安全」が崩れた瞬間だった。直後に設置された官庁が、「国土安全保障省」(Home Land Security)だったことは皮肉である。

    この写真は、20年前に入手した米軍基地内の将校クラブのマッチである。「ベースの思想」を象徴するグッズといえよう。世界各国に配置された米軍基地については、それぞれの国との間で協定が結ばれており、国によっては基地内への国内法の適用を徐々に強めている(ドイツ、イタリアなど)。前述のように日本は半世紀以上にわたって、米軍の特権や減免措置、日本法令の特例や適用除外を依然として認め続けている。

   直言「なぜ日米地位協定の改定に取り組まないのか―「占領憲法」改正を説く首相の「ねじれ」」をお読みいただきたい。明田川融『日米地位協定―その歴史と現在』(みすず書房、2017年)の書評の形で、「日本区域の全土が、軍隊(米軍)の防衛作戦のための潜在区域」とみなす発想が、まさに日本についての「ベースの思想」である。明田川の言葉を借りれば、「小突きの序列」を経由して、本土の基地は沖縄へとしわ寄せされ、「無期限ないし半恒久的な基地のシマというリアル」が続いているのである。

    この絶望的状況のなか、616日の沖縄県議選では、有権者の半数以上が投票所にいかなかった(投票率は過去最低の45.26%)。「ベースの思想」に抵抗してきた県政与党が大敗し、共産・立憲は議席をほぼ半減させた。この状況をどう診るか。「台湾独立」を巧みに利用した「台湾有事」への危惧と戸惑いが反映しているともいえるが、政府の基地政策が県民に支持されたわけでもない。2023年の年頭の直言「沖縄を切り捨て、誰の「国益」を守るのか」で書いた、沖縄戦を原点とする県民の意識は変わってはいない。

   岸田政権は前屈姿勢で「米国の戦争」への関与を強めている(直言「「戦争可能な正常国家」――日米軍事一体化と「統合作戦司令部」」参照)。5年前に書いた直言「「日米同盟」という勘違い―超高額兵器「爆買い」の「売国」」を超えて、「一体化」は質的に進んだといえる。「迎合と忖度の日米安保」からの卒業の必要性を説いてきたが(直言「日米安保改定から半世紀―迎合、忖度、思考停止の「同盟」」参照)、この日米安保と基地をめぐる状況は、南基正(市村繁和訳)『基地国家の誕生―朝鮮戦争と日本・アメリカ』(東京堂出版、2023年)がいうように、日本そのものが「基地国家」であるという認識から出発しなければならないだろう。米国とともに、日本自身が「ベースの思想」をもって他国に対応する時代になりつつある。


文中敬称略】


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